八 年 後

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♪さよならの潮騒♪

八 年 後



姉川の戦争から、八年の歳月がながれた。
織田の大軍は小谷城へ押しよせ、浅井長政も、おとろえつくした兵力をもっては 到底、これに立ち向うことができぬと知って、
「これまでである」
いさぎよく、小谷城に切腹をとげた。
小谷は落城し、長政夫人・お市の方は三人の女子をつれ、兄・信長のもとへ ひきとられてた。
これは、死にのぞんで浅井長政が、
「子たちのために、生きのびてくれ」
と、いいきかせたからである。
お市の方と共に生きのびた三人のむすめのうち、長女は豊臣秀吉の側室・淀 の方となり、次女は京極高次の夫人、三女は三度目の結婚によって徳川ニ代 将軍・秀忠夫人となる宿命をになっている。
ここに浅井家はほろびた。
次いで、朝倉義景も信長によって討滅されたのである。
その数年前に、織田信長がおそれていた大敵が次々に死んでいった。
 甲斐の、武田信玄
 中国の、毛利元就
 関東の、北条氏康
これらの、有力大名の死・・・・ことに武田信玄は、上洛を目ざして いよいよ腰をあげたときであったし、信長もあたまのいたいところであったわけだ。
のこる大敵・上杉謙信が北陸道から越前へ攻めこんで来ることを、信長はもっとも 警戒した。

天正五年・・・。
上杉謙信は、能登の七尾城を手におさめた。
長年にわたる北陸の平定も、七尾城攻略のよって大きく飛躍を見せたし、 関東も間もなく、
「わが手中におさまる」
との確信を得て、謙信は満足すると共に、大きな自信を得たというべきであろう。
それにしても、関東は、もう一息のところがむずかしい。
(そして、いよいよ織田信長を相手にせねばなるまい)
であった。
上杉謙信は、このころ、ひどく健康を害していたが、来年春の関東出陣を 前にして意気さかんであったという。
上杉謙信が、わざわざ京都から絵師をまねき、自分の法体の肖像画を描かせ はじめた。

そして、謙信は、
「出陣は三月十五日である」
と、発表した。
春日山城下は、かがやかしい関東出陣を前にしてわきたっていた。
岡本小平太もいそがしい毎日を送っていた。
小平太は34歳の壮年に達している。
だが、小平太には、いまもって妻もなく、子もない。
あの川中島合戦のおこなわれた永禄4年から、17年の歳月がながれていた。
彼の戦歴はすばらしいものであったが、立身や出世に対しては無関心の小平太 だけに、50名ほどの家来の主として、むかしのままの屋敷に住み暮らしている。
上杉軍の出陣の用意がすべてととのった3月8日の夜ふけのことであったが・・・。
すでに寝所へ入っていた小平太は、よくねむっている。
小平太は夢を見ていた。
彼は、於蝶と夢の中にいた。
「於蝶、於蝶・・・」
「小平太どの・・・」
すると・・・。
夢の中の於蝶の声が、現実のものと変って、
「小平太どの・・・小平太どの・・・」
寝ていた岡本小平太の耳もとへ入ってきた。
「あ・・・?」
小平太は、目ざめた。
「お、於蝶どのか・・・」
まさに・・・。
いつに間に忍びこんで来たものか、なつかしいひとの双腕が、ひしと自分の くびに巻きついているではないか。
「おぬし・・・い、生きておられたのか・・・」
「あい」
「まことか。これは、まことのことなのか・・・」
ねむり灯台のあかりを背にして、於蝶が小平太に寄りそっているのだ。
顔だちも、からだつきも十年前の彼女とは見ちがえるほどに肥っていたが、 かすれた甘い声音には、いささかの変化もない。
「わしは、いま、おぬしの夢を見ていた・・・」
「わたくしの名を呼んでおられましたな」
於蝶のことばは、十年前のそれとくらべ、あきらかに上杉の武将としての 岡本小平太に対する敬意がふくまれている。
「ああ・・・」
小平太は、ひろやかな女の胸へ顔をうめ、
「いままで生きていてよかった・・・おぬしに、また会えようとは、な・・・」
と、いった。
於蝶も小平太も、ひしと抱き合った。
ふたりが、はじめて身をゆるし合ってから17年の歳月がながれている。

「於蝶どの、さ、あれから11年の間に、そなたの身におこったことを 語りきかせてくれい」
「あい」
いまの岡本小平太は、宇佐美定行から於蝶が杉谷忍びの一人であることを 聞いている。
「その杉谷忍びも・・・」
と、於蝶は小平太の胸へ面を伏せ、
「姉川の戦場に、すべて死に絶えてしもうた・・」
「頭領・杉谷信正殿もか?」
「おばばさまも、みな・・・生き残ったは於蝶のみ」
8年前の姉川戦争の模様を、於蝶が語るにつれて、小平太は興奮に呼吸を あらげ、
「ざ、残念な・・・」
うめくように、いいはなった。
それにしても、於蝶が生き残ったのは、奇跡というよりほかにない。

内庭に面した障子が白く浮きあがって見えはじめた。
朝も近い。
「小平太どの・・・」
「何か?」
「私も、生まれ変わったつもりになり、いま一度、御屋形さまの御ために、 はたらいて見とうなりました」
「まことか、それは・・」
「いまの私には、頭領さまも、おばばさまも・・・たのみとする杉谷忍びも おりませぬ。ただひとりのちからにて、どこまでのはたらきができるか・・・ 心細いことなれど・・・なれど、敵状をさぐりとって、小平太どのの耳へ入れる ほどのことならば、きっと、やってのけられましょう」
「そうか、よし・・・よし、そうか!」
「また17年前にもどり、二人ちからを合わせて、御屋形さまのために・・・」
「於蝶どの・・・」
「いのちがけで、はたらいて見せましょう」
「たのむ、たのむぞ!」
「織田信長なれば、相手にとって不足はありませぬゆえ、な・・・」
いいはなったとき、於蝶の双眸にはすさまじい闘志がやどり、顔色が一変した。

出陣の日を二日後にひかえた天正6年3月13日の朝が来た。
「あ・・・小平太どのか・・・」
小平太の顔は鉛色に変じ、すこし前までの元気にみちみちた様子が消え果て、 まるで幽鬼のような凄壮さがただよっている。
「どうなされた・・・?」
「・・・・」
「小平太どの」
小平太がおもおもしくいった。
「御屋形が、いま、亡くなられたそうじゃ」
死因は脳出血といわれている。
ときに、上杉謙信は享年49歳であった。
「これよりは、御家も大変なことになろう」
葬儀がすんだ日の夜ふけに、岡本小平太は於蝶にいった。
「さて・・・於蝶どのは、これより、どうするつもりじゃ?」
ついに、小平太が切り出してきた。
「わたしよりも・・・」
と、於蝶が小平太の双眸をのぞきこむように顔をさしよせ、
「先ず、小平太どのの所存がききたい。御屋形さまが亡くなられたからには・・・」
「いかさま。上杉家はもはや、上杉謙信公あっての上杉家ではない」
「そうなって尚、小平太どのは上杉家にのこられますのか・・・?」
「亡き御屋形に、わしは、とどめを刺されているのだ」
それは、上杉謙信が卒倒する前日のことであった。
謙信は、この朝に岡本小平太を御主殿の居室へ呼びよせ、国重の短刀をあたえ、
「小平太よ。もしも余に万一のことあろうとも、上杉家の守護神ともなりて、 この春日山の城をまもりくれい」
こちらの胸の底へ、にじみこむような声でいった。
まさに遺言といってよい。むろん、小平太は平伏してこれを受けたのである。 まさかにその翌日、わが青春の情熱をささげつくした主人が急死しようとは 思いもかけぬことであった。
「あのときの御屋形のおことばをきいていなければ・・・そなたと共に、な・・・」
「あい・・・」
この夜。
於蝶が小平太にあたえた愛撫ほど、強烈なものはなかった。

翌朝になって、小平太が目ざめたとき、すでに於蝶の姿は屋敷内から 消え去り、小平太の枕頭に、彼女の書きおきがのこされていた。
朝の陽光に、吹き出たばかりの庭の若葉が光り、鳥のさえずりが春日山の 町を森を、山を野をみたしている。
於蝶は、こう書きのこしていた。
「・・・ただ一人にても、われは杉谷忍びの遺志をつぎ、織田信長を討たむ」
書きおきをたたんで肌身につけ、岡本小平太は縁先へ出て、朝空にうかぶ波の 雲を仰ぎ、その姿勢のまま、いつまでも立ちつくしていた。






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