| 息吹山の斜面から平野にかけて、びっしりとつらなっていた織田軍の
戦旗が、ゆるやかにうごきはじめた。 織田方には、まだ徳川家康が参加していない。 こちらがちからとたのむ朝倉軍も、それと前後して小谷へ到着するにちがいない。 長政が、一つの戦機と感じたのは、 (いまここで、徳川と朝倉の両軍が到着せぬうちに、わしと信長殿とが決戦を おこなったらどうであろう・・・?) と、いうことだ。 (決戦はやはり朝倉勢が到着してからのほうがよい) 浅井長政は考え直した。 たった一夜で弥高を引きはらい、織田軍が横山城を包囲したのは、こちらの 出撃をさそっているのだ。 そのことを、長政も充分に承知をしている。うかつに、その手へは乗れぬ。 夜が来た。 (渡辺小十郎は、どうしていようか・・・?) 於蝶は、苦笑いをした。 織田方への連絡をつとめていた、あの足軽と忍びが於蝶によってほうむられたことを、 小十郎は知るまい。 (小十郎め、きっとおどろき、あの崖の淵の鉤縄をたしかめに、いまごろは・・・) そう思うと、その渡辺小十郎の顔を見たくなりなり、於蝶は居ても立ってもいられなく なってきた。 隙を見て、於蝶は屋形をぬけ出した。 「於蝶よ」 突然、頭上の闇から声が降ってきた。 「あ・・・おばばさまか」 「いかにも」 「何か?」 「この城におるのも今夜かぎり」 「では、いよいよ」 「頭領どのが申すには、後のことはかもうなとのことじゃ」 「では、このまま、ここからおばばさまと共に山を下りまする」 「ところで、どこへ行きゃる?」 そこで於蝶は手短に、昨夜以来の事件や、渡辺小十郎のことを語った。 「いたぞよ」 伊佐木がゆびをあげた。 あの崖ふちの岩まわりを、小十郎は行ったり来たりしていた。 「よし・・・おばばにまかせておけ」 「はい」 と・・・。 「うわ・・・」 声もなく・・・。 渡辺小十郎は崖の下へ消えた。 「於蝶よ」 伊佐木の両手が於蝶の手をつかみ、にぎりしめ、 「共に死のうぞ」 「はい」 夕方から曇りはじめていた空であったが、このとき、風絶えて雨が落ちてきた。 伊佐木と於蝶の姿が、小谷城から消えた。 朝倉の援軍は、まだ到着していない。 この援軍をひきいるものは、総大将の朝倉義景ではなく、一族でもあり家臣でも ある朝倉景健であった。 浅井長政としては、このさい、朝倉義景が全力を投入して、こちらを援けてもら いたいところだ。 長政は、妻の兄・織田信長に、そむきたくてそむいたのではない。 あくまでも、むかしからの朝倉家へ対する義理を重んじ、信長に刃向かって いるのだ。 もしも、浅井長政という味方なくしては、越前の名家として天下に知られた 朝倉家の滅亡は眼前にありといってさしつかえあるまい。 同じころ、織田信長は、家康の強兵をたのみにすること多大なものがあり、 「まだか・・・まだ到着せぬか?」 と、毎日いても立ってもいられぬほどに待ちかねていた。 杉谷信正は、杉谷忍びの全員をあつめ、 「いよいよじゃ」 と、いった。 「於蝶よ」 と、伊佐木が、なまなましい夏の青葉のにおいにみちた木立の中にしゃがみこんで、 「ま、ここにおじゃれ」 「はい」 「いよいよ、じゃな。明日こそは、二人はなれずにはたらこうぞ」 「うれしゅうございます」 「まだ若い、お前を死なすにはしのびぬが・・・」 「何の・・・」 伊佐木は、さびしげに笑い、 「わが弟ながら、杉谷信正は強情無類」 と、つぶやいた。 生き残った十余名の杉谷忍びは、明日の決戦に織田信長の首を目ざして、 最後の突撃をおこなおうとしている。 |