☆みちのく歴史案内☆
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岩盤にほりぬかれた洞窟に毘沙門天をまつる。 坂上田村麻呂が建立したといわれる。 ○達谷窟毘沙門堂縁起(頂いたパンフより) およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に城塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振る舞いが多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。 そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清美関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。 延暦20年(801年) 大将軍は窟に籠もる蝦夷を激戦の末うち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、ついに蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。 翌延暦二十一年(802年)には、別当寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。 降って前九年後三年の役の折には、源頼義公・義家公が戦勝祈願の為寺領を寄進し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。 文治五年(1189年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂を参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。 中世には七郡の太守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(1490年)の大火で消失するが、直ちに再建された。 戦国時代には東山の長坂家より別当が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火に罹り、岩に護られた毘沙門堂を除き、堂塔悉く消失した。 慶長二十年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂は立て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されていた。 昭和二十年隣家から出火。御本尊以下二十数体を救い出したが毘沙門堂は全焼した。 昭和三十六年に再建された現在の堂は創建以来五代目となる。内陣の奥に慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師作と伝えられる御本尊・吉祥天・善膩子童士を秘仏として納める。次の開帳は平成二十年となる。毎月三日の月例祭・春秋の大祭を始め多くの祭事があるが、特に正月元旦から八日まで行われる修正会は慈覚大師から恵海大和尚が伝え、千余年も続く神事である。 |
| 達谷窟 場所:岩手県平泉町 |