虎御前山

SOUND by MACHI
♪さよならの潮騒♪

虎御前山



虎御前山は、小谷城の南に孤立した丘陵で、一名を長尾山ともよぶ。
すぐ目の前に、大敵・織田信長の本陣をゆるしながら、浅井の本軍は小谷城 へ引きこもり、木戸・城塁をきびしくかため、あくまでも静かに織田軍の 動静を見まもっているのだ。
信長もまた、すぐに小谷城へ攻めかけることをせぬ。
信長は、すぐに命を下し、近辺の村々へ火を放たしめた。
だが、小谷城は依然、沈黙の中にとじこもっている。
夜になっても、村々は燃えつづけていた。
小谷山の上から、眼下にこのさまをのぞみ、浅井の将兵は激怒した。
「さわぐな」
浅井長政は、きびしく将兵の動揺を制している。

この夜ふけに、使番の上田権内から、
「いまは、甲賀に隠れおらるる六角義賢公の御使者がまいられた」
と、本丸にいる浅井長政へ申し出て来た。
「なに・・・六角公の使者だと?」
やがて・・・。
杉谷信正が、権内にともなわれ、長政の前へあらわれた。
杉谷信正は、このあたりの村の百姓姿で、長政のまえへ平伏している。
「六角公よりの添書、たしかに読んだ。そちたちが、われらのために 忍びばたらきをいたいてくれるそうな・・・」
「いえ」
と、信正がキッと面をあげ、強くかぶりを振って、
「浅井公の御為ばかりではござりませぬ」
「なに・・・?」
「われら杉谷家のために、織田信長の首を、ぜひにも討って取りまする」
「ほう・・・」
ここで、杉谷信正は、すべてを打ちあけた。
9年前の永禄4年。あの川中島合戦がおこなわれたときからの杉谷忍びの はたらきを、杉谷信正はつぶさにのべた。
「ふうむ・・・」
浅井長政も、戦乱の政局と戦場の裏面に、このようなすさまじい忍びたちの 活躍があったことを、
「いまのように、くわしく耳にしたことはなかった・・・」
むしろ、茫然たる面持になって、
「つくづくと、この身を恥じるおもいがする」
つぶやいたものである。
5年、10年先のために、いまは全く関係ない遠国の大名たちのうごきを 絶えず知っておかねばならぬ。それでこそ戦国のすぐれた大名であり、それでこそ、 いざという場合の失敗のない行動がとれる。
浅井長政は、このことを反省しているらしい。
(織田殿は、十年も前から、そのことに気づいておられたのだ)
いまさらながら、そのことに思いおよばずにはいられない浅井長政であった。
「それで?」
ややあって浅井長政が、杉谷信正に、
「そちは何をのぞむか?」
「われら杉谷忍びの、はたらきやすいようなおはからいをたまわりたし」

浅井長政と杉谷信正との”秘密の連絡”は、すべて上田権内を通じて おこなわれることに決まった。
「では・・・御武運を祈りあげまする」
信正の別れの挨拶をうけ、長政も、
「そちの武運も、な」
「は・・・かたじけなく」

そのころでは・・・。
於蝶が”ねずみのおばば”と、密談をかわしていた。
「於蝶よ。いざというときには、すぐさま、ここをぬけ出せるよう・・・よいかや」
「はい」
「では、また、まいるぞよ」
赤尾曲輪の木立から、伊佐木は消えた。

夜がふけた。
於蝶は、
「上田の叔父に会うてまいります」
と、ことわり、屋形の外へ出た。
天守の三階、浅井長政の居室では・・・。
地図を前に沈思している長政の前に、気に入りの侍臣・渡辺小十郎のみが ひかえている。
この渡辺小十郎を、杉谷信正は、
「むかし、どこかで出会うたような・・・」
そういったという。
(すると・・・小十郎は伊賀の忍びか・・・?)
於蝶は緊張し、呼吸をととのえ、厚い天井板の隙間から、渡辺小十郎を 見つめた。
実直そうな、しかも武勇にすぐれているらしい筋骨の所有者でもある 小十郎の右頬の黒子が、於蝶にはよく見えた。

本丸を退出して来る渡辺小十郎より先に、於蝶は潜入口から木立をぬけ、 山道の左側、つまり赤尾曲輪の石垣の陰へかくれた。
木戸を、渡辺小十郎が出て来た。
と・・・。
大広間の方角から、松明をかかげた足軽らしい男が槍を抱えてあらわれた。
うなずいた足軽と小十郎がうなずき合い、二人は何事もなかったように すれちがって別れた。
杉の樹上から於蝶はこれを見とどけ、
(よし、足軽を・・・)
闇の中を、尚も足軽はすすむ。
草原に、人影が一つ、浮きあがった。
黒い影が足軽へ走り寄った。
二人は、ささやきかわした。
暗闇の中で、於蝶は、この足軽の顔をはっきりと見とどけている。
黒い影は、うごき出していた。
崖ふちの岩には、すでに鉤縄がかけられてあった。
鉤縄をつたい、黒い影が崖上から消えたのを見すまして、於蝶は身を起した。
ためらうこともなく、於蝶は短刀で鉤縄を切断した。
忍びの悲鳴が、かすかにきこえた。
足軽が引返して来たのは、間もなくのことである。おそらく、杉木立から 山道へ出て見張りをしていたものだろう。
伏せていた於蝶の体が、むささびのように草原を走って、いきなり足軽の 両足をつかんだ。
「うわ・・・」
足軽の叫びが半分で消えた。
彼は、まっさかさまに谷底へ投げこまれていたのである。

翌朝。
上田権内が赤尾曲輪の屋形へあらわれた。
「おどろくな。悲しむではないぞ、於蝶どの」
と、いい出した。
「善住房光雲様が、岐阜城下にて火あぶりの刑にかけられたそうな」
「えっ・・・」
(ついに・・・善住房さまは逃げきれなかったのか・・・)

あのとき、19歳だった於蝶は、いま28歳の女ざかりになっているのだ。
(ああ・・・善住房さま・・・)
何人もの男の肌を知った於蝶だが、いま善住房光雲の死をきかされたとき、
(もう・・・もう二度と善住房さまのお顔を見ることはかなわぬのか・・・)
単なる思慕ではなかった。肉体をゆるし合わぬだけに、於蝶のような 女にとって、おもいはさらに哀しく激しかったのである。
「あっ・・・見よ」
上田権内が、突然立って彼方を指した。
「うごきはじめたぞ。織田の本陣が弥高を下り出したぞ」
小谷の城にほら貝が鳴りひびきはじめた。






メニューへ