| おもい夏の夜の闇が、山林にたちこめていた。 30メートルにもおよぶ桂の大樹の枝に、善住房光雲が、うずくまっている。 すでに、この樹の枝へ、彼は3日もとまりつづけていた。 3日の間、一滴の水も一片の食物も口にはしていない。 善住房が、千草超えの山道に織田信長を狙撃してから、すでに十日を経ている。 甲賀の孫八は、獣のような嗅覚をもって、善住房を追った。 これ以上、山林の樹につかまっていることは死を意味する。 善住房は全力をふりしぼって、桂の樹上から地に下りた。 長い長い時間をかけ、善住房は山林をぬけ出した。 (もう大丈夫) 右下に、鎌掛の山林を見たとき、善住房は、はっきりと自信を得た。 善住房が、水口の手前の今郷から左へ切れこみ、杉谷屋敷へ向ったころ、 夜は明けかかっていた。意外に早い。 (助かったな、ついに・・・) ここまで来れば、いかに孫八でも手出しはなるまい。 そこには甲賀忍びの掟が厳としてあるからだ。乳白色の霧の幕の向うに、 杉谷屋敷の表門が見えた。 門が、かたく閉ざされている。 善住房は満面に笑みをうかべ、空濠の手前から走り出した。 濠を飛びこえるつもりであった。 飛びこえたと見えた・・・・。 が、その瞬間に・・・・。 彼の身体は、声もなく空濠へ落ちこんでしまったのである。 これは、善住房が濠を飛んだ転瞬に、その濠の内側に貼りついていた人影が 長い棍棒を電光のように突き出したからだ。 空濠の底へ転落した善住房は、すでに気をうしなっていた。 「よし」 棍棒を突き出した人影は、甲賀の孫八であった。 朝霧が、はれぬうちに、善住房光雲は柏木郷の山中屋敷へ運びこまれた。 頭領・山中俊房は、すべてを孫八からきき、 「ようも捕らえた。なれど、このことを知った忍び四名は斬って捨てよ」 と、命じたものである。 彼らの口から、山中忍びが甲賀の掟をやぶったことを他へ洩らされることを 俊房は警戒したのだ。 夜が来た。 厳重にしばりあげられ、猿ぐつわを噛まされた善住房光雲が、まるで一個の 荷物のように布でつつまれ、これを約十名の山中忍びが馬に乗せ、山中屋敷を 出て何処かへ去った。 おそらく、岐阜の織田信長のもとへ送りとどけたのであろう。 岐阜城・大手前の広場に、土と石をもって、高さ6尺の処刑台が、もうけられた。 やがて・・・・。 高らかに大太鼓が打ち鳴らされた。 処刑台上の柱のまわりに薪が積み重ねられた。 善住房は、その柱へくくりつけられている。 (於蝶よ・・・) 善住房は、青く晴れわたった朝空の彼方へ胸の底から呼びかけていた。 (これからは、おそらく杉谷忍びの最後のはたらきともなろうが・・・於蝶よ。 お前だけは生きていてほしいな。生きていて、わしのかわりに、この世の中が どのようにおさまってゆくか・・・それを、よく見てもらいたい) 薪が、音をたてはじめた。 火がつけられたのである。 (於蝶よ。わしはな、いままでの生涯のうち、只ひとり、お前が好きであったよ。 ただもう好きであった。おもい切って、お前をつれ、杉谷忍びの境涯からぬけ出し、 どこか遠い国へかくれて、ひっそりと仲良う暮らしたいと、何度おもうたことか・・・) 薪のかたまりが、いっせいに炎をふきあげはじめた。 善住房光雲は微動もせぬ。 (あ・・・・) するどい痛みが五体をつらぬいたのも一瞬のことで、たちまち、善住房は絶息したのである。 このとき、織田居館のあたりでほら貝が高らかに鳴りわたった。 織田信長の出陣を知らすものであった。 信長は、 「先ず、横山城をさぐれ」 と、命じた。 五千の織田軍が陣をつらね、完全に小谷城との連絡を絶ち切ってしまっていた。 「本陣は、虎御前山へ!」 信長は馬上に鞭をあげ、凛然としていいはなった。 虎御前山は、小谷城の西方、すぐ目の前にある。 |