その前夜

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♪17mile.mid♪

その前夜



それは9月7日のことであった。
於蝶と岡本小平太が夕刻かたら他の小姓と交替し、妻女山中腹の営所へ もどって来ると、
「蝶丸」
木立の中から新田小兵衛があらわれ、にこやかに呼びかけた。
「これは、父上か」
「いささか、はなしたいことがある」
「はい。では・・・」
於蝶は小平太を先に帰し、木立の中へ入って行った。
「今夜は、このあたりの村の女たちが酒や食べものをもって海津城の武田 陣営へおもむくらしい」
と小兵衛のくちびるがうごく。
戦陣が長引くと、村の男女が物売りにも出かけるし、売女たちもゆるされ れば陣所へ入って将兵をなぐさめることもある。軍規のきびしい武田軍に してはめずらしいことだが、あまりに上杉軍とも対峙が長引いているので、 「ゆるし」が出たものらしい。
叔父は、於蝶が村の女になって酒か食べものを売りながら敵陣へ まぎれこんで、潜入のてがかりをつかめといっているのだ。

「にごり酒」と木の実を入れた手桶を肩へかつぎ、わずかな忍び道具を 入れた皮袋を腰にさげ、於蝶は森の中から出て行った。
闇の中に、女たちの声がゆれうごき、近づき、遠ざかって行く。
於蝶も、彼女らとつかずはなれずに歩んた。
月のない夜であった。
冷え冷えと夜風がわたる。
虫が河原にも草むらにも鳴きしきっていた。
前方に、武田軍の前線が見えた。
物売りの者と売女が出入りをゆるされた時間は、わずか半刻(1時間) にすぎない。
それも場所が限られているのだ。
(さ、急がねばならぬ)
於蝶は「墨流し」の黒布を出して、身にまとい、しずかに、しかも素早く、 木立の闇をぬってうごきはじめた。
(まず、小柴見宮内の陣所をさがし出さねば・・・)
で、あった。
(こ、これは、きびしい・・・)
さすがの於蝶も呼吸がつまるようなおもいがし、木立の中で身をすくめた。

「うごくな」
と、墓地の闇の底から、おもく沈んだ声が、
「女忍びじゃな。ようもここまで入りこんだものよ」
闇が、急にうごき、於蝶を押しつつんできはじめた。
(もう、いかぬ・・・・)
はごしい絶望が、於蝶の五体を抱きすくめた。
だが、甲賀忍びは最後まで闘わねばならぬ。
最後まで闘うことによって「死への恐怖」を忘れねばならぬ。死を待つよりも、 死へいどみかかる、このほうがむしろ死への苦痛がすくないと於蝶は教えられていた。
「於蝶どのよ」
なんと・・・地の底から低い声が這いのぼってきたのである。
「だれじゃ?」
「私の声をお忘れかえ」
一間ほどの向こうの土がうごき、地中から黒い人影が浮きあがった。
「あ・・・もやどのか?」
「あい」
於蝶と同じ杉谷忍びの中でも数少ない「女忍び」のひとり、もや女なのである。
もやは、30をこえていたが、忍びとしての技量は於蝶よりも劣る。
しかし、彼女の豊富な経験には於蝶とても一目おかざるを得ないところだ。
「早う!」
もや女が於蝶を穴の中へ突き落とし、蓋をかぶせ、土と草を足でよせつつ、
「於蝶どの。さらば」
いうや、於蝶から受け取った刀をかまえつつ、じりじりと木立の中を 移動して行く。
武田忍びも、もや女の存在には気づいていない。もや女は於蝶の身がわりに なって死ぬ覚悟なのである。
(いまは、於蝶どのが生き残るべきだ。なぜなら、小柴見宮内の顔も声も 知っているし、すべてにおいて、私は於蝶どのよりも身体のうごきがにぶいゆえ・・・)
とっさに、決意し、穴の中から声をかけたものである。

於蝶は、宮内をゆり起こすと同時に、宮内の口を左手で押えた。
「小柴見さま。わたくしは上杉の手の者にござります」
宮内は、一瞬ためらったが、於蝶の耳にささやいた。
武田信玄は、いよいよ戦をしかけるための軍議をおこない、明夜を期して 作戦行動に出るというのだ。
その作戦とは・・・・。
武田の全軍を二手にわける。

(さ、急がねば・・・・)
於蝶は必死の形相となった。
山裾の畑道を、於蝶は全力をこめて走った。






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