| 甲賀を発して8日目に、伊佐木と於蝶は、相州・小田原の城下に入った。 夕暮れ近くなり、小田原へ入ろうとする街道で、於蝶が、 「おばばさま。法城院へまいられますのか?」 と問うや、伊佐木は強くかぶりをふって見せ、 「法城院と杉谷忍びは無縁となった」 伊佐木は断言をしている。 それは取りも直さず、杉谷家と山中家が目的の異なる忍びばたらきを 現在ではしていることを意味するものだ。 小田原城下を薄明のうちに走りぬけて、伊佐木と於蝶は相模の山野へ出た。 このあたりも、6年前に叔父と共に通ったところである。 「あまり急がぬでもよいわえ」 伊佐木がいう。そして種々のはなしを於蝶にきかせる。これからの”忍び ばたらき”の予備知識となるものといってよい。 伊佐木の足がぴたりと止まったのは、このときであった。 「於蝶。後からつけて来る男の面を見てくれよう」 と、伊佐木のくちびるが声もなくうごいた。 原野には夕闇がたちこめていた。 ぴったりと肩をならべて歩みつつ、 「よいかや?」 と、伊佐木のくちびるがうごく。 於蝶の眼が、うなずいた。 と・・・・。 二人が彼方へ去ったあとの野の道に、干魚のようにひからびた老婆の裸体が 横たわっていた。 伊佐木であった。 だが、先へ進む於蝶と肩を寄せ合っているのも伊佐木ではないか。 これを”蝉脱の術”という。 当人が”蝉ぬけ”したあと、同行者は”ぬけがら”の衣類を横ざまにささえつつ、 何気ない様子で語りかけたりしながらすすむ。 ”蝉ぬけ”は、尾行者を発見するためにも役立つ。 どれほどの時が経過したろう・・・。 伊佐木が”ぬけ落ち”た野道へ、横手の森の中から、ぼんやりと浮き出した 人影が一つある。 男であった。まぶかに笠をかぶっているので顔はわからぬ。 やせた小柄な旅の僧なのである。 「於蝶よ。ねずみどもを置き去りにしてしもうたわえ」 「残念でござりますな」 「うむ・・・われらの後をつけて来た者は、小田原へ入るまでたしか一人。 そやつが相模の原へ人数を集めて、われらを待ち伏せていたわけじゃ」 「おばばさまは、ごらんになりましたのか、そやつめの顔を?」 このとき於蝶は、はじめて問うた。 このときまでの二人は一瞬の間も無駄にすることなくうごきつづけ、 逃げつづけていたからである。 いま襲撃隊を指揮した旅の僧を、伊佐木は、 「甲賀の孫八よ」 と、断定したのである。 これは重大なことであった。 伊佐木と於蝶は越後の国へ入っていた。 その夜・・・。 春日山城下へ、6年ぶりに於蝶は足をふみ入れたのである。 上杉謙信がいる御主殿の南の濠に面した宇佐美定行の屋敷へ、伊佐木と 於蝶は微風のように忍び入った。 すでに、於蝶にとっては勝って知ったる宇佐美邸内であった。 井口蝶丸として春日山にいたころは、たびたび、この屋敷をおとずれている。 したがって宇佐美の家来たちには顔見知りの者も多い。 そうした家来たちに、廊下や縁側ですれちがっても、彼らは全く気づかぬ。 男装と女装のちがいもあるが、顔だちまでも変わって見える於蝶であった。 この於蝶からは、かつての井口蝶丸のきびきびした小姓ぶりを見出すべくもない。 あの岡本小平太さえも、於蝶を見てきづかなかったほどだ。 織田信長の岐阜進出のことをきいてから、宇佐美定行と伊佐木との密談は 緊迫の度を更に加えたようである。 秋も深まった或夜更ふのことであったが、 ひとり、先にねむっていた於蝶を、 伊佐木がゆりおこした。 「於蝶よ。いよいよ別れじゃ」 「おばばさまと?」 「いかにも」 「それは・・・・?」 「はじめはな、わしもお前と共に忍びばたらきするつもりであったが・・・ いまは、様子がかわったのじゃわえ」 「わたくしは、どこへ?」 「井ノ口へ・・・いや信長が新しき主となったる岐阜へ行けい。先ず、銭屋十五郎のもとへ、 な」 「で、おばばさまは?」 「うむ、うむ。かならずまた会えようわえ。わしも甲斐の国では死なぬつもりじゃ」 岡本家では、3年ほど前に父母を相次いで失った小平太が当主となっている。 「槍の小平太」 と上杉家中でも呼ばれるほどの勇士になっていた。 (おばばさまのおゆるしを得たことだし) 於蝶は、暗い城下町の道を歩みつつ、もう一度、小平太の顔を見てゆきたいと 思った。 (これがあの小平太どのかしら・・・?) 近寄って、のぞきこむと、まだどこかに少年のおもかげがのこっている。 「井口蝶丸でござる」 「これはまことか・・・まことに、そなたは井口蝶丸・・・?」 「身ぶりひとつ、顔のつくりで、小平太どのの目をあざむくはわけもないこと」 於蝶が、くすりと笑う。 どれほどの時が流れたろう・・・。 「もはや、空が白みかける・・・」 つぶやいて、於蝶が半身をおこした。 於蝶は、小平太の厚い胸板の汗をぬぐってやり、その胸肉へくちびるをつけて、 かるく舌でまさぐりつつ、 「傷あとがふえたこと・・・」 と、つぶやいた。 差しのべる岡本小平太の腕から身をさけ、於蝶は部屋の中から廊下へぬけ出しつつ、 こういった。 「御屋形様を、たのみましたぞ、小平太どの」 |