夜の戦士

夜の戦士



<<上>>
久仁は、ふっと目ざめた。
寝ぐるしくて、むしあつかった。
うすもの一枚すらまとってはいない久仁の裸身は、何枚も重ねた絹の 夜具の上で汗ばんでいた。
それに、彼女が寄りそって寝ている御屋形さまの体温は、いろりの 火よりもなまなましく熱い。
御屋形さまも眠るときは裸体であった。
「動くな」
眠っていたものとばかり思っていた御屋形さまが、いきなり久仁にささやいた。
「動くな。じっとしておれ」
眼をとじたまま、もう一度、信玄が久仁にささやいた。
久仁は緊張に青ざめ、身を固くして信玄の腕の中で息をつめた。
その夜があけ、まんじりともしなかった久仁が夜具の中からすべり出ようと したとき、信玄が眼をひらいていった。
「昨夜の曲者め、今夜もまた、やって来よう」
「なれど、何の物音もきこえませなんだ」
「ようも、この寝所の床下まで忍びこめたものだ。さぞ骨の折れたことであったろう」
寝あぶらに光っているふとい鼻梁を、しきりに指で撫でつつ、信玄は苦笑をもらした。

「御屋形さまは、きっと、わたくしたちのことを知っておいでになるに 違いありませぬ」
久仁は、男の胸に顔をうめ、声をふるわせた。
「おれも、とうてい上様の眼はくらませぬものと思うていた」
男は、嘆息した。
といっても、困惑しきって、もらした嘆息ではないらしい。やれやれ、ついに 見つかってしまったかという明るいあきらめがふくまれている『ためいき』なのである。 男は、丸子笹之助といって、太郎義信の近習である。
笹之助は26歳だというが、二つ三つは若く見える。
栗色の、なめした皮のような皮膚が顔にも体にも張りつめていたし、瞳は大きく、 御屋形さまの信玄によく似たふとい鼻に愛嬌があった。
「来い!!」
低く叫び、笹之助は久仁の手をとって、竹林の道を駆けのぼった。
ものをいうひまもなかった。久仁は、石垣の突端にたてられた毘沙門堂の中へ 笹之助によって押し込まれた。
「出るな!!」するどい笹之助の声が、堂の扉の向こうから飛びこんできた。

「笹よ。おぬしは、またもしくじったな」
孫兵衛が、十間ほど向こうの赤松のかげに半身を見せている笹之助へ声をかけた。
「裏切り者の笹よ」
孫兵衛は、一歩ニ歩と草をふんで近づき、
「おぬしはあの女に、体のみか、忍者の心まで吸いとられてしもうたな」
「笹よ。今日のことを忘るるな」
一声を投げつけ、孫兵衛はぴたりと笹之助に右眼の視線を射つけたまま、後退して行った。
(おれは久仁に手を出してしもうた。だが、今度はいたずら心とは違う。 おれは、はじめて久仁を見たときからあの女を・・・)
忍者としてもついに完成せず、その掟から脱出しようとかかっても徹底出来ない自分に、 笹之助は苦笑しつつ、右手の指で、左手に喰い込んだ『飛苦無』をえぐり出した。

丸子笹之助は、捨て子であった。
近江国甲賀郡・柏木郷の惣社として知られた若宮八幡宮の境内に笹之助は捨てられていた。
山中屋敷へ呼び出された岩根伝蔵に、山中俊房がいった。
「伝蔵の家には、まだ、子がなかったの」
「はあ、生まれぬ筈がござらぬので・・・」
「こればかりは仕方のないことよな。どうじゃ、子をひとり育ててみぬか」
笹之助は、すこやかに成長した。
笹之助のつぶらな双眸は、岩根伝蔵・小里夫婦の心をひきつけづにはおかなかった。
伝蔵が死んだとの知らせを、うけたとき笹之助は15歳になっていた。
笹之助の修行は、孫兵衛により根底からやり直しをさせられた。
岩根伝蔵が死んで2年後の天文20年の冬に、突然、小里が死んだ。
(おれには、岩根の父母より他に両親はないものだものな)
自分を捨てた父親の顔なぞは、考えてみたくとも考えられなかった。
(母どのの、あの温とい匂いは、忘れようとて、おれは忘れられぬ)

永禄元年3月ー。
23歳となった笹之助と孫兵衛に、大命が下った。
駿河の今川義元からの依頼であった。
「甲斐の武田晴信を刺すのじゃ」
孫兵衛は平然とうけたが、笹之助はやや意外な感もないではなかった。
「まず、笹之助を塚原ト伝のもとへ弟子入りさせるのじゃ」
数日後に、笹之助は常陸の国(茨城県)へ入った。
肩に木刀の袋を背負い、編笠をかぶり、たくましく陽に焼けた笹之助は、 見るからに武者修業の若者である。
「若者よ」
と、声がかかった。
「余はト伝じゃ、老人の根を弄うたな」
「は・・・」
「入門をしたければ、するがよい」
半月に近い断食に耐えた笹之助に、ト伝も興味をおぼえたものであろうか。
塚原屋敷での明け暮れは、まことに平凡なものであった。
いや、笹之助にとっては退屈そのものであったといってもよい。
「笹之助。今日から修業せよ」
ト伝が、そういったのは、夏もすぎようとするある朝のことであった。

崖から、谷水が流れに落ちている。
「その谷水を見よ、見つづけておれ」
「・・・・?」
「一年でも二年でも、見つづけよ」
「・・・・?」
「わしが育てた剣士たちは、いま諸国に散って、わしは弟子はとらぬ つもりであった。なれど・・・わしは、そなたの若々しい、好もしい・・・」
と、ここでト伝は苦笑をもらし、
「わしはの、そなたの眼が好きなのじゃ」
孫をいつくしむようなト伝の笑顔であった。
「敵を討つための剣法ではなくおのれの身を守るための剣法をな」
「おのれを守る剣法・・・」
「谷水を見よ。眠るときのほかはその流れる水の動きから眼を放すな。よいか!!」
「は・・・」
「それが出来ねば、この屋敷を去れ」
いいすてると、塚原ト伝は身を返して赤松の林の中に消えた。
(たわけたことを・・・)
笹之助は忍者の本性にもどり、舌打ちをした。
だが、自分が担う甲賀忍者としての『秘命』をなしとげるためには、ト伝のいうままに 従わねばならなかった。

その年も暮れようとするある日の朝のことである。
塚原ト伝は、数ヶ月ぶりに裏山の赤松林へやって来た。
笹之助は、ふり向き、近寄って来る塚原ト伝を迎え、平伏をした。
「どうじゃ、谷水の姿は?」
「水の流れが、一粒一粒の生きものとなって、その粒の一つ一つが・・・」
「よし、それでよし。水の流れがひとつの粒になって見えたと申すのじゃな?」
「はい」
「よし。これで、そなたの修業は終えたのじゃ」
4か月ぶりに体の垢を落し、衣服をあらためてト伝の前に出た笹之助に、
「そなたには、すでに剣をふるう力がついておる。そのすこやかな、たくましい 体を見れば、誰にでもわかることじゃ。あとは眼じゃ。よいか。おのれに 襲いかかる対手の武器、対手の体は、おそらく水の流れよりも容易に、そなたの 眼でとらえることが出来よう。それでよい、もうそれでよいのじゃ。よし、行けい」
「は・・・」
「そなたは、もしもおのれの身を託すとしたら、何処の大名がよいか。何という 大名に仕えたいのじゃ」
笹之助は、今こそと思い、全身の力をこめてト伝を見返した。
「私は甲斐の武田晴信公の家来となって働きとうございます」

武田晴信は、思いもかけぬ塚原ト伝の来訪を驚きもし、よろこびもした。
「死ぬ前に、上様のお顔にもお目にかかりたく、最後の旅に出てまいりました」
ト伝は、しずかに微笑をした。
「ト伝。最後の旅に、最後の秘太刀の真髄を、余にもう一度、見せてくれぬか」
ト伝は、いぶかしげに信玄を見返した。
「どうじゃ? あの男が、ぜひにもそなたとの立合いを許してくれと、こう申して きかぬのじゃが・・・」
「では、若き日のト伝が試合うてごらんに入れましょう」
「何、若き日のそなた・・・?」
「まず、おためし下されたし。あの若者、名を丸子笹之助と申し、ト伝が最後の弟子で ござります。もしも笹之助負けをとったるときは、ト伝が試合うてもよろしゅうござる」
「よし!!」
試合は、翌日の朝ときめられた。
「あの男のことを・・・ほれ、そなたが睨みつづけた谷水の流れだと思えばよいのじゃ」

信玄から拝領の礼服を身につけた笹之助は、迎えに来た信玄の侍臣3名にみちびかれ、 濠に沿った道を右へ曲り、高坂昌信の屋敷塀のところから、今度は左へ折れた。
(あ・・・孫どの・・・)
門へ入って行く笹之助を、孫兵衛はちらりとも見なかった。
「委細はト伝から聞いた。そちほどのものが武田家に仕えてくるるは、余も嬉しいと思う」
信玄は、まるみのある声でいった。
二人きりの対話である。
主殿のまわりには人影も無かった。
(今なら、討てる!!)
そう思う一方で、すでに笹之助は信玄に威圧されていた。
それから数日を経て、塚原ト伝は甲府を出発した。
「笹之助」
「はい」
「若者よ。悔なく生きよ」
力づよいその一言を残し、あとは振り返りもせず、馬上にすっくと背をのばし遠去かって 行った。
(塚原の殿!!)
思ってもみなかったなつかしさ、したわしさが胸にこみあげ、笹之助の眼はうるんできた。

「上様は、いつから、笹之助が怪しきものと見きわめられましたのか?」
「これじゃ」
信玄は、傍の手箱から、二つの鉄片を出して山本勘助に見せた。
その鉄片は、あの『飛苦無』であった。
「見よ。二つとも同じようでいて、形が違う。一つは、あの孫兵衛が笹之助に 投げたものじゃ。別の一つは笹之助が孫兵衛に投げたものであろうと、余は考える。 となれば・・・あの二人は共にこの館へ潜入しながらも、何かのわけあって 争い合うものと見ゆるな」
「上様。笹之助のことは、どうあっても、このまま、うちすてておかれますか?」
「いま少し、きゃつの様子を・・・いや、きゃつめと於久仁を弄うてみてやろう」
「上様・・・」
勘助は苦笑をした。
「笹之助が、おのれの恋と・・・そして、忍者として生きねばならぬ宿命とを、 いかに処置するかーこれは、見ものじゃ」
信玄は、くっくっと楽しげに笑った。

戦機は、まさに熟していた。
海津城の武田軍と、そこからわずか半里をへだてた妻女山の上杉軍とがにらみ合ってから、 すでに半月の余を経ているのだ。
武田信玄も上杉謙信も、永年にわたる闘争を、今度こそは決定的に終結させるつもりであった。
丸子笹之助が、このとき、武田太郎義信の部隊に加わっていたことはいうまでもない。
太郎義信が本営へ駆け込んで来たのは、このときだ。
「父上!!」
「太郎か」
「私めを・・・」
義信は、出撃をせがんだ。
「待て!!」
信玄は落ちついていった。
「笹之助は、ここに残れ!!」 と命じた。
丸子笹之助は、信玄から五間ほど後ろにたれた幔幕の裾にひざまずき、
(今なら刺せるぞ!!)
そう思っていた。
「笹之助はおるかー」
信玄が突然にふり向いたのは、このときであった。
「まいれ」
信玄の両眼が、近づいて行く笹之助を、ひたと見すえている。
(いかん。もう斬れぬわ)
「笹之助。もっと寄れい」
「はい」
ついに、床几へかけている信玄の膝もとまで摩り寄せられてしまった。
信玄が微笑した。いつもの、からかうような笑いではない。静かな平明な、 まるで我が子の我侭に眼を細めている慈父の微笑であった。
「笹之助よ」
「はい」
「まだ、余を斬れぬのか」
あっと、笹之助は蒼白になった。
本能的に身を退ろうとしたが、おどろくべき速さと力で、信玄は笹之助の 腕をぐいとつかんだ。
「そのままでおれ」
低い、落ちつきはらった声なのである。
「笹之助は、甲賀のものじゃな?−どうも、そのように思われるが・・・ 誰に頼まれたぞ?誰が甲賀へ、余の命を絶てとたのみに行ったのか?」
笹之助は、うなだれたまま、もう気力も体力も、すべて信玄によって もぎとられてしまったかのように体をふるわせていた。
「笹之助。甲府へ戻ったならば、於久仁と夫婦になれ。余がゆるす」
笹之助と信玄の視線が、ひたと空間にむすび合った。
雨が、はい然とけむりはじめた。
<<下>>
しきりに、鶯が鳴いていた
「今日も、よう鳴いておるの」
塚原ト伝は、居間の床の上にすわり、脇息に、うっとりともてれていた。
開け放した広縁の向うにひろがる庭の草は、すでに萌えたっている。
侍臣の柴原久右衛門が、薬湯の椀をささげて近寄って来た。
ト伝は、かすかにふるえる両手に椀を受け、
「そなた、このわしが・・・もはや眼前に死を迎えんとしておるこのト伝が、 こうして、日々欠かさず薬湯をのむさまを見て、何と思うな」
「はー?」
「さだめし、未練がましきやつと見えるであろう」
「いえ。めっそうもござりませぬ」
塚原ト伝は、この元亀2年で83歳という高齢に達していた。
いまのト伝の顔は、鉛色に重く沈み、肌のつやは、まったく失われていた。
むくんだその顔の中で、切れ長の双眸だけが、まだ光を消していなかった。
ト伝が床につくようになったのは、一と月ほど前のことだ。
ト伝は、にっこりとして、
「未練なのじゃ、この世への・・・この年になって、と、われながら呆れて おるのだが、いざ死ぬとなってみるとーほれ、その庭に芽をふいている 木や草の緑の色にも別れが惜しまれる・・・青い空や、流れる雲にもな・・・」
ト伝は、嘆息をもらした。
(それにしても、何という素直さー率直さであろうか。わが殿は、みじんも かざることなく、おれのような者に、平然と生への執着をお語りなされた。 一世の名人とうたわれた御方なるに・・・)
陽の光は、庭一面にみなぎっていた。
ト伝は飲みほした薬湯の椀を久右衛門に渡し、
「誰か、門外へ来たぞよ」と、いった。

「笹之助かー」
笹之助は両手をつき、
「お久しゅうござりました」
ト伝は、顔をあげた笹之助を一目見て、
「わしの病気を知ってまいったのか」
「房州より関東へ流れまいりましたる旅商人の口より聞き、駆けつけまして ござります」
「笹之助。立派になったの」
「むかしのままに、ござります」
笹之助は膝をのり出し、
「そのことよりも、今こそ殿に、笹之助は申しあげねばならぬことがござります」
笹之助は、ここに、すべてを告白した。
ト伝の双眸は、少年の無邪気な歓喜に似た興奮で、輝いていた。
笹之助は両手をつき、その手と手の間へ、低く低く顔を埋めつつ、
「おゆるし下されましょう」
うめくようにいった。
「そなたは、あのころのそなたと少しも変わってはおらぬ。十余年前、甲府の 武田館で、そなたに別れてより、わしが今まで心に思うていたそなたと、今 ここにあらわれたそなたと、寸分の狂いもないのじゃ」
「なれど、私は殿を、あざむきましてござります」
「あざむかれたことを、わしは、よろこんでおる」
「殿・・・」
雲雀の声が、屋敷外にひろがる田園の空へ、高く高くのぼって行った。
「その証拠には、笹之助。そなたは、ついに、わしをあざむいた言葉を真実の ものとして、武田信玄公へ仕える忠実な武士になり終せたではないか」
(あっ)と、笹之助は眼をみはった。
(人にあざむかれ、人に負くることも、殿のような御方にあっては、それが・・・ それが、やがては真実のものとして、殿の御手に、つかみとられてしまうのであろうか。 まことに、おれは、殿をあざむいた通りの男になってしまっているではないか。 あの時の嘘は、今となっては嘘ではなくなっていたのだ)
ト伝は「疲れた・・・」といい、笹之助に手をかしてもらい、床へ横たわった。
丸子笹之助が塚原の里を発って行った7日後ー塚原ト伝は、夜の眠りに入った まま、この世を去った。

孫兵衛は清松を一人つれて、甲府城下へ侵入した。
(信玄を襲ってみよう!!)
(わしの独断ゆえ、このことは甲賀の頭領様ですら知ってはいない。なればこそ、 まさに不意打じゃ)
そう思うと、孫兵衛の血はたぎりたってきた。
(笹よ・・・)
濠水の中にいて、孫兵衛は唇をゆがめた。
(おぬしのおかげで、何も彼も、狂うてしもうたわい)
闇の彼方に、孫兵衛は、はっきりと人びとのうごめきを感じた。
(見張りの忍者じゃな)
もう半刻もすれば、清松が火薬玉を笹之助の家に投げこみ、すぐに城下町へ 引き返して諸方に火を放つ筈である。
しんかんとした冬の夜更けではあった。
どれ位、時がたったろう。
孫兵衛は、ハッとした。
(可笑しいぞよ・・・)
清松が、もしや失敗を・・・と孫兵衛が思った瞬間であった。
奥庭の東の方から、いくつものがん灯の光が、いっせいに闇を照らしはじめた。

(死んでもよい。だが、此処で・・・この信玄の館のうちで、わしは死にたくはないぞ)
もう、信玄を刺すことはあきらめぬばならない。
(笹之助に、このわしの失敗った死顔を見せたくはない!!)
この考えが、同時に、孫兵衛の行動を支配したのだ。
孫兵衛は激痛をこらえ、奥庭の一部を南に向かって走り出した。
そのころ、丸子笹之助は信玄の居間にいた。
このとき、鋭い呼笛の音が本丸曲輪の方向へ一時に流れ寄った。
曲者を追いつめたものらしい。
(出来るなら、孫どのを逃がしてやりたい・・・)
ふっと、笹之助は思った。
子供のころの思い出が、笹之助の脳裡を、かすめていった。
甲賀の山や野で、孫兵衛が自分に強いた苛烈な忍者としての訓練のありさまを、 今でも笹之助は、まざまざとおぼえている。
笹之助は、孫兵衛が好きであった。
(おれも、早う孫どののようになりたい)
(たしかに、孫どのは、おれのために・・・いや。おれを教えこむためには 全力をつくしてくれていたようだ)
忍者として、現在は多数の部下をもつ身になってから、それが、はっきりと 笹之助にものみこめてきたのである。
(それだけに、おれの裏切りは、孫どのにとっては、たまらぬ口惜しさであったに 違いない)
だが、今はもう、すべてが遅かった。
まさか、清松一人を連れただけで、このように大胆な襲撃を孫兵衛が敢行 するとは、笹之助も思ってみなかった。
孫兵衛の行方は、ついにわからなかった。

春はたけなわであった。
開け放った客殿の窓いっぱいに、みどりしたたる樹林が、ひろがっている。
武田信玄は、客殿の床に横たわり、じっと両眼をとじている。
この寺を鳳来寺という。
「笹之助・・・」
低く、信玄がよんだ。
「近うよれ」
「はい」
ややしばらく、武田信玄は笹之助に顔を、まじまじとながめていたが、
「笹之助。これで、何も彼も終りとなったようじゃな」
といった。
「余のいのち終るときは、武田家のすべてが終るときじゃ」
「・・・・・」
「余の後に、余はないのじゃ」
「・・・・・」
「笹之助。三方ヶ原の合戦があってより、もはや三月もたってしもうたな」
「はい」
「あれより、余は野田城を攻め落とした・・・それが、精いっぱいのところであった」
鉛のように重く沈んだ信玄の顔の色には、まったく血の気がなかった。
三方ヶ原に徳川軍を打ち破ったその夜ー犀ヶ崖の陣営において、武田信玄は喀血をした。
「せめて・・・甲府へ戻ってから死にたいと、余は思うておる」

二万に近い武田の軍団のうち約八千が、駒場の宿駅を発し、甲府へ向かった。
しかし、残りの一万余は、信玄と共に駒場にとどまった。
「笹之助・・・」
声にはならず、唇だけがうごいた。その動きだけで、笹之助には通ずることを 信玄もわきまえている。
「永い間、苦労であった」
「・・・・」
「何も彼も・・・もはや終ったのじゃ」
「上様」
「夢じゃ!! 53年の夢にすぎぬ」
そして、信玄は、ふたたび眼をとじた。
「久仁を大切にせよ」
かすかに、信玄のつぶやきが笹之助の耳へ残った。
(上様は、ついに、お心をらくらくと・・・土へ帰られた。おれは、うれしい。 だが、これから、おれは何を目ざして生きて行ったらよいのか・・・)
間もなく、武田信玄の53歳の生涯は、この駒場の宿所において閉じられた。

部屋に、ぼんやりと寝ころんでいる丸子笹之助の体は、じっとりと汗ばんでいる。
(おれの体も、鈍ってきたようだな)
この1か月余の、茫然と寝ころんですごした月日が、笹之助の心身に影響を あたえぬ筈はない。
あたりにたれこめた夏の夜気が、じわりとゆれはじめたのは、このときである。
(や・・・?)
夜気がゆれている。
(いよいよ、おれを殺すつもりになったのか、勝頼様は・・・)
松林の中の笹之助の家は、今や完全に包囲されているらしい。
丸子笹之助は、闘いぬいた。
この夜、笹之助を襲った武田の士卒は百名をこえた。
最後の力をふりしぼり、逃げこんだ草むらの中に身を伏せ、
(これまでだ)
と、笹之助は覚悟をした。
「笹どの・・・」
蛇のように草をうねってきたものがある。
「おお。たよどのか・・・」
「奇縁じゃなあ」
たよは、忍び刀で、邪魔になる木の枝を打ち払いつつ、
「わたしも、父子ふたりを、甲府から救い出したことになるのじゃもの」
「な、何・・・」
笹之助は、もうろうとしかける意識の底から、はっきりと我に返った。
「で、では・・・?」
「おう。孫どのは、そなたの父御じゃ」

一年前の冬のあの夜、信玄襲撃に失敗し、瀕死の重傷を負って居館の外へ 逃れ出た孫兵衛は、たよに救われ、この洞窟へ運びこまれた。
「なぜ・・・なぜ、わしを救うのじゃ」
死魚のような眼をむいて、孫兵衛は、たよにたずねた。
「わからぬ」
「わからぬ?」
「あいなあ。どちらにせよ、孫どのの生死は、われら上杉家にとっては かかわり合いのないこと。それに・・・それに、あまりにも今夜の孫どのが 働き、見事であったゆえ、ついつい気がたかぶり、助けてあげる気になったのかも 知れぬ」
そして・・・。
一年後のいま、たよは、孫兵衛と同じように昏睡している笹之助のそばで、 紙をひろげ、矢立の筆をとって、しきりに何か書きしるしているのであった。
これは、孫兵衛の死の前後からはじまり、笹之助との秘密にふれるまでを、 こくめいに、しるしているのだ。
たよの長い手紙を、笹之助が発見したのは、翌々日の朝である。
「孫兵衛殿が、おれの父親であったと・・・」
(そうか。孫どのが、おれの・・・)
衝撃はあったが、感動はなかった。
悲しみも、わいてこない。
しかし、これから先、月日が経つにつれて、孫兵衛の死は信玄の死と同様、 丸子笹之助の胸の底に何らかのかたちで喰い入ってくることであろう。
人間の死は、月日の流れと共に姿を変え、そして定着するものだ。

(ぜひにも、久仁と和一郎のもとへ帰らねば!!)
それ以外に、いまの笹之助が求めるものは何一つないといってよい。
すべては妻と子に出会ってからのことだ。そこからまた笹之助の生きる道が ひらけて行くことであろう。
久仁と和一郎は、武州・多摩の山里に隠れている筈であった。
そこには、杉坂十五郎の父親が80に近い高齢をもって住みついているのだ。
(あれだ)
丹波の村へ入る手前の、古びた石の地蔵尊がまつられてある横手から小道が のぼっていた。
「おお!!」
丸子笹之助は、思わず声をあげた。
柵によりかかり、空を見上げている女と少年の姿を夕闇の中に、はっきりと 見たからである。
「久仁。和一郎・・・」






メニューへ