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そめどの地蔵(染殿院)
京都市中京区四条通寺町東入
(阪急電鉄「河原町駅」から徒歩約5分) |
染殿院は大同3年(808)春、空海(弘法大師)の開基にして入唐帰朝の後、当院に留まり十応心論を清書調巻されたことから十住心院と称した。
昔は、釈迦院或いは敬礼寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。
本尊は地蔵菩薩にして高サ2m余の木彫裸形の立象にて秘仏である。
ここが安産の守護となったのは人皇五十五代文徳天皇(850〜858在位)の后・藤原明子(藤原忠仁公の息女)は天皇より一手にその寵愛を受けていたが、ただ一つ皇子が授からない悩みがあった。
明子が懐妊するかどうかは彼女だけでなく、父良房の地位、ひいては藤原一門の運命がかかっていた。 |
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そんな折、四条の地蔵菩薩が子宝にご利益があることを聞きつけ、早速地蔵堂に参り17日の願をかけたところ、満願の日に明らかに懐妊の兆候があり、10月10日ののち明子は男の子を出産した。後の清和天皇である。
これが縁で宮廷において摂政関白を独占し藤原王国が築かれたのだった。明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって、染殿地蔵尊と称された。 |
| 嵯峨天竜寺開山夢窓国師が松尾に西芳精舎(苔寺)を創し、泉水の美観を好み築山の構えを営もうとしたとき、石は重く大きく少しも動かなかったが、たまたま一人の僧が忽然ととして現れ、ただ一人で自由に大石を動かし、国師の意の通り庭園を作ったので、国師は歓喜のあまり何かお礼をしようかと思案したが、幸いにその僧は袈裟を持たないのがわかったのでこれを進じようと自ら着けていた袈裟を贈った。その僧はその袈裟を受け、錫杖を地に立てたまま消え失せたのである。
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後日国師が四条の辺りに托鉢し、たまたま四条京極の染殿地蔵堂に詣り、御扉を開けて拝すると、先の袈裟は地蔵菩薩の肩にかかっており手に錫杖はなかったので、疑うところもなく件の僧はこの地蔵の化身であったことを知り、国師は感激の涙を流されたということである。 |