| 小柴見宮内が、手兵をひきいて海津城へ入った翌々日。 すなわち8月22日・・・・。 「そろそろ、まいろうかな」 上田に滞陣していた武田信玄が、腰をあげた。 すでに朝の陽はのぼりきっていた。 武田信玄は、軍列の中央の輿に乗っていた。 輿の屋根からは薄布がたれてい、信玄の姿を隠してはいるが、そのうすい幕を すかして、特徴のある坊主あたまと肥やかな躯が緋色の法衣につつまれ、ゆらゆら とゆれている。 この輿のすぐうしろに、これも坊主あたまの五十がらみの武士が、黒い鎧をつけ、 黒地に金で鴉の群れ飛ぶさまをえがいた陣羽織を着て、つきしたがっていた。 この武将の左眼はつぶれている。 眼球はむろんのこと、まぶたから眉のあたりまで無惨な深い切傷がきざまれていたが、 堂々たる風采で、もし、この武将を宇佐美定行が見たら、 「おお、山本勘助・・・」 おもわず声をあげたろう。 山本勘助は、たしかに信玄がもっとも信頼する軍師であったが、宇佐美定行のあくまでも 上杉謙信のかげにかくれて事をおこなうのとちがい、いざともなれば勘助は手兵を ひいいて戦闘にも加わるし、軍議の席においても堂々の発言をする。 そのかわり、彼は領地も城も信玄からもらっていない。 立場こそちがえ、この二人の軍師は、それぞれの主が天下をつかみとるまで、 一命をかけてこれを助け、戦陣に勝ちぬいてゆこうとする情熱において、退けを とるものではなかった。 だあん・・・。 鉄砲の音が空気を引裂くように鳴りひびいたのは、このときである。 輿の中にいて、殺されたのは信玄の影武者の一人で本法寺忠右衛門という中年の 武士であった。 そのころ、茶臼山へ入る武田軍を鳥坂峠の森の中から見つめていた二人の甲賀忍びが いる。 新田小兵衛と、善住房光雲である。 「やはり、影武者であったな・・・」 善住房が、がっかりしたようにつぶやく。 「な、小兵衛よ」 「は・・・・?」 「もし、この戦で、信玄か謙信、どちらかの首がはね落ちてしまえば片もつこうが、 双方ともに生き残ったとなれば、多くの兵と軍力をうしない、共倒れにもなりかねまいて」 「これ、善住房さま。なればこそ、わられは上杉方に味方し、信玄の首をねろうて いるのではござらぬか」 「ほい、そうじゃったな。ときに・・・於蝶は元気か。ひと目、会うて行きたいものじゃな」 於蝶が、鳥坂峠の山林へあらわれたのは、戌の下刻(午後9時)をすぎたころであったろう。 「善住房さまは、そこにか?」 「おう、ここじゃ、ここじゃ」 二人は、草の中へならんで腰をおろした。 「善住さま。信玄の首は、いつごろにとれますのか?」 「さあて・・・とれぬうちに甲賀へもどらねばならぬ。何やら急の用事らしく、頭領どの から使いがまいってな」 「まあ・・・」 於蝶が用意して来た食べ物と冷酒を出し、二人は酒もりをはじめた。 善住房が於蝶の手をとって、 「於蝶よ。四十をこえたわしだが、好きな女ごは、お前ひとりじゃぞよ」 と、いった。 「ほんとうか、善住さま・・・」 「ほんとうじゃ。うちあけたとて、どいにもなるものではないが・・・いつか一度、 うちあけずにはいられなんだのじゃ」 「ま・・・・」 善住房が於蝶の手をはなし、両手で、しっかと彼女のまるい肩を押え、凝と こちらを見すえ、 「於蝶よ。このたびの戦の中で忍びばたらきは命がけだぞ」 と、押しころしたような声で、 「命がけだぞ」 と、善住房が念をいれたのである。 着物をぬぎ、前髪だちの頭にくくりつけ、裸体となって、於蝶は川をわたりはじめた。 千曲川の深みに達したとき、於蝶は、そのまま、うごかなくなった。 対岸の北の方から、人影が近づいて来る。 黒い影は、於蝶が沈んでいるすぐ前の河原まで、するするとやって来て、 そこにうずくまった。 うずくまったまま、あたりを見まわしている。 と・・・・。 対岸の堤に馬蹄の音がきこえた。 しばらくして・・・・。 堤の上に、人影が一つ。 月もない曇った夜空の下に、この人影が浮いて出たとき、於蝶は、 (あっ・・・・) 目をみはった。 この男は、上杉謙信の侍臣で、高井孫九郎というものであった。 翌朝・・・・。 宇佐美定行の指令があり、於蝶の井口蝶丸と岡本小兵太のニ小姓が、 大胆にも海津城と茶臼山の武田両軍の間を突破し、騎馬で妻女山・本陣へ 駆けつけたものである。 この日から、於蝶の井口蝶丸と岡本小兵太が当番となって謙信のそばにつき従った。 夕食の時刻となった。 高井孫九郎が、汁わんの載った三方をささげて彼方から近寄って来た。 と・・・・。 そのとき、孫九郎が、ふっとよろめき、三方が腰の太刀の柄頭に軽く当たった。 まさに、謙信が汁わんへ唇をつけようとした瞬間であった。 「しばらく」 「ごめん下されましょう」 いうや、於蝶が両手をさし出し 「あっ・・・」という間に、謙信の手から汁わんを取りあげてしまった。 「なにをいたす?」 この謙信の問いにはこたえず、於蝶がじろりと、高井孫九郎を見やった。 「高井孫九郎殿、汁わんの三方を持ち、こなたへすすみまいったるとき、 何やらにつまずきよろめいましたが・・・その折、なにやら黒い粉のようなものを 汁わんの中へ混じいれましたので・・・」 孫九郎が顔面を火のように赤くして、 「だまれ、だまれ。おのれ、この孫九郎を御屋形の前にておとしいれんとするか!」 「蝶丸。孫九郎に毒見をさせよ」 と、謙信がいった。 「蝶丸。孫九郎に、その汁を食べさせてやれ」 「はい」 於蝶が左手に汁わんを持ち、高井孫九郎の顔へ近づけたとき、 「ぶ、ぶれい・・・」 わめいた孫九郎が烈しく顔とくびをふって汁わんをたたき落とそうとした。 その、くびのつけ根を於蝶の右手がぐいとつかんだ。 仰向いて、あんぐりと開けた口の中へ、於蝶の左手のわんの中の汁が そそぎこまれた。 息をのんで幔幕の中の人びとが二人を見つめている。 夕空が淡く淡く夜のにおいをただよわせはじめた。 ごくり・・・と、孫九郎の喉もとがうごき、確実に汁が彼の腹中へ入った。 やがて・・・・。 ひくひく、ひくひくと、孫九郎の下半身がふるえはじめたとき、於蝶が彼の くびから手をはなし、さっと退いて上杉謙信のうしろへ寄りそうた。 「蝶丸よ」 「はい」 「ようも見やぶったぞ」 「おそれ入りまつる」 「年少の者に似合わぬ眼力。いささかもゆだんなき心がまえ。ほめてとらす」 「ははっ」 「これからも、余のもとをはなれるなよ」 「ははっ」 小姓・岡本小兵太は於蝶が「女」であることを知っているだけに、ただ茫然と して於蝶を見つめているのみだ。 |