| 於蝶からすべてをきくや、新田小兵衛は、すぐさま於蝶を伴って宇佐美定行の
陣所へ駆けつけた。 老軍師は、このことをきいて、 「でかしたぞよ、でかしたぞよ」 歓喜の声をあげ、駆けよって、ひしと於蝶を抱きしめたものだ。 「小兵衛、於蝶・・・おかげをもってこの定行、こたびの決戦に軍師のめんもくが たったわえ」 「もはや、お前のつとめは終った」 「叔父さまは・・・?」 「わしか・・・わしはな、戦さ忍びに出るつもりだわ」 「さ、於蝶。甲賀へ帰れ」 「いいえ・・・・わたくしは戦場にては、はたらきませぬ。このあたりの 村の女ともなって、そっと・・・そっと、謙信公や叔父さまのおはたらきを 見物させていただきたいのです」 「あぶないことを・・・」 「ふ、ふふ・・・甲賀・杉谷の於蝶にございますよ」 「むう・・・」 「勘助。上杉が別手勢に追われて川中島へ出るは何時になろうか」 「さよう」 山本勘助はしばらく眼を閉じて考え、 「卯の刻(午前6時)前ということはありますまい。いずれにしても朝の光りが みなぎりわたってからのことでござりましょう」 と、こたえた。 上杉の軍師・宇佐美定行に対して、 (勝ったぞ!!) わが作戦の成功をうたがわなかった。 (むかし、共に旅をして歩いたころ、おぬしとわしとは・・・この後、軍師として 名のある大将の下ではたらくようになり、もしも敵味方に分れて、功名をあらそうことに なったらおもしろいではないか・・・などと語り合うたことがあったな。その通りに なった。そして長い年月を、おぬしとわしとは武田、上杉の命運にかけてあらそい つづけて来たのじゃ。・・・そして、わしと信玄公がいつも、おぬしと謙信公に 煮湯をのませつづけてきたものよ。じゃが・・・じゃがな、、定行。まともに 大軍をぶつけ合うは、こたびがはじめてじゃ。はじめてで最後・・・どうやら、 このわたしの勝ちじゃな) と、勘助は宇佐美定行に胸の中でよびかけていた。 上杉軍が、濃い霧の中をうごきはじめる。 ときに謙信は32歳である。 「霧か・・・この霧だけは勘定に入れておかなんだわ」 信玄は苦笑をうかべた。 このとき武田信玄41歳。 両軍の銃声が、ひとしきり鳴りわたって開戦を告げる。 霧がはれていくにしたがい、川中島平いちめんに上杉軍が結集し、それが一丸と なって烈しく回転しつつ、錐をもみこむように突き入って来るのを見て、 「むう・・・」 さすがに、武田信玄もうめいた。 意外の近距離にまで、敵はせまっている。 新田小兵衛の「井口伝兵衛」は、九市たち甲賀忍びとは離ればなれになり、単独で 信玄本陣の在処をさがしまわっていた。 騎乗の新田小兵衛は、信玄本陣の南方にある丘の上へ出たとき、下の葦原から武田信繁 の数名にかこまれた。 小兵衛は一人であった。 黒の鎧、小屋兜の武装に身をかためた小兵衛は、いま甲賀の忍びというよりも上杉軍の 武士であった。 それが、小兵衛にはうれしい。 「叔父さま」 丘の木立の中から駆けあらわれた於蝶が、 「ごめん」 さけぶや、鳥がまいたつかのように小兵衛の馬へおどり上がった。 「於蝶。まだいたのか」 「叔父さま。あれを・・・」 と、於蝶がゆびをあげて、 「あの小高い丘が武田本陣」 「まことか」 「信玄がおります」 「そ、そうか。ようもさぐりとったな」 飛び降りた於蝶へ、 「早う去れ」 いい捨てた新田小兵衛は馬腹を蹴って丘を駆け下った。 「あっ・・・」 丘をのぼりかけた新田小兵衛が、馬上から転落し、草の中へ倒れ伏した。 敵の弾丸が命中したのである。 「う、うう・・」 うめきつつ、草の上へ半身を起こした新田小兵衛の口から血の泡がふき出していた。 「あ・・・・小兵衛さま」 駆け寄った九市が抱き起こすと、 「お・・・よう来てくれた」 小兵衛は渾身のちからをふりしぼって、信玄本陣を教えるや、 「これをさぐり出したは於蝶ぞ。よいか、頭領さまへ忘れずにつたえよ」 と、念を入れ、 「さ、早う謙信公へ・・・」 九市を突きはなすようにして、みずから草に中へ倒れこんだのが、新田小兵衛の 最期であった。 「御屋形様・・・・」 軍師・山本勘助が立ちあがり、 「この、しずけさが再びやぶれるとき、敵勢は、この丘の下へあらわれましょう」 と、いった。 「うむ・・・」 「それがし、これより出張りまする」 「行くか・・・」 「はい」 「たのむ」 淡々たる決別であった。 山本勘助は死を決している。 上杉謙信が、旗本20数騎と共に信玄本陣・前面の丘へあらわれたのは、 このときであった。 信玄にとっても、このような経験は、はじめてといってよい。 敵の総大将が只一騎で、わが本陣へ飛びこんで来たのである。 一瞬・・・・。 両雄は凝とにらみ合った。 永劫の時が、この一瞬に凝結したかのようであった。 「推参な!」 武田信玄が、ぴたりと軍扇を馬上の謙信へつけて叱咤した。 「曳! 曳!」 縦横に馬を乗りまわしつつ、上杉謙信はが閃閃たる斬撃をおこなうのだが、 あくまでも腰をあげぬ信玄には今ひとつのところで打ちこみがとどかぬ。 このとき、原大隈の槍の穂先が、放生月毛の尻を突き刺したのである。 狂奔する馬の背にゆられ、上杉謙信は本陣の丘から走り去ったのである。 夢魔のような一瞬であった。 川中島決戦のよる・・・すでに雨はやんでいた。 (暗い・・・暗いなあ・・・) その暗く、黒い闇の底に自分がいる、という意識が、夢の中をさまよっている ような岡本小平太へよみがえってきた。 暗く、しかも白熱した闇だ。全身が燃えるように熱かった。 のどが、かわき切って、 (どこだ。ここは、どこだ・・・・) 叫ぼうとするのだが、声も出ない。 「あ・・・井口蝶丸・・・」 声が出た・・・ような気がした。 「気づかれたな」 蝶丸の・・・いや、於蝶の声が、はっきりと、小平太の耳へ入った。 「おぬしが、たすけてくれたのか?」 「戦が終ってのち、八幡原近くの草原の中に倒れている小平太どのを見つけたのですよ」 「そ、そうか」 「それにしても、よう、おはたらきになったこと。ほめてあげましょう」 「うん、うん」 「わたしが善光寺の城まで送ってあげましょう」 「送る・・・?」 「あい。わたしも小平太どのと別れるときがきたのじゃ」 「蝶丸・・・」 「いつかまた、お目にかかることもあろう」 間もなく、於蝶は傷ついた小平太を背おい、闇の中を歩み出した。 途中、小柴見城の近くを通過したが、何か異常な緊張が、あたりにただよっている。 これは、上杉の負傷兵を小柴見方が城中へはこびこんでいたからだ。 まさか宮内が、信玄の戦死を信じてしまい、退却する上杉方を援助したなどとは 考えても見なかった。 「さ、小平太どの。この杖にすがって行きなされ」 にっこりとし、於蝶は別れの口づけを小平太にあたえ、くるりと身を返すや、 後もふりむかずに駆け去ってしまった。 |