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(松葉杖男)
松葉杖をつくことで、周りの世界が一変した。通勤ラッシュに揉まれて、せ かせかと歩き回っていたサラリーマンが「松葉杖男」に変身したのだ。街中
を歩いていると、以前は人よりもかなり早足であった自分を、老人や子供が 、追い越していく。シルバーシートに座っていた老人に席を譲られることも
あった。
今朝は、骨折をしてから初めての地下鉄出勤だったが、会社のある永田町の 階段を昇っている時、狭い階段だから邪魔になったのだろう、後から昇って
きた貧相なサラリーマンが私の背後で「チッ」と舌打ちしたのが聞こえた。 怒りが込み上げてきて、振り返って怒鳴りつけてやろうかと思ったが、躊躇
した。喧嘩をすれば100%負ける。なんとなれば、私は歩くことも喧嘩す ることもままならぬ「松葉杖男」だからだ。安部公房の「箱男」という小説
があった。ある日、主人公の男が段ボールの箱の中に入り、「箱男」になる 。何でもない日常が、段ボールの箱に入って観察することで、別物に見えて
くる。「松葉杖男」に見えてきたのもそうしたこれまで見ていたつもりが、 まったく見えていなかった別の日常だった。
いつもなら何の気なしに昇り降りしていたこの「階段」が忌むべき場所に 変わった。営団地下鉄・永田町の階段は、14段、17段、21段と続き、
地上にたどり着いた時には、冬なのに汗がぐっしょり出ていた。昼時に入っ たラーメン屋の床も凶器になった。チャーハンやギョウザの脂が堆積した床
はヌルついて松葉杖の足が立たない。危うく転倒しかけた。
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(シェルター)

その存在が気になりだしたのは、骨折から一週間ほど経過した頃だった。毎 朝の通勤電車で乗客の一人一人の周りを硬いシェルターのようなものが覆っ
ている。 通勤電車の中では、いわゆる「シルバーシート」の近辺に立つようにしてい た。ことさら席を譲って欲しいわけではなかったが、松葉杖の人間がただで
さえ混み合った地下鉄の中でウロウロしているのは、目障わりなものだ。自 分の居場所を考えればこのあたりに立っているしか無かった。最近の地下鉄
では、「シルバーシート」に代わって「プライオリティーシート」という表 示が目立つようになっている。年寄りだけでなく、妊婦や体の不自由な人の
ための優先席という意味だ。その優先席の窓ガラスには、ギプスをして松葉 杖をついている私と同じ姿のイラストが貼られており、多少気恥ずかしさが
伴ったが、その掲示の前に立つことになった。しかし、松葉杖の人間が間近 に立っても、席を譲ろうとする人間はほとんどいない。最初はモラルの問題
かと思い、「日本人も堕ちたものだ」と嘆息していたが、原因は別にあると 思いはじめた。要するに目の前の松葉杖の人間が、目には映っているのだが
、見えていないのだ。硬いシェルターが、視神経と脳髄の間を遮っている。
電車の中で、人目はばからずいちゃつくアベックも、ヘッドフォンを耳に虚 無僧のように外界から自分を遮断している若者たちも、子供の運動会で自分
の子供だけにカメラを向ける若い父親も、皆このシェルターに覆われている。そう思って、通勤電車の乗客を眺めると、このシェルターが車内全体を棺
桶のように覆っているような考えに囚われた。地下から地上へと続く長いエ スカレータは、表情の消えた人々を静かに運んでいく葬列のようにも思えた
。
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(タクシードライバー)
「はい、どうぞゆっくりでいいですよ、松葉杖じゃご不自由ですね、急がな いでゆっくり乗ってください。ドア閉めてもよろしいですか。承知しました
、北千住の千代田線の乗り口までですね」
「どうされましたお客さん、その足は、スキーですか」
「えっホームから落ちた?そりゃ危ない、電車が来なくてホント良かった」
「人生ってほんとに紙一重ですからね、あたしも色んなことやってきました けど、うまくいくも、まずくいくも違いは紙一重、運みたいなもんですよ、
お客さんは運が良いんだ」
「こう見えてもね、昔は事業をやってたこともあるんですよ。社員は10人 くらいでしたけど。でも会社の社長はもうこりごりですよ。昼は金策に走り
まわって、夜は夜で社員の給料の心配やら取引先のことが頭に浮かんでなか なか寝つけない。まあ、社長って柄じゃなかったんでしょうね。女房も今の
方が気楽だって喜んでますよ」
「ホラこんな道は、ご存じないでしょう。地元の人間しかしらない抜け道で すよ。いや、じつはこの辺の出身なんですよあたしは。女房の方は富山の出
ですけどね」
「景気ですか・・・いや良くないですね。ウチなんかは多少稼ぎが悪くても 子供がいないからまあなんとかなりますけど、ローン抱えた奴なんか大変で
すよ」 「でもね今月でタクシー稼業からは足を洗おうと思ってるんですよ、ちょっ とした計画がありまして」 「いえいえ会社やるのはもうこりごりですよ、女房の実家に戻って喫茶店で
もやろうか思って物件探してるんです。とりあえず暮らせるだけの現金収入 さえあれば、いいかなって。農業やってますから、野良仕事を手伝えば米や
野菜には困らないんですよ」 「そこでどっちかが死ぬまで、客が来ても来なくてもかまわない喫茶店でコ ーヒーたてて暮らすのも悪くないかなって。あたしが先に死ねば後は女房の
実家ですから何の問題もないですが、女房に先に死なれたら、考えているん ですけど、家財道具売っぱらって上野の山に行こうかなと」
「上野ですよ、ほら段ボールで暮らしている連中がたくさんいるでしょう」 「昔、あそこで暮らしていたという友人がいまして、聞いたんですがそこそ
この貯えを持って、あそこで暮らしているのが結構いるらしいですね。たま には海外旅行もしているとかなんとか、まあふざけた話しですけど」
「アベコーボーえっ誰ですか。ハコオトコいや知らんですね。そんな小説が あるんですか。でも今は段ボールだけじゃなくってテント張って暮らしてい
るのがいますよ」 「おまちどうさまでした、着きました。領収証はどうされますか。どうです かいつもより多少早かったですかね。ゆっくり降りてください。急がないで
よろしいですよ。ありがとうございました、お大事に」