甲賀の空

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♪17mile.mid♪

甲賀の空



於蝶は、ふるような蝉の声につつまれ、夏萩の花の咲く墓地裏の草に身体を横たえていた。
この6年の間に・・・・。
於蝶は、頭領杉谷信正の指令によって、さまざまな「忍びばたらき」をしてきている。
川中島決戦が終ってから、於蝶も九市も、甲賀・杉谷の忍びはすべて上杉家をはなれた。
いま、於蝶は、頭領さまの姉、伊佐木の住居に暮らしている。ねずみのおばばは、 70をこえてなお、元気にみちていた。
この伊佐木が、思いもかけぬことを於蝶にもらしたのは昨夜のことであった。
昨夜「ねずみのおばば」の伊佐木がいうには、
「於蝶よ。そろそろ、はたらき甲斐のある忍びへ出られそうじゃぞ」
「ま・・・わたくしが?」
「うむ。このおばばもな」
「おばばさまも?」
「実はな・・・昨日、頭領どのから談合があっての」
「まこと・・・そりゃ、まことでございますか?」
「なれど、こたびは命がけじゃ」<bR> 「あい」
「そなたは、川中島の大戦にはたらき、何度も決死のおもいをしたそうじゃが、・・・ こたびは、もっともっと、むずかしい」
「どのような?」
「ある男をひとり、殺す・・・」
「たれを?」
「うむ・・・」
伊佐木は、にっこりとして、
「そなたが一命を捨てても惜しゅうないと今も思いつめている男のために、 はたらくのじゃ」
於蝶の顔面が紅潮してきた。
於蝶の脳裡を、上杉謙信の精悍な風懇がよぎっていった。

昨夜のはなしは、そこまでであった。
夏萩が咲きみだれている草原に寝そべっていて於蝶の全身は火がついたように なってきはじめた。
(御屋形さまは・・・謙信公は、いま何をしておいでになるだろうか・・・?)
うっとりと、彼女は青く晴れわたった空をながめている。
6年前の川中島決戦において、双方の犠牲は大きく、しかも状態は以前のままと いってよい。
武田信玄の軍師・山本勘助も戦死をとげたそうだ。
上杉方の軍師・宇佐美定行は、まだ健在だときいている。
(なれど・・・・まことのことかしら?)
草いきれが香わしく、その夏草のにおいに酔いながら、
(おばばさまと共に、御屋形さまのために忍びばたらきをする・・・こんなに、 うれしいことはない)
そうなれば、また宇佐美定行の指揮下に入るだろうし、
(小平太どのにも会える・・・・)
あのときは、まだ少年だった岡本小平太も23歳の青年武士に成長している筈であった。
(小平太どの。もしも、お前さまが討死もせずに元気でいたら、また可愛ゆがってあげましょうな)
於蝶は、おもわず微笑しかけたが、急に顔の色を引きしめて、
(たれか来る・・・)
全身にそなえをかためた。

「おれだ」
草の間に男の顔がのぞいた。
杉谷忍びの市木平蔵なのである。
「起きるな、於蝶どの」
と、ささやいた。
「寝たままで、おれのはなしをきいてくれ、たのむ」
「よいとも」
二人とも、仰向いたまま草にうもれて・・・・。
しばらく無言であった。
蝉の声が、草原をかこむ木立にみちている。
「於蝶どの」
「あい」
「夫婦になってくれ」
「では、わたしに忍びをやめよと申されるのかえ?」
「好きだ。好きで好きでたまらないのだ。於蝶どのがほしい。ほしゅうてたまらぬ」
「わたしの何が、ほしい?」
「こころも、身体も、何も彼も・・・」
小柄で、背丈なども於蝶と同じほどだし、引きしまってはいても細い身体つきの市木平蔵に、 於蝶は魅力を感じていない。
あらあらしい呼吸を吐きつけつつ、市木平蔵が両腕に於蝶を抱きしめてしまった。
於蝶はさからわぬ。
平蔵のくちびるが、自分のそれに押しつけられたときも、これをうけ入れたものである。

どれほどの時間が、ながれたろう・・・・。
市木平蔵が、木立の中へ走りこみ、走りぬけ、丘を下って行くのを、ひそかに 見ていた者がいる。
その者は、林の中の、ひときわ高い杉の老木の幹に貼りついていたのである。
「ああ・・・」
ためいきをもらし、身づくろいをした於蝶が草の上へ半身を起こしたときには、 すでに"その者”の姿は杉の幹からも、木立の中からも消えていた。
(なぜ、あのようなことになってしまったのだろう・・・?)
於蝶は茫然としている。
(けれども、困ったことに・・・・)
於蝶は眉をひそめた。
(平蔵どのは、一命をかけてわたしの身体へ印をつけていった・・・)
困ったことにと考える一方では、何か胸の底から衝きあげてくる女のよろこびも 感ぜずにはいられない。
(それほどまで、長い年月を、わたしにおもいをかけてくれたのか・・・)
それが、うれしい。

「於蝶・・・於蝶よ」
どこかで於蝶を呼ぶ、しわがれた声がした。
杉谷源七が木立の中からあらわれ、
「おばばさまが、呼んでじゃ」
「え・・・?」
杉谷屋敷内の、伊佐木の住居へ戻ると、
「おお・・・墓参りかや?」
ねずみのおばばが、まだ昼寝仕度のまま寝そべっていて、手紙を書き終えたところであった。
「善住所房さまへ?」
「すまぬが使いをしてたもれ」
「はい」
「別に急がぬゆえ、ゆるりと、な・・・・」
にこやかにうなずきつつ、於蝶を見やる伊佐木の面上には、この愛弟子へかける 母のような、祖母のような愛情があたたかくあふれている。
(わたしが平蔵どのの妻になったら、おばばさまを悲しませることであろう)
しくりと胸がいたむ。
だが、杉谷屋敷を出たときの於蝶は全身に血をのぼらせ、こころよい興奮に 身をゆだねていた。







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