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ここには、色々な物があります。詩だったり、人生哲学だったり、物理学、 文学、人文学、電子工学、ソフトウエア工学、そんな浅く幅広い世界がここにあります。
無責任自己主張モード炸裂、 自我インフレーション開始、アフタバーナー全開(なんのこっちゃ)...
インターネットの世界で、よく転がっているあの手の哲学系ページです。でも、論理的思考は無理...精々、 若干性格が良といったところ。でもなんか、最近、掃き溜め化している。えへ。
注1) 例外に漏れず「だと思う」という表現は、正しいかのように断定的に「〜である」や「〜だ」として表現 するので一々イチャモン付けないように。物事正しいものなど何一つ無いのだから...
注2) 私が作り出した造語もあるので悪しからず。日々、全ては更新されるし、 間違ったことでも大真面目に語っているので注意されたし、というか、ほとんどがいい加減?、いや、良い加減?...
注3) 極々たまに、極秘の世界観を語っている場合がある。 理解できなければ良いのだが、運良く?理解してしまったら自己責任ということで対処願いたい。
注4) 自由奔放に書いているので、内容が、あちらこちらへと波状しています。全てのセンテンスを的確に理解すると、 真意を見失うかも。木を見て森を見ず、森を見て木を見ず、どちらも良くないね。
注5) 間違っても、「こいつは、訳分からんことをホザく、ガイキチ君」なんて思わないこと。如何にガイキチ染みたことを言いつつも、ガイキチでない程度を保つか?。そして、「何かそこにないかなぁ」といったことがこのページの真の目的なのだ。自動書記だ、神の声が聞こえるだ、神秘学だ、悪霊だ、山が稲穂が燃えるだ、といったことを目指すのだ。
注6)大抵は、いい加減だが、たまには正確に言い当てることもある。そんだけ、敏感てこと。
注7)私は、書籍等から、一旦知識として吸収すると、自己の知識であったかのような錯覚を起こしてしまうので、...。悪気は、無いんだけどね。というわけで、変な勘違いは、しないように。あとで痛い目見ても知らないよん。
だけど、一字一句正確に読んでくれれば、何を知っていて何を知らないかは一応正確に記したつもりですけどね。「らしい」とか、「だから...」とか、「〜だそうだ」とか。それに対して「〜かも知れない」との表現は、知らないとの意である。
注8)エゴの領分で考えるのは極力止めよう、と思ったけど、後々読むとかなりエゴの領分で思考している一面も。でも、そのまま残しときます。...私のエゴも十分育ってます。(^^;
注9)どうやっても、私は、文を名詞化しないと、表現できません。「〜事である。」とか。頭腐ってるのか、さてや、正確なのか?。確かに読み辛いでしょう。
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お題目 日付 推測科学&瞑想科学
推測して当った時くらい嬉しい物はない。故に、無責任。単に、思いに耽った科学。記憶作業
2002年5月7日 シンクロニシティ
2002年1月1日 私の自我論
11/23更新 2001年10月17日 霊現象ほか
2001年 9月 5日 詩かもしれない
うーん、やっぱり詩にならない。いじめ
2003年2月15日 昔見た世界
2002年9月2日 扉
2002年9月1日 生と魂と死と宗教と そして神
2002年7月8日 光
2002年5月7日 信心と疑心
2002年5月7日 真実
2001年11月30日 イメージ
2001年11月24日 曇ったガラス箱
2001年 9月30日 幼子
2001年 9月30日 負け惜しみ
(コンピュータプログラマ編)2001年 9月10日 酔いしれる
2001年 9月 9日 復活
2001年 6月 2日 季
2001年 5月27日 読書
読むのは遅いし、読解能力はないし...誰か、読んで聞かせてくれれば...実は、語る能力もない。田口ランディ三部作
2001年 5月28日 屁理屈学もしくは理屈
私に対して「語りえぬものを語るな」なんて指摘は、止めといて。所詮、無理だから。(笑)CPUが遅い
2002年7月8日 夢と現実
2002年7月8日 ブラックな論理世界
2002年5月7日 お空が暗い訳
2001年 9月30日 愛+理想=0の図式
2001年 9月16日 「物」という抽象概念
2001年 9月 9日 DEATH
2001年 5月27日 生き抜く為の哲学
生き抜く為の哲学が語れない哲学は、偽物だ。
by 妄想世界の管理人鏡
2003年3月20日 もう、そう?
2002年9月2日 思考
2002年7月8日 外面一枚、されど外面一枚
2002年7月8日 哲学と心理学が好き
2002年5月7日 解釈
2002年5月7日 価値
2002年5月7日 独我論
2002年5月7日 ウィトゲンシュタインとか
2001年 9月 5日 全ては無価値
2001年 8月11日 劣等感とか
2001年 7月31日
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いじめ
虐めって楽しいよねえ。爽快だよね。面白いよねえ。気持ちいいよねえ。弱いものを寄ってたかって、尖った棒の先でじくじく突っつく。悶え苦しむその様を見ていると気持ちいいよねえ。楽しいよねえ。快楽にも似た喜びを感じるよねえ。えっ、感じないって。ほんとか?、えっ。痛そうで辛そうで、その不幸さは見ていられないってぇ。可愛そうだって。確かにそう見えなくも無いが、うーん、見ている限りでは快楽だね。その不幸さ加減、苦痛さ加減は、美しく快楽的でもあるんだけど。おかしいなあ。
そうなのか、虐められるのは辛いのか?。じゃあ何故やられている側はおこらない、いからない。嫌なら、嫌といえ。じゃないと、気持ちいいのかと勘違いしちゃうぞ。全く。
ふーん。不幸は美しく楽しく酔いしれるものかと思ったぞ。神の無秩序に耐え忍ぶヘラクレイトスが己の不幸の美しさに取り付かれて、悪循環に陥ったナルシッソス君の親友になったのか、と思ったぞ。間違っても、なわきゃない。
一応私は、いやだと感じている人間に不幸を与えない、と約束はしておく。が、既にここで破っているという疑いも...
うーん、悪循環ナルシスト、とSになりそうだ。(笑...いや、笑ってくれ頼むから)
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私は虐めも、虐められてもいないのでよろしく。何せ、鈍感なので...いや、あえて鈍感を装っているので、自分が虐められている事に気付かないのでした。(^^; おいおい、じゃ、気付いてんジャン。(TーT) うそぴん。
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昔見た世界
あれ程までに厳密に動いていると思った世界が もはや 馬鹿げた幻想でしかない
何故あれほど この世界が厳密に動いている と見えたのだろう 錯覚したのだろうか
すでに理由を問うことすら難しい
どれほど 世界が厳密に動いていると感じたことか 今 言い表す言葉さえ見つからない
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これは、完全なる事実。私が昔々体験したことそのもの。神経質気味の人の世界観かもしれません。要は、その対象が私にとってどう見えるかが問題なのだ。
貴方には、今の世界、社会がどう見える。えっ。
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もう、そう?
理由を知らないと、ありとあらゆる妄想やら想像が湧くのだよ。無知は、狂気を呼び覚まし、また、理由を与えさえもするのだよ。だが、狂気の量は、半端じゃないぞ。知識と思考力で武装しない限り、その不安定な状況からは脱出できないぞ。
「この魚は当たるんだ」と食う前から思っていれば、見事、偽食中毒に当たるもんだよ。
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扉
何が見えるの?
世界が見える 全てが見通せる
まるで 人の心までも
そして 悦楽と絶望も
何が聞こえるの?
世界が聞こえる 世界が語りかけてくる
ついでに 闇の世界にいるもう一人の自分の声も
何を感じるの?
快楽を感じるの 絶頂を感じるの
そして絶望も
論理が消える 概念が消える 言葉が消える
何故と問うことが出来ない 言葉がうまく使えない
世界が鎔けだす
目覚め...それは悦楽と絶望の悟性の覚醒
人はそれを 狂人 変人 天才 鬼才 ガイキチ と呼ぶ
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注意しろ。うーん、意味ありげ。
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CPUが遅い
CPUが遅い。果たして本当にCPUが遅いのか?。
私は、CPUクロックが2、4MHzであったときからPCを使い続けてきている。が、しかし、全然PCが早くないのだ。いまやPCのCPUクロックは、1、2GHzの時代だ。なのに全然早くない。CPUクロックは、1000倍されても性能は、たかだかワープロ、表計算。そんなのは、10年も20年も前から出来てんだ。確かに多少は融通が利くようになったが、劇的に何か改善されたかといえば、そんなことはない。3日でやる仕事が、2,3時間程度に、幼児言葉が大人言葉に、なったくらいだ。そんな些細な差は、潔癖的な人間が気にする事を省けば、電子化できない人の移動や意識とその行動の誤差の内に吸収されちまうんだ。全然早くなってないよ、インテルさん、マイクロソフトさん。えっ。確かにπのベンチマークの類は劇的に速くなったのだろうが、通常の一般的な仕事の上では速くないんだな。困ったもんだ。これがIT神話な訳さ。仕事を速くするには電子化すべき...なんてことを耳にしたら要注意。CPUを速くすれば仕事がはかどる...なんてのも要注意。3時間の仕事が1時間になった程度では、何にも変わらないからね。気いつけてや。まあ、仕事の内容にもよるが、効果が期待できる時間の範囲は、せいぜい10秒以下だよ。
でも、CPUの速度資源はどこに消えたのだろうか?。...それは、コマンドラインからグラフィカルユーザインターフェイスへの移行と、ソフト開発のスピードで費やされているってこと。1000倍されたのは、ソフト開発スピードってこと。ファイルサイズを見れば明らかだね。
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思考
人が物事を考えるには正しい言語表現が必須だと思っている人は、言葉や言語表現を正しく行えない者はまともな思考力を持ちえないと理解しているようである。 が、実際、言葉や視覚、聴覚の類は、イメージとか体感を想起させるためだけの道具だ。所詮、思考とはイメージの塊やその連鎖で、言語はその後の問題だ。そういったイメージ連鎖の最終結果が言語を飛躍した直感なのだ。だから直感は、像の連続から得られるから基本的に理由が問えないのだ。
言葉は、体感イメージが伴なって初めて理解されるのだ。だっ、ばーろー、ざけるなっちゅうーんだ。
論理的思考には、現状を分析するためのいろいろな知識(材用)がいるかも知れないが、直感には、そういったものが必要ない。直感には、無駄が無いのだ。直感は、生物進化のようにはなから無駄をしないのだ。些細な事実が幾つかあれば、そこから帰納的に類推するのだ。
確かに、出鱈目な直感もあるにはあるかも?。
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外面一枚、されど外面一枚
いくら眉毛整えて、髪染めても、見てくれだけ誉めてやる。あんたの全てではなく、あんさんの表皮一枚は、確かにイケてる。でも、表皮一枚。あんさんではなくて、あんさんの表皮一枚が、カッコいい、とか、綺麗ってこと。所詮、私が見るあんさんは、物質的存在でなく像的存在を保障するための魂なんだから。物質的観点からみれば、所詮表皮一枚としか表現しようがないのだ。私があんたを理解した五感と魂の全体性ではなく、五感と魂が欠けた物体としての外面一枚ってこと。さらに可視光線でその表皮を見たときだけは、あんたの表皮一枚は、誉めて遣わす。でも、表皮一枚なんだな、これが。でも、されど表皮一枚ってこと。綺麗なものは、綺麗で、カッコイイものは、カッコイイのだ。カッコよさ、綺麗さは、もちろん素直にいやみなしに認めるよ。でもそれは、貴方全体ではなく外面一枚ってこと。
読んだあなたが悪い。そして、理解できたあなた、おめでとう。理解できなかったあなたへ。貴方は、幸せ者。
でもこの答えをくれたのは、映画「サルの惑星」とジョージアのCMの飯島さんでした。あはははぁ。ユングじゃないです。礎は、端っこでなく、中心にも持ちましょう。真ん丸描いた中心。自己の中心と...。
単なる私の妄想でーす。忘れろ。
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夢と現実
疑われる夢と疑いようのない現実
疑いたくなるような現実に出遭うことがあったとしても、現実を疑うことは絶対無い。
人が夢を現実かどうか疑うことはあっても、現実だと思い込まされることは、まずない。
すなわち、現実だと思う以前のものは現実なのだ、要するに「これは現実か?」と疑問符のつく事象は夢なのだ。
故に、人が、ある出来事が夢であったのか現実であったのか惑わされるとき、ある出来事は夢である。
何故なら、現実を疑う人は、存在しないからだ。
惑わされたことはあったにしても、別に変なものを見た覚えはないがね。
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生と魂と死と宗教と そして神
全ては 存在する
生も 魂も 死も 宗教も 神すらも 存在するのだ
宗教 魂の永遠性 そして 神は 信じたり疑ったりするものではないのだ
ましてや盲目的に 信じるものでもない
それらは 確実に内的に存在するのだ
体感すべきものなのだ
立証できる世界は 像的視覚 触覚 嗅覚 味覚 聴覚 と自己認識の魂世界である故 我々は 物的存在ではない目で見えている像とそのほか諸々の匂い等としての存在なのだ
それ故 我々がその確固たる物質的肉体から像世界を見 その像世界が魂世界に移行するとき 魂の永遠性が知覚されるのだ
我々が 視覚世界が物から成り立つとした場合の肉体的物質世界から解放されると その永遠性が知覚できるのだ
目で見える物世界が像世界へと移行すると いわゆる物的肉体から開放されると その永遠性が理解できるのだ
己が実在するだろう物質である肉体から開放され 魂の配下に納まるとき それらは 会得 体感できるのだ
無限の世界像が見えてくるのだ
死が怖いって? ナンセンスだよ
実在するだろう物質である肉体が滅ぼうとも 見えている像の裏側にある魂は 永久不滅さ
永遠と思えないのは 物質的肉体世界に執着するからさ
神は いないって? ちゃんといるだろ 我々個々人の奥底に
宗教を信じてるって? そりゃ 信じたり疑うものではないよ 感じるものさ
...だけど 肉体を決して忘れてはならない
この霊(魂)世界に同化してはならない
無限のイメージ世界に同化してはならない
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見事なまでに文章に繋がりがない。でも、怪しくまとまった。惚れ惚れ。(^^;
簡単に言うと、目で見ている世界は像であって、像は、物質でないってこと。ということは、自己存在は、物質である肉体とは言いがたく、像と表現したほうがいいかな、ってこと。そうなると、確固とした像である自己存在と表現しなければならないってこと。
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光
我 皆に 光が 届くことを 祈願する
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宇多田ヒカルの「光」ってこと。ヒッキーの歌のなかには、この手のものが、多々ある。かなぁ。
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信心と疑心
信じる者は 強く 逞しい
疑う者は か弱く 敏感だ
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記憶作業
そりゃ、ほとんどは、意識化作業ではないか。きっと多くの記憶、特に学問習得は、記憶というよりは、意識化作業なのだろう。それ故、皆が共通に理解できるのじゃ。皆が共通に理解できない学問は、間違っているかも。
ちと、当たり前すぎたか。
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哲学と心理学が好き
私は、哲学と心理学が好きなどうしょもないヘボなプログラマだ。何故、哲学と心理学(象徴、深層心理の類)が好きかといわれれば、どちらも高度に論理的というよりは、理由を求める事が出来ない根源的な学問のような、文学とか音楽とかいう芸術の類に思えるからだ。
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ブラックな論理世界
理論的なものが唯一正しき物だなんて、まるで馬鹿げている。我々は、未知の物事を推し量るために、理論という物を基準に据えただけなのに。論理は、決して正しいわけでなく、正しいと仮定して解釈を引き出しているだけなのに。正しいと仮定して、それを基準に据え、この基準をもとに物事を相対的に解釈し、測定しているだけなのに。
どうして論理化一般化をしなければならないのか?。どうして論理式は綺麗でなければいけないのか?。私は理想と現実のギャップに散々惑わされてきたのに、彼等が言うには、そこには理想しかないのだそうだ。彼等は、全てを見極められるのだ。彼等は、完全完璧なのだ。彼等の世界では、理想化した一般化が成り立つのだ。一般化、論理化してもなお、細部が、存在し続けているのだ。
一般化、論理化というのは、細部の枝葉を切り落とすようなもの。枝葉を切り落とさずとも一般化、論理化できるって、えっ?。それじゃ隣接する事象から切り離すことができないよん。ものごとそれ単体で成り立つものなど、何一つ無いんだから。全て相互依存的で、一本の糸を引っ張れば、全て寄り集まってくるんだから、余計な枝葉(糸)は切り落とさないとね。単独的純粋理想空間は、止めて欲しいんだ。じゃあ、全世界を考慮に入れればいいって、えっ。うーん、世界という言語限界空間じゃ駄目だね。完全無限界空間(なんじゃそりゃ)じゃないと?
彼等は、言語を使うにも関わらず、言語世界ではない可視世界の出来事を、言語世界に可逆変換できると思っているのだ。如何あがいても非可逆変換なのに。見えた世界は、見えた世界。言語世界でないの。
理論は、決して未来を言い当てたりしないもので、起きた事象に当てこまれてきただけの事だ。
いきなり目の前に飴玉がパッと現れても、ちょっと驚くだけで、何ら矛盾は無いのに。と、言うことで霊現象、超能力現象に矛盾は無い。がしかし、それら現象が、現実の現象として保証される訳ではない。逆は、非なり。
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結構、自分的には正直に書いたつもり。えへへへぇ。確かに変だと思うのだが、妙な理論を作ってしまうのだ。まあ、抽象的でいいか?。
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解釈
物事はどのように解釈するべきか、ということが重要なのであって、そもそも物事には意味や価値など無いのだ。正しいとか良いと解釈される物事とは、多くの人の色々な平均値に対して優るか等しいかのいずれかだ。等しいものは、共感を与え、優るものは、尊敬を与える。ただそれだけの話。
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分ったか、自分。
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価値
じゃあ、メジャーに...
価値とは、何か?。役に立つもの、重要なもの、意味あるもの...まあ良いだろう。
サバンナに暮らす人類を想像すればいい、彼等はきっとこう言うさ。
「価値?、えっ。そりゃ、腹膨れる物か?。楽しい物か?。」
彼等には、それが価値あるものなのだ。生きていくための食料、現代人から見れば些細な娯楽、そして快楽。快楽は、怪しいかもしれないが...彼等にとっての価値とは、そういったものだろう。だが価値といえば、現代人は、社会的な一般通念上の価値と個人的な価値を思いつくだろう。社会的地位の価値と個人的趣味における価値、でも、後者は個人的なのだろうか?。綺麗とかカッコいいとかは、個人的な価値なのだろうか?。多分それも、社会的問題。だから、価値を作り上げているのは、社会背景なのだ。
人が小さな村社会で生きているときは、価値を追求しなくとも上手く事は進む。
ところが、何か発展させよう、進化させよう、大きくなろう、偉大になろうと強欲に変化を起こそうとすると、途端に価値という概念が重要になる。価値あるものと、価値なきものは、資本主義社会では、大いに利用されるのさ。進化という語が明言するように、我々人類には、後退は許されていない。何故って、それは、生物進化やエントロピーの低下などといった変化するものと解釈されたからだ。前に進むだろう方法しか無いのさ。価値は、奉り上げられ、崇拝され、皆それを手に入れようと躍起になる。人が強欲になればなるほど、価値は偉大な力を身に付ける。そうやって、資本主義経済社会は、成り立っている。ところがだ、共産主義、社会主義世界では、価値という概念が消えて無くなってしまう。押し売りの価値を植え付ける計画経済、競うことの無い共産主義、価値概念とは無縁の世界だ。だから、そんな社会構造は消えてなくなるのだろう。車は、アクセルを踏まなければ、やがて止まってしまい錆び付くのだ。ある一定の速度を維持するには、アクセルが必要なのだ。坂道が永遠に続くことも無い、がしかし、燃料が永遠に存在するはずも無い。社会が力を貸すのも資本が力を貸すのも、どちらが良いという議論は成り立ちそうに無いが、激しい貧富の差を解消すべきであるならば、やはり社会主義に理があるのかな?。
水の少ない地では、水に価値が与えられ。宝石金品は、数十年前の密林では、価値無いものだったろう。だから価値とは、社会背景によって作られた物であり、社会躍進の為に生まれた概念でもあり、人類進化に一躍かわれるのだ。
美しいものやカッコいいものは、価値があるって?。えっ。社会の中で目立つための価値選択か?。上手くいえないが、それも社会が作り上げている価値なのだろう。
終わり。
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たまには、真面目に。そんなところ。でも、、、まあそのうち直すとして、善しとしよう。
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独我論
私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語で L.ウィトゲンシュタインを意味してはいない。だが私がたまたま今、事実として L.ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語は L.ウィトゲンシュタインを意味すると理解しても、それで不都合はない」と。
(中略)
しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなくてはならない、ということである。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。 (ウィトゲンシュタイン『青色本』117頁)
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自己と他者は切り離されていている故、お互いは理解することが出来ない、ということらしい。他者は、映像であり幻影なのだろう。「綺麗」という語が、綺麗という体感?感情?に結びついていなかったらしい。
でも他者は、映像か?。(うっ、科学と哲学が入り乱れる...集中できん。)
実は、他者と言う概念が先に生じないと、私という概念は、生まれないような気が...
・想像好きな人は、子供の頃、次のようなことを想像するらしい。
私は、この世に存在しているのか?。他者は、存在しているのか?。
今見ている世界は、夢か?、それとも現実か?。
現実とは、何か?。
・ ...私は、常に人という概念を学んできたのだ。私は、世界を見ることによって、そこに住む人について、それが如何なるものか学んできたのだ。他者と言う人がいることを、私は学んできたのだ。他者とは、「これこれこういうものだ」と定義してきたのだ。それ故、私は、他者でない自己を強く意識できるのだ。
・誰もいない世界に、一人ぽつんといる赤ん坊を創造するがいい。果たして、彼は、自己という観念を持ちえるだろうか?。彼には、自己という概念は不要だ。彼は、まだ、自己でない存在が理解できないから、彼は世界に一致する。彼は、混沌と無秩序の無意識世界に住んでいるのだ。
--->うーん、うそ臭い。赤ん坊は、何かを見た途端に「自己以外」を認識する。じゃあ、真っ白の境のない世界はどうか?。それも、世界という視覚対象があるから無理。じゃあ、盲目の赤ん坊にしよう。...それも無理。...じゃあ五感を取っちゃえ...やめた。
では、二人だけの親子世界を創造するがいい。たぶん、赤ん坊は、何かに気付くだろう。でも、まだそれが、何かわからない。それを比較する対象...それ以外の存在が無いからだ。依然、彼は、世界の一部で、親がそこに加わっただけに過ぎない。故に、彼は、世界であり、親でもあり得る。
三人立っている世界...パパとママがいる世界を創造するがいい。ここで、ママ存在が比較可能なパパという位置を得る。だから、赤子は、他者の存在に気付くのだ。それ故、自己の存在にも気付ける筈だ。きっと、生まれつき人間という概念は、持ってるのだろう。そうでないと、一人だろうが、二人だろうが同じことだ。
でも、一人(一点)、二人(二点)、三人(三点)と思考実験した学者さんは、一体誰なの?。
鏡に映った自己は、如何して自己と気づくのか?。きっと誰かが答えを出しているだろうが、われもやる。
1.同じように体が動くから
あまい
何がしかをしようと思った時に、感覚が戻ってくる。例えば、何がしかをしようと思っうと指が動いた感覚が戻ってくる。
正しくは、そのうち。
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シンクロニシティ
分析家と患者との間では、分析を続ける続けるうちに、同じような夢や体験をする不思議な現象が起きるのだそうだ。でも、それは不思議なことなのだろうか?。
解釈1:
きっと、こういうことなのかも。一人に起こった出来事と、もう一人に起こる出来事は、それぞれ独立していて、言語的限界はあっても解釈はほぼ無限に存在する。その中から一致する出来事を見つけ出し、「シンクロした」と過去形で驚くのは、凄く容易いことだと思う。これは、「ノストラダムスの大予言」にそっくりだ。予言だ予言だと言われるが、何一つ予言したことが無いノストラダムスの詩を適当に解釈して、起きた事実に当てはめる。全く持って予言ではなく、それは「後言」と称してもいいこじつけだ。実際、予言と称したシンクロ現象も怪しい。そこには、シンクロした現象のみあり、シンクロしなかった現象が、省かれてしまっているからだ(よく手品で使われている手で、因果関係を逆手にとったものだ)。100万回の事象うち1回当たった事実をとって「シンクロした」といっても、誰もそれを不思議とは思わないだろう。本当は、無限に近い事象の中から探し出したシンクロだ。シンクロしなかった現実とシンクロしないだろう(未来の)現実は、ほぼ無限にあって、ほぼ無限に(未来に)あるのだ。普通この現実は、意識できないものだ。事故に遭うだろう予知夢は、日時、場所、人が事細かに限定されても、予知ではない。これから無限に起こる事象に一致させたがる人の心理が、あるだけだ。
解釈2:
流行の本や音楽、はたまたドラマは、同じようなことを考えたり感じたりする人がいるから起こることだと思う。皆独創的な存在であれば、ベストセラーやミリオンセラー、高視聴率番組なんてものは、無いだろう。皆が個人的に独立した存在であれば、偏りなど生ぜずに平均化されてしまい、ベストセラーは生まれないからだ。個人が他人を理解できるのは、皆同じ事を感じるという人類共通の無意識とかミームというもののお陰らしい。
では、分析家と患者との間では、一体なのが起きたのだろうか?。分析家が患者に同化しただけなのだ。分析家の心機能ユニットの各パラメータが、患者のそれと同じに調整されたのだ。それ故、同環境では、同じ体験をするのだ。要するに、同じ心機能ユニットは、世界環境というパラメータを入力とし、「同じような夢や体験」という形で結果出力を得るのだ。
「心機能ユニットの各パラメータが、患者のそれと同じに調整された」というのは、特に荒唐無稽な事では、ないと思う。蟻や空飛ぶ鳥を見よ。蟻は、工事監督無く穴を掘り、巣を完成させる。鳥は、本質的自己と群れ全体を第二の自己と捉え、それぞれの関係を保ちつつ飛ぶ。個々は、全体であり、全体でないのだ。
でも、まだここで、不思議なことがある。猿の芋洗いや石遊びは、それを行う猿人口?がある閾値を超えたとき、パッと他の群れや離れ小島の群れに伝染するという惑星規模の現象である。これは、それぞれ独立した世界に住んでいる猿の現象であることから、何らかのエーテル(媒質)を想定しないと説明できないと思えるのだ。きっとこのエーテルは、電波、ニュートリノ、光子という類のものだと思う。そして猿というアンテナは、猿電波を発し、他の猿アンテナが、混信無く猿電波のみを受信する。すると、電波に石遊びとか芋洗いが乗って伝搬するのだ。勿論、猿が電波を発するのではなく、宇宙や周辺を飛び交っている電波の光速を超える成分に影響を及ぼすのだ。この影響は電波が地球中心へ降り注ぐ角度の場合、同心円状にほぼ瞬時におよび、また、光速を超える電波成分である1λ間は電波受信の因果律が無視される。もしくは、1λではなく電波そのものに影響を与え、下記図の「猿A」の情報が、順次「猿B」,「猿C」と伝わるとか、そんなところだろうか。
星の中心
注:1λは、時間の概念無く光速を超え伝播するのは、確か。そこに、距離という概念があるかは、知る由も無い。
次のような解釈は、いかがか?。脳は、レコードを読み出すプレーヤーなのだ。猿のレコードであるDNAには、石遊びをしろという情報が、既に書き込まれていたのだ。その石遊びは、時間の問題だったのだ。実際問題、何も伝搬などしていないのだ。
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ということで、DNAを読み出す脳内探査...内省こそ重要なのじゃ。発見は、人の外側の世界にあるのでなく、人の心の内面にあるのだろうと思う。
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なんか、シンクロニシティと転移がどことなく混じっている。それと、ユングは、そんなシンクロニシティを言ってないと思う。あくまで、多義的、流布的シンクロニシティということで。
あー思い出した思い出した...笑って許して...(^^;。
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真実
この世には 真実と呼んでも 差し支えない 事実があるのだ
この世には 絶対と呼んで 差し支えない 真実があるのだ
いや ... そうではなく それを 真実とし 絶対とし 信じなければ ならないのだ
そうしないと この世という軟弱な大地は 地盤沈下を起こし 礎までも飲み込むのだ
それ故 私は それを信じ また 疑い 結局 信じるのだ
そして 私の家は その礎の上に 確固とした 位置を見出し
富を生み出す助けと 休息の場をあたえるのだ
礎が無ければ 家など 建とうものか
基準を設けずして 物が 測れようか
基準を設けずして 物の本質が 理解できようか
基準を設けずして 物の価値が 判断できようか
基準を設けずして 物事を考えることができようか
基準を設けずして 次に進むべき方向を見出せようか
全ては 同価値で 平等だから 無秩序なのだ
ある何かを 基準としなければ 事が先に進まないのだ
それ故 ある何かは 絶対的真実 としなければならないのだ
それが 真実であると 敢えて 信じなければ ならないのだ
そうでない というならば それは 無秩序で 混沌とした 物の裏と表が一つになった毒の
塊で作られた 大地でしかない
それでは そこには 人が 住めなくなってしまうのだ
果たして そこには 誰が 住めるのか? 誰が 今 そこに住んでいるのか?
一体 誰れだ?
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法廷には、法律という礎が、世界にはテロを絶対悪とする礎が、社会には、道徳と言う礎が、信仰され、崇拝されてきたのだ。その礎を壊すものは、厳罰に処せられるのだ。これが、人の掟なのであり、人の掟こそ、人が唯一立てる礎なのだ。すべの物事は、この礎から測られ、信じるに足りる真実を得るのだ。
そして、世界には国連という礎が、日本には総理大臣という礎が、会社には社長という礎が、集団にはリーダーという礎が置かれ、これを基準に物事は、進むのだ。このリーダー的礎を無視する組織は、無秩序になるのだ。組織という一つの仕組みは、系統立てられた構造から成り立ち、我々は、この構造体の構成要員なのだ。この仕組みは、世界だろうが、日本国だろうが、会社だろうが、クラスだろうが、集団だろうが、家族だろうが、個人の信念だろうが、どこであろうとも同じだ。
でも、その基準は、正しいとか価値があるとかという意味ではなく、物事に意味や価値を与えるときの仮の基準ってこと。駄目だと解釈された基準には、正しいだろう基準との差分を足すの。何故って、その正しさは、駄目と解釈した基準の側から見たときのみ正しいと解釈されるから。だから刷新は、駄目なの。前経験を無視した刷新は、単なる破壊行為だ。
こういった礎のあるシステムは、秩序であり、秩序こそが、唯一システマチックと呼ばれるのだ。そして、システマチックは、思考の礎をなすものなのだ。
私は、やっと答えを見つけたのだ。混沌の海の中から這い上がったのだ。
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一神教的な一つの基準を設けないとまずいらしい。
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うー−ん、カッコイー。ひゅーひゅーっ。
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イメージ
そこは 光の届かない 暗く 何も見えない世界
でも そこは 見えない故 何かが有るように感じる 何かが居るように感じる
地の底を徘徊する魔物たちが
彼らは 主役の座を勝ち取ろうと 人の心の隙を狙っている
今か 今かと その座を狙っているが 所詮 主役は 光を浴びている我々なのだ
所詮 闇の魔物は 光の世界では生きられないのだ
この世の始まりと終わり 物の表面と裏面 過去と未来の それぞれが 同時に存在できるその世界では
耳を研ぎ澄まし 魔物の足音を感じろ さすれば 光が魔物を瞬時に焼き払い 死した魔物を見ることが出来るのだ
その世界では この世の始まりと終わり 物の表面と裏面 過去と未来 の
それぞれ相容れない要素が塊となって同時に存在できる 秩序の無い世界
それ故 そこでは 魔物が大手を振って徘徊できるのだ
であるからして そこには 暗い世界を照らさなければならない光が 重要になるのだ
光をその塊の中に差し込ませ 闇に存在する魔物は その光で焼き尽くされ 灰の中で輝く黄金へと変容させねばならないのだ
無秩序な塊に光というメスをいれ その無秩序を解体せねばならないのだ
そして 足元に転がる 黄金を目にすることが出来るのだ
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そうでなければ、本人以外に誰も理解できないし、本人にしてみれば毒にすらなってしまう。
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そして、この世は、意識構造の投影物としか語られ得ないのじゃ(By ユング?)
そして光を意識と読み替えると、人の心理になって、魔物的無秩序を数学上の破綻と読み替えると、電子の振る舞いを垣間見れるのだ。ざまあない。
そして、この世にある、唯一ものは、物質を超越したメタ物質で、認識も言語化もできないましてや見ることなどできないエネルギーのような感じることしかできない熱とか力、とかいう物でしかないのだ。
だから、イメージとは、メタ物質的な世界での出来事なのだ。
だから、意識が、メタ物質を目に見え得る物質へと量子化するのだ。
それ故、電子雲はイメージで、電子雲から電子という形や位置、あるいは速度という量子化は、認識で...いわゆる言語化なのだ。電子というイメージは、電子雲の中で形なく漂う波でしかないのだ。電子雲の中に漂う電子というイメージは、有る無いと問える形あるものではなく、媒質に漂う波なのだ。
であるからして、今目にしている世界は、意識がメタ物質世界をサンプリングしてえられた結果世界...量子世界...言語世界なのであり、このバックボーンには、無秩序的メタ物質界という認識できないイメージ世界があるのだ。
とゆうわけで、現在目にしているこの世界は、量子の集まりで、量子化されたそれぞれは、それぞれ関係が無いのだ。音波を1、2、3回とサンプリングして元に戻したところで、それは、似て非なるものなのだ。イメージを言語化したところで、それは、聞く側の心の中でイメージに再変換されたところで、似て非なるものなのだ。所詮、サンプリングは、不可逆変換なのだ。なぜなら、量子化されたそれぞれは、関係性が断ち切られているからなのだ。また、関係性を断ち切ることこそ認識でもって、量子化なのだ。それぞれは、無関係に独立した物でないと、理解できないのだ。他人に説明できない事柄は、実は、自分が理解していないのだ。
が、しかし、
如何なるイベントが発生しようとも、全ては、独立しているのだ。いくら上流で大雨が降ろうととも、下流で起こる洪水とは、なんら関係が無いのだ。それ故、因果律なんてのは、自我の悪戯で、そんなのは無いのだ。因果律をベースに築かれたものは、近似的には正しくとも、きっと破綻する。
なんちって。中世の科学みたいだ。(笑)
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心を物質という観点から眺めると脳となり、脳をメタ物質的観点から眺めると心になるのだ。そうそう、全て一元論なのだ。心と脳は、一対なのだ。ただ、見ている角度が違うだけなのだ。
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私の自我論
この確たる私という存在とは如何に...。
「我思った。ゆえに、我あり。」?...
私と語ったときの私は、既にそこには、もういない。?...
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結局のところ、「確たる私」とは、私の余韻なのだ。記憶とは言い難い、余韻なのだ。その余韻を認識して、「確たる私」 などという幻想を抱くのだ。
ちゅうことで、どうやっても、フィードバックとか、サーボとか、制御系とか、再帰処理、リエントラントプログラミング技法、スタティック変数...そう言う ウロボロスのお世話になるのじゃ。
宇宙の中をまぁーすぐ進むと自分の後ろ姿を見るという幻想は、ウロボロスなのじゃ。宇宙の階層(循環)構造もウロボロスなのじゃ。そいでもって、ウロボロスは、自我の隠喩なのじゃ。ということで、ユングが言っていた「世界は自我の投影物」という表現が理解できるのじゃ(たしか、ユング自伝のどこか)。解った振り、解った振り(^^;。
では、その余韻とは何か...その余韻を認識したのは誰か?。ということで、論理的には、時間的隔たりを挟んで、私は二人いるのだ。...というか、それこそが制御系の真髄なのだ。
私と言う一個人とは、何によって常に一つの個人で居られるのか?。誰かが、自我とは心のパーツの集まりだと言おうと、私は、常に一人なのだ。主体的私は、如何なるときでも一個であり、一貫性を保持しているのだ。これは、疑うことの出来ない事実...現実だ。現実を疑うのは、病人だけだ。
余韻...私がそこに居たと言う痕跡が、次に生まれた私によって認識されるのだ。そ して、その次の私、更なるその次の私と...私は、時々刻々と生まれては消えて、生まれては消えを繰り返すのだ。それ故、私は、明確に時間的に区切られた断続的存在であり、 永続的存在ではないのだ。そして、ある瞬間に生まれた大きさの無い点の私が、この世界をサンプリングし、物の大きさを見出し、時系列的現象の過去から現在を見渡し、未来を推測し、はたまた、未来を予知したり予知夢を見た りするのだ。我々は、過去を知り得たとき、知識と言うフィルターを通して未来を推知するのだ。
我々はサンプリング周期とかいう存在であり、サンプリングする者にとっては時間概念は生じないし時間経過は存在しない。ある電圧変化をサンプリングした結果はサンプリング値の羅列であり、個々のサンプリング値はあってもそれそのものには時間概念はないのだ。そんな個々のデータの羅列が時間であり、少なくとも2個以上のサンプリング値があって始めて「時間が経過しているかも?」といった錯覚を抱けるのだ。だから自我とは時間軸の上にあって、実は、自我が時間軸なのだ。そして、見ると言う行為、観測すると言う行為は、過去と今を区分けし時間概念・因果律を生み出すのだ。見る行為とは変化量の測定であって、基準値(メモリーの値)と変化値(人が決して知ることのできない今の値)との差であるからして、私とは2人弱の存在なのだ。
サンプリング値が、フィードバック回路というか、オペアンプ回路というか、そのような物の中でグルグル廻っているのだ。その中にある記憶とも呼べないような記憶...余韻が、次なる自我余韻と合成されて、さらに次なる余韻を生み出すときこそ、自我現象が発生するのだ。
脳内インパルス40Hzは、プリ自我なのだ。サンプリン グ値がメモリーに蓄えられると、次のサンプリン グ値との比較を行い、結果を時系列的に記憶するのだ。
時間軸上にある一生の時間分の金太郎飴的な私の超次元的総体は、インパルスによって刻まれ、具現化され、頬張れる飴と化すのだ...インパルスによって形を持った量子的自我自己存在となるのだ...。
イメージ的思考とは、超次元的でアナログな存在で、物の表面と裏面と過去から未来全てを含む無限な無形物的存在で、逆に、言語的思考とは、イメージをサンプリングした定量的で量子的で誰でもが理解できる代物なのだ。要するに、インパルスは、論理的思考を司るのかもしれないし、はたまた、イメージする行為は、インパルスに関係が無いかもしれない。
私という存在の一貫性...寝て起きても、私は私でいられるのであり、これは、寝る前の記憶があるからだ。そして、私が、私と言う一貫性を保っていられるのは、私が認識した世界の残像が、時系列的に並べられたことによっている。次から次に物事を忘れる存在には、一貫性を保つことが出来ない故、自我が有るとは言い難いのである。それは、ちょうど昆虫のような存在である。自我とは 、一貫性とか方向性とかと言えるだろう。それ故、私にとっては、意図的でなくころころ話しが変わる人やかなり進行した重度の痴呆症患者には、自我が常に有るとは言い難いのであり、また、意思決定遂行すようなプログラムには、どのモジュールを実行するのか、または、しているのか、という方向性とか選択とかの(フラグの)記憶が必要なのである。
はたまた、多重人格とは、何によって多重になっているのか。? 言うまでも無く記憶の分断...イコール...自己の分断なのである...だから記憶自体が私なのだ。この記憶は自我でなく、もうちょっと上の親のクラスの自己なのだ。
何かが、脳内の全メモリーにほぼアクセスできるとき、メモリーという観点から自我現象を眺めると、全てはメモリー上で一つに繋がり、一貫性は保証される。こうなると、どうやっても私は、一人なのだ。逆に、脳という物質的観点から自我現象を眺めると、「心はパーツ(物質)の集まりだ」という、感じて見ようにも無理難題な、幻想を抱くのだ。色々な思いに刈り取られ様が、色々な事を感じ様が、どうやっても、私は一人だ。自我が、同時に二つ有る存在なんて聞いたことが無い。葛藤は自我が二つ有る証拠だとほざこうが、その葛藤を感じているのは、一体誰か?。それは、ただ一人のこの私だ。葛藤を生み出している内の一原因は、私ではないのだ。
記憶の側...メモリーの側から各現象を、世界を、覗くと、どうやっても私は一つなのだ。全ては、メモリー構造体なのだから。だから、インパルス(脳)がアクセスしたメモリーが、私なのだ。だから、メモリーアーキテクチャなんて言われるのかもしれない。
要するに、人間の総体...脳味噌全体は、多くのインスタンスからなっていて、各インスタンスは、領域不可侵...人差し指動かしているのに、中指動いたら怖いしぃ。そいでもって、自我のインスタンスは、各インスタンスが作った変数を統括しまとめ、前回作った自我変数読み出し書き換える。統括されなかった変数群は、別個に独立して動いて悪さすらする。更に、酷くなると別個の自我インスタンスが生まれる。
自我のインスタンスは、自立神経インスタンスとか、乖離インスタンスとかへアクセスするには、複雑な手順を踏まねばならないのだ。で、自我インスタンスは、ゴットスポットインスタンスからでないとアクセス...活性化できないのだ。それが、スタートアップモジュールなのだ。こいつが、コールドスタートするお蔭で、混乱しないで私は私で居られるのだ。ホットスタートすれば、一生記憶喪失になれるのだ。(笑)
結局のところ私は、 スタティック変数かも(笑)。 まあ、この位にしておくか。
別に、無闇やたらとヘテロしてる訳じゃありませんので、悪しからず。
但し、何処かで体系的に学んだという記憶もないので、さらにあしからず。
この手のものは、ガキの頃から止めようにも止められない、魅力ある世界のじゃ。
注:脳内各野のフィードバック、フィードフォワードとは、何にも関係有りません。それよりは、時間軸とメモリーの関係性が自我現象を生み出しているのかも?。
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まあ精々、私’を観測する言語を使う私、と、観測される無反省の世界という私’、がいいところ。ということで、私は、二人いる?のだそうである。納得!。
今見ている世界像は、観測される無反省の私’。世界像を見ている私が、世界をサンプリングする言語を使う私なのだ。
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答えを言っちゃえば、何がしかをしようと思う以前の何がしか。これは、衝動以前、思い以前、本能以前の何がしか。例えば、コップを手に取る。手に取ろうと思うその思い以前に生まれるもの(プリ自我)。または、自我について考える。そして、考えようとするその思い以前に生まれるもの(プリ自我)。病的に言うと、自ら考えたいから考えるのではなく、それ以前に考えろと命令する自我を超越した何がしかのこと。そして、それをしようとする思い、と、してしまった思いの実行結果のリーターン戻り値が合わさって自我が生まれているのでした。
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曇ったガラス箱
裏山の洞窟の中で ガラスの箱を見つけた
金の装飾が施された とても綺麗なガラス箱
でも ガラス箱は茶色にくすんでいて 壊れそう
ガラス箱を落とさないように だいじに持ち帰ろう
そして 磨いて ピカピカにしよう
今や ガラス箱は 一寸の曇りもない 完全な 箱
ガラスの箱は 周りに置かれた磨き忘れた骨董品を 映し出す
まるで この箱が汚れているかのようだ
綺麗なガラス箱は 汚されるのだ
汚いガラス箱は汚れようがない すでに汚れているのだから
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お空が暗い訳
どこかのサイトにあったのを、そのまま借用する。
>宇宙は無限か有限か考えてみよう。もし無限だとすると、星の数は?
>--無限にある。
>
>数が無限なら、明るさも無限となり、夜空は、さんぜんと光輝くことになる。
>--でも、実際は明るくない。
>
>したがって、宇宙は無限ではないことが証明される。
>--でも、宇宙が有限だったら、その外はどうなっているんですか。
だから、星の数は無限なのね。という事は、宇宙も無限なのねぇ、でないと無限の星は存在できないわけね。とゆうことは、無限遠にある星の光は、無限に届かない。ましてや、有限の時間に生きる人類には、知りようがないね。
とゆうことは、「数が無限なら、明るさも無限となり、夜空は、さんぜんと光輝くことになる。」という問いかけは成立しない。「数が無限なら、宇宙の大きさも無限になり、無限遠にある星の光は無限に届かなくなり、有限な時間に生きる人類にとっては、夜空は、やっぱり暗いかもしれない。」となる。でも「かもしれない」ってこと。勝手に、宇宙を有限なものと決めつかないで欲しいし、不老不死の人類を勝手に誕生させないで欲しい。かってに有限と決め付けて、無限の星を置かないで星い(笑)。
屁理屈万歳。
間違っているのは、さあどこだ?。
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無限の星を置く?。これっていったい、どういうこと。有形物が無限にあるって?、もう訳わからん。
物を有形化させる空間(距離的概念)を想定しておきながら、無限という形や距離を特定できない無形物を語るとは、どういう意味か?。実に怪しい状態だ。
不可能だろ、そりゃ。人が無限を想像できるのか?。無限だぞ無限、形がないんだぞぉ。
数学というものは、良く判らんし、興味なし。
事実言えることは、星には寿命があるので全ての星が同時に輝くことはないと言うことだけだそうだ。
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無限の時間に、無限の星に、無限の空間の中に、人は、住んでいると仮定する。するってえと、今この瞬間も実は無限の時間が経過した一点なのであった。無限の時間には、始まりという概念が無いのであるから、今は無限の時間が経過したことになり、夜空はさんざん輝いてしまうので、やっぱり宇宙は有限なのかもしれない。
でも、「無限の時間」?、変な表現?。
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ふと思う。無限の時間を想定すれば、虚時間なんて訳のわからないものを作る必要は無いって。何故って、無限なんだから時間の始まりや終わりという概念が消える。ウロボロス的環ではなく、混沌とした塊というか有るようで無いようなイメージかも。世界創生?。
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幼子
夜がくる あの恐ろしい 夜が くる
混沌と 無秩序の 夜が くる
全てが終わる夜が くる
僕が 消える 夜が くる
寝るのが怖い あす僕が存在する理由が何処にあろうか
またおなじ僕でいられるだろうか
僕が目を閉じたまま 僕が いや この世界が 消えることはないんだろうか?
眼を閉じるのが怖い 僕が消えて また現れることが出来る保証が無いから
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物心ついた頃の記憶。後から植え付けた記憶かもしれないが.....
眠りに付くのが怖くて仕方なかった。もちろん、数日後にはそんな恐怖を忘れたがね。
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愛+理想=0の図式
愛と理想は相反するのである。
「対象に対し理想を掲げたものは、対象を愛すことが出来ない」という理論が成り立つのである。
なにせ「愛」とは、受容ということだから。
まあ、若かりし時はそんなものだ。
理想とは、対象に向かうもの。愛とは、対象を受け入れるもの。故に、そのベクトルの和は、ゼロなのであった。
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理想どおりに上手くいかない、って、えっ、そりゃ当たり前。思い描いた理想どおりに事が運べば、それほど安心な事は無いだろう。全部受け入れて、感じるまま感じるままの臨機応変さが、グッドな訳。確実さという安心感しか与えない潔癖的理想主義は、糞食らえ。おえ。多少不安を感じるくらいが正常なのだ。その不安を圧し殺す奴は、病人なのだ。
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とかく現代は、愛不足。寛容さとか、受容とか、許すとか、盲目さとかいう、広大な海が何でも飲み込んでしまうような愛が、理解されていないのだ。皆、理想主義で潔癖主義ばかり。そんな論理理想主義者は、糞でも食らえ。ははははは。
かと思えば、政界では、ふてぶてしい愛ばかり。尻の穴の弛んだ奴ばかり。ろくな思考が出来ないくらいに、愛という要素と傲慢な自信で育ったらしい。爺どもに哲学的思考を要求するのは、ナンセンス。爺どもよ、とっとと哲学的思考ができる若い世代と交代せい。「お前は、既に死んでいる」。
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愛情不足だと訴える人々は、そんな多義的愛情を求めていたのかも知れない。否定でない肯定の愛を求めていたのかもしれない。
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負け惜しみ(コンピュータプログラマー編)
コンピュータプログラムとは 芸術作品だ
この美しい構造を見よ この単純さを見よ このスマートさを見よ
美しいプログラムは 単純であり 単純さこそ 美なのである
もはや論理的とは言い難い この美しい構造物を見よ
プログラムは ストーリーでない
プログラムは 実行手順を示したものではない
プログラムは 構造物なのである 造形物なのであり 像なのである
ゆえに プログラムは 言語で完全に表現され得ない
また逆に 言語から プログラムは作られない
プログラミング言語と人の話す言語は一対一に対応しない
日本語と外国語がそうであるように
プログラムは プログラムであり 人が話す言葉ではない
人が話す言葉は 言葉であり プログラムではない
プログラムは 人が話す言葉を超越するのである
てゆうか 創造的作業には 言葉は不要である
プログラミング作業において 人の話す言葉は不要なのである
そこにはコマンドと一対一で対応する体感しかない
コマンド一つ一つは 即座に体感に置き換わる
そう それは 人が言葉を話すときと同じ
故にプログラマーはバイリンガル
ましてや アセンブラ使いは CPU毎に違う言語を扱う以上 Bi(二つの意)どころでないのである
そこに BASIC VB C++ HTML Perl Java ともなれば 遥かに言語能力を超えるのである
若いころに構築されたプログラミング能力は 幼いころに習得される言語能力と同等か それ以上である
であるがしかし その真髄は プログラミングで ありなんら大したことないのである
ヨーロッパ人が 何ヶ国語も話せる理屈と同じである 一つを完璧にマスターできれば 応用が利くのだ
(注 「マスター=話せる」ではない)
仮に通訳できても 人が話す言葉には 完全に置き換え出来ないのさ
置き換え出来ないからと言って いい加減に作られている訳ではない
ただ単に 置き換え出来ないだけである
翻訳作業と同じで完全に翻訳することは不可能なのである
プログラミング作業において 言語的思考は 必ずしも必要なものではないのである
実のところ 論理的思考ですら 不要なのである
そうやって作られたプログラムは 人が話す言語には表現され難い
翻訳でき難いのである
でも 見やすさは ピカイチさ
それは 構造物 被造物なのだから 図を見るようなものさ
だから 判りやすい 理解しやすいのさ
理解しやすさを勘違いしちゃ困る
でも 図だから 言語では表現し難い
言語を伴なって作成された物でないから 言語では表現し難い
伝えられない 部分が 多くなってしまうから それはいい加減なものだ と誤って評価される
でも 私は 図でしか 表現出来ないのさ
論理的なプログラムは 全ては手順だから 何処かが抜け落ちると もう理解できなし 機能しない
論理的にぎちぎちに作られているから 保守できない
手順になっている一部を修正すれば 次から次へと その影響が波及する
私は あの分厚い仕様書を覚えるのは 御免だ
保守するときは 全て 変更だ
だから 論理的職業プログラマは たかが知れているのさ
私は それこそ スパゲッティーと呼びたい
いわゆる 芋ずる式である
どこか一箇所を引っ張ると 全てが引き寄せられるのである
何処か一箇所を修正すると 全てに影響が及ぶのである
論理的なプログラムは 下なのさ
そのプログラムは必死になって読まなければ理解できないのさ
でも有能とされる彼らは 高い論理性で読んでしまう 難しいプログラムを読んでしまう
でも 私は読めない
低い知性しか持ち合わせていないから 単純に作る
だから 見れば すぐわかるプログラムなのである
ゆえに 論理的に長けた者が作ったプログラムは 読むことはできても 見れないのである
そして 真のプログラマは 私を筆頭に 論理的には ちと落ちる ばか なのである
フローチャートだとぉ いちいちそんな記号化 言語化 デジタイズ などしておれんぞなもし
アナログ的思考イメージの一番重要な部分が消えうせてしまうではないか
この(アナログ的思考)状態を如何に持続(記憶)させるかが重要な創造と想像の鍵なのじゃ
(別に驚くことじゃない 俺が言った話じゃないんだから)
我々は創造主である以上 言語と言う世界の限界を超えねばならない
いまだかつてない物を この世界に この言語世界に産み落とすために 言語世界を超えねばならない
言語世界を超えた次元から この言語世界の次元へと 落とし込まなければならないのだ
故に 創造主は 言葉を最小限に 慎むべきである
一つの言葉に多くの意味を込めて 最小限の言葉に 慎むべきである
巧みに言語を使うものは 言語世界の限界を超えられないのである
そんな彼らは 完璧な言語世界の住人である 言葉の海の住人である
彼らもまた その海の温度を知るまい その海を分析することができまい
創造 想像出来ないのである 言語限界 思考限界 を超えられないのである
思考外域は ぼんやりと感じる事のみ許される 語ることができない言葉発祥の地
創造 想像とは言語世界を超えることである 言語 思考外域を感じることである
言葉以前の 思考以前の 混沌とした形無いイメージ世界の海へ浸ることである
汝 それを読字障害と言うなかれ
我々は イメージ障害なのだから
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最後の十数行が自分でも気に入った。表現のまずさがあったとしても、「アナログ的思考」とは既知の事実だ。誰か理解してくれよ。
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「物」という抽象概念
私が理解できるのは、五感と心的自己存在。
味覚は体感であり、味覚そのものを言葉で表現しようにも、それはできない。甘味は、やっぱり甘味としか表現され得ないのである。手触りも、臭いも、音も、映像も体感で、それ以上言葉では説明できないのであり、それが言葉の限界であり人の限界なのである。あえて表現するとなると「それは、砂糖のような甘味である。」としか表現できず、曖昧さが必要になるのである。
では「物」と表現されたものは、そのいずれに属するものか?。少なくとも、目が見ている物ではないのは、確かだ。目で見るからにして、目で見るのは、絵でしかない。「目で物を見る」とは、全くもって可笑しな表現だ。もう一度いうが、「目で見るのは、絵である」のだ。我々人は、世界をテレビ画面のように覗き込んでいるだけなのだ。更に突っ込めば、テレビ画面なら四角の外枠があるが、我々の目には、外枠が意識できないから、こちらから世界を覗き込むと言うよりは、世界が私の側へやって来たと表現するほうが正確である。だから、やって来ない世界は意識できないのであり、そんな世界は在る無いと表現するのは、可笑しいのである。故に、外枠という意識外の境界外は、意識出来ないのである。であるからして、世界とは私なのであると言う事も可能である。
では、手触りからそこに「物」があると判断できようか。それも、無理だ。それは「触覚」と表現されるように、感覚であり、「物」を直接認識したわけではなく、触覚という形で間接的に認識しただけである。いうなれば、私は私であり「物」でない故、絶対に認識不能なのである。私と言う存在ですら怪しいのである。
「この世界の中にいる」というように世界や自己を物体化しては、ならないのだ。
「この確たる私の存在に対する保証として、私以外を物質とみなす。」のは、間違いだ。
もとい、故に「物」とは、五感全てから起き上がった心の世界の存在となる。であるからして、「物」というその実態こそが、想像や妄想なのである。「物」なんてものは、この世の中には、存在しないし、理解できないものである。少なくとも、存在する・しないと問えるものではない。故に、夢や幻覚の中には、世界が存在すると表現して良いのであり、そこでは物質化(心が世界や物を作り上げるということ)が起こるのである。
我々が見ているのは、像の世界であり、「物」という認識は、想像世界の心から湧き上がったものなのだから...
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補足
「心的自己存在」とは確か何がしかの哲学書にあったような気がするが、詳細は忘れた。この「心的自己存在」との表現を読んだ瞬間、「流石、学者先生。哲学者とはこういうものか。私には想像も及ばない」、と全てのセンテンスを読み終える頃には絶望に駆られたものだ。うーん、流石。そして、絶望?。何か、わざとらしいか?。(^^;
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ちと、かなり曖昧。
でも、熱やG(重力加速度)は、一体どこでかんじるのぉ?。手を動かして動かしたという感触が戻ってくる皮膚感覚(?)は、一体何ぃ?。...どーだ、誰も判るまい?。でもこれが自我の正体だと思う。
注:ここで言う自己とは、私が考えて考えたという感触の戻りを意味している。更に、判るまい。
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なんてのを自慢げに書いたところで、数十年前に、知れた事実なのであった。それなりに、自分の言葉で書けたかな...
もう一度、混乱していた子供時代を思い起こしてみたほうがいい。
何か考えるときに苦労した覚えはないか?...えっ、そのざわつきを。
だから、素粒子研究に、何百億つぎ込んだところで、無限に物質化されるのが落ちなのである。究極物質なんてのは、さらさら可笑しい表現である。物質化したら最後である。無限地獄に陥るのである。形ある言語的存在は、無限に細分化されるのだ。それが、有限的形ある存在だ。何処かで立ち読みした。(^^y
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酔いしれる
悲しみに酔いしれる
不幸に酔いしれる
苦悩に酔いしれる
暗く冷たい世界に酔いしれる
不幸が美しい
おどろおどろしい世界が美しい
オカルト世界が美しい
悲鳴と狂気が交錯する世界が走馬灯のように脳裏を駆け巡る
苦しみが 恐怖が 快楽へと 絶頂へと 変異する
故に 死に至る恐怖の過程は究極の快楽なり
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麗しいほどに不幸や絶望、苦悩、苦痛が美しい...タナトス、タナトス、トス、トス、ススス
半分病気。(^^;
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タナトス...
ってな理由で、人は、怪談、ホラー、スプラッタの類が好きならしい。怖がっていたり嫌っていたりするのに、実はそれが好きらしい。文学の中に潜む狂気だ。お涙頂戴ストーリーは、人々に感銘を与え、皆、その不幸を好むのだ。その不幸や苦悩の美しさに酔いしれているのだ。
おどろおどろしく描かれた「羅生門」等は、人の想像力を掻き立てる。
死に逝く人の美しさをみたろ?。デカプリオが、海の中に沈むあの美しさをみたろ?。
故に人は、Mである。そしてSはMの派生クラスなのである。ちと気違いじみているか?それとも超正常と捉えるべきか?。
まず初めにあるのは、Mなのである。そいでもって、人はM的に出来ているから、他人が何を思ったり考えたりしているか察しが付くのだ。どっかの物の本にもあったが、Sが如何にSらしく振舞えるかは、M的気質が備わっているからなのだ。この事実は、お鍋さんの世界では、当たり前(田のクラッカー)な事実なのだ。
てな事を考えていると、快楽殺人者達が何を考えていた解ったような気になってしまう。それは、加害者が、被害者の恐怖心を自分の心理と読み替えて、恐怖的快楽を味わっているように見えてしまうのだ。ジェットコースターのような安全なる恐怖。うそうそ、大嘘なのだ(笑)。
恐怖や快楽を認識する脳領域は、隣接しているんだろうか...てな訳で同期するとか...意味ない推測(笑)。
言っとくが、私は、Mでも、Sでも、お鍋でも、はたまた精神異常者でもないのでよろしく。ただの照れ屋で、怠け者だ。
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恐怖心と想像(創造)力は、一致するのかも。何も思い付つかなければ、何も考え付かなければ、何を感じ得えようものか?。心霊写真の解釈にしたって、その想像力は、天下一品。恐怖心は、どんどん、どんどん、発展する。恐怖心が、創造されるのだ。
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ああ、不幸が美しい、なんて美しいんでしょう、と思っていたら、「不幸論」(中島義道著 PHP新書)なんてのを発見。もちろん即読。読んでみそ。(’03.2.13)
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霊現象ほか
脳内視覚野が、外界の変化する磁場?に誤動作するように、側頭葉のゴットスポット(GS)も、磁場とか電場によく誤動作するらしい。TVでやってました。
GS野の血行でも良くなるんでしょうか、「ピップエレキバン効果」?(笑)
私が思うに恐らく、GSは精神心的現象の大元...精神心的現象の始点であり、ここが誤動作すると始点ゆえ修正が上手く出来ないのではないか。
であるからして、脳全体が誤動作してしまうのではないだろうか。その結果、幽霊やそれ以外にも色々見えたり、感じてしまうのかもしれない。
誤動作するとどうなるか?。
霊的イメージとか、恐怖イメージとか、幸福イメージ、神を見たとかのイメージとかが、起きるのだとTVでは言っていた。私は更に、学問的イメージとか、鬱イメージとか、自殺願望感とか、不幸イメージとか、不安イメージとか、吐き気とか、芸術的イメージも付け足せるのではないかと思う。
じゃあ、何が霊か?。
地中深くの岩に圧力が加わって電気が起きる。電気が起きれば、磁場と電場も起き、空気を電離させる。
そのお蔭で側頭葉のゴットスポット(GS)が狂い、人の心理も、狂わされる。
皆その場所で、死にたがり、霊を見たと言い出す。霊現象の多くが土地や家を基点に語られるのは、このためではないかと、推測できる。
だから、お墓があるから、幽霊が出るのでなく、霊が出やすいところに墓石を建てる人の心理があり、そういったところで人が命を絶つように仕向けられている。
恐らく霊能者は電気を通しやすい体質的なのではないか?、そこで更に敏感なGSのため、色々感じたり見えたりするのではなかろうか。
そんな理由のため、霊能者がシャッターを押せば、電離した空気がフイルム面に付着して感光するのかもしれない。
であるからして、フィルム以外に、霊は現われにくい。
電離した空気...プラズマ(オーブ)が被写体付近に存在し、鏡面的作用をしたら、映画「プレデター」のように被写体(の一部)が
欠落するかも知れない。では何故、目に見えないのかと、疑問も湧くが。
但し、電離した空気がフィルムを感光させるだけの能力を持ち合わせているかは、私の知り得たところではないが...
二重露光させればそんな難しい解釈は、必要ないだろうが...
そもそも滝、噴水、水辺では、電離した空気...イオンが漂っているし、そんな水辺では、色々なイメージを受ける人も多い。
おまけに数千ボルトの電気は、僅かでも生臭いと感じるオゾンすら生み出してくれる。霊が生臭いのはこんな理由かもしれない。
もしかすると、脳の誤動作が、臭気を感じさせるのかもしれないが...
基本的に、電気は、自然界の中にゴロゴロしている。地上から10m離れるだけで地面との間には、微弱な力しかないが数百ボルトの
電位差が生まれる。レーダーや無線機と同じ同波長のギャップには、強力な電界、磁界が生み出される。
先日TVでやっていた「スカイフィッシュ」は、きっと生物でなく、電気的なものだと思う。
電子機材が多く置かれた密閉空間は、多量の電離した空気を保持し、人の心と電子機材を狂わすだろう。勿論、家でも。
だから、密閉されたテレビ局だのスタジオは、打って付けなのである。高層階のホテルでは、レーダー波や電波のうなりの影響を受ける。
直接波と壁に当たった反射波は、うなりを生み出すから、これもGSに影響を与える。
いずれも、微弱では有るが、それを読みとってしまう人の感覚は、生半可なものではなく、それらが色々なイメージを生み出し
ているらしいと言うのが、GSである。だから、そこで命を絶ち、霊を見たと言うのだ。
強い電気が発生するところとして、どのような所があるか?。
そこは、地震の巣、地中の亀裂...活断層と言ったところに可能性があるのではないだろうか?。
具体的には、物に圧力を加えると電気が起きる(電子ライターの原理)ように、活断層がある場所では、大きな圧力が岩盤に掛かり、
電気を生み出し、それにより、電離した大気や雲を作ることが一般的に知られている。(同TVより)
そんな上に家を建てれば、それは大変な事になるのではないかと思う。
おそらく、あの騒がれた幽霊アパートは、そんな活断層の上にでも立っていたのではないかと、もしかしたら、
レーダー波かも知れない、と私は推測する。御払いより、銅製ヘルメットを被り、銅製のアンテナをいっぱい立てて、銅線を張り巡らせてアースした
ほうが、よっぽど効果があるのではないだろうか。「電離した空気が霊である」なんていう指摘は別にしても...
でもって、ついでにミステリーサークルもこの理論で説明できちゃうのだ。サークルの一部は、人為的かもしれないが、全てが、
人為的でないように思うのだ。
ミステリーサークルの幾何学模様は、幾つかの正負のプラズマがバランスを保って、大地の押し当てられた様に見える。
正負のプラズマがあるかどうかは、私の知るところではないが...
水を撒いて清める行為は、実は、地面の電導性を高め、心を惑わす電離した空気を大地に逃がすために行われていたのかもしれないし、
清めの塩が水に解ければ、より電導性能は、上がる。
電離した空気...プラズマは、色々な形で見える。白く丸いもの、オレンジ色、赤かったり、色が変わったり、透明で見えなかったり、
鏡のように光ったり、点滅したりと、勿論パチパチとか、バッチとか、ブーンとか音も立てる。
クラック現象とか言いましたっけ?。動きは全く以って予測不能。プラズマは高電位であるために空気をオゾン化させるだろう。
頭痛持ちの私にとって、頭痛、臭気、吐き気は、同じ意味である。頭痛のときにどれか一つだけ感じるのは、無理である。
個人的には、偶然にも、プラズマを見る機会が得られた。そのプラズマは、私の眼前200〜300m先を、サーチライトより白く
眩しく、周期1秒くらいで瞬きながら、送電線に沿って飛んでいた。でもそのときは、霊だの人魂なんて解釈は、
思いもよらなかったし、ましてや電離した空気、プラズマ、自然現象なんて思いも抱くことは無かった。全ては、不思議、不思議
で数年が過ぎて初めて、ああ、あれは、プラズマだったんだと気付いたのである。恐らく、幻覚でなく現実だったと思うが、
証人を得られなかったのが、残念極まりない。後にも先にも不思議体験は、これくらいである。
空気が電離すると、導体になるので、電気のスイッチはオンするか、若しくはショートして電気がオフされる。
電離物の量によっては、オン・オフの曖昧な状態も、起きるだろう。故に、電気機材は、正常動作できなくなる。
空気が正常に戻れば、何事も無かったように機材は動くだろうが、ショートしている訳だから下手をすれば、機材が壊れる。
物が電気を帯びれば、軽いものであれば動きだし、ポルターガイスト的現象も引き起こされるだろうが、
どれ位の運動能力が発揮できるかは、私の知る所で無い。
大体、見られているような気がするってどう言う事なんだろうか。では普段、背後から人に見られると気付くのだろうか?。
視界の隅に人影が見えると言う人は、人が形や色を認識出来る視覚領域を無視している。
ぞっと鳥肌が立つとはどう言ったことなのか?。少なくとも、私は、意識的に鳥肌を立てられるし、もちろん寒気までも
感じ、身震いすら起こすことが出来る奇人である。後頭部付近に意識を集中すると、5秒以内に鳥肌が立ち、20秒も有れば、
身震いすらできるからして、鳥肌は、意識的にも立つのである。自分は恐怖を感じていないと思った時に起きた鳥肌は、
実は解離させた恐怖嫌いな心が、恐怖を感じたために、無意識で立ったのかもしれない。
では、非常に良く当てる霊能者は、何か。
そんな人を事実として捕らえるならば、いちえに、直観力に長けているのは確かだろう。表情、容姿、仕草、イントネーションの
違い、瞬きのし方から、目の配り方、服装、椅子に腰掛ける仕草、所有物、そんな物を総動員して判断するのだろう。ついでに、音楽の趣味や好きなアイドルの傾向も入れておくか。
でも、家などの詳細な構造描写は、直観以上であるように思える。
それは、まるで生きている対象者の記憶や思念を読み出しているかのようですらある。であるが、それが、直観と言うものなのだろうか?。
霊能者と呼ばれる人たちの直観と霊能力は別個に考えるべきかもしれない。私は、霊能力に関しては懐疑的だが、直観
に関しては、寛容である。おそらく、霊能者は、強固な論理的思考を持ち合わせていない。論理と直感の対的関係と言う奴ね。
やはり、いまある科学以上の原則が働いていと思えるし、全てを科学的には捕らえることは出来ないという私の直観も
ある。何故なら、全てはイメージ(〜のような感じ、直観、形而上学的、抽象的)が、物事の始めにあるように感じるからである。
それでも、直観的情報伝達モデル、直観的心理伝達モデルを構築したくなってしまう。実は、物質の根本...極限を見てい
くと何となく説明できたりもするが...
人の精神現象の原理原則の根本は、人が理解できるような意味を持ち得ていない、というものもあるらしいが...
やはり、根本とは、無意味、無価値なのであろう。
実際問題、私は、霊を否定したいわけではなし、合理的解釈を求める気もない。解釈の可能性を提言したい、自己表現したい
だけである。
いずれにしても、霊が見えると言う人が、霊がいるいると怖がるのは、健康的にも良くない。また逆に、霊など絶対に居ないと
言いきってしまう人は、「霊も居ていいかも」という思考的緩み、水平的思考が、重要になってくるというのが、ものの本、心理学の教えらしい。
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こういう推測って、結構楽しかったりする。
季節ねた。そこで、私は、人は恐怖が好きなMなのかと、ふと想像してしまう。
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オーブ...それは絶対プラズマとか火の玉(人魂)、とかいう類のものだ。そのプラズマの電気が、脳内GSに影響を与えるのだ。プラズマは、レーダーとか、活断層、宇宙からやってくるのだ。
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では、霊能力者は、「霊が見える」と嘘をついているのか?。いや、その幻影は、事実だ。彼等のバーチャル思考空間には、幻影である霊が立っている。
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答えは、磁場なのだそうだ。磁場の中で動く伝導体(人、血液)には、電気が流れるのだ。というわけで、ほぼ、あたぁりーい。磁場のシールディングは、鉄板がベストですので。(’02.8.2)
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ウィトゲンシュタインとか
あまり深入りしたくない世界だね。確かに、彼の性格は善かったのかも知れないが、周囲の人々を正しく認識できたのだろうか。心理的な駆け引き、交渉術...商売人には、向いていなかったかもしれない。
脅迫地味ていて絶対に浸りたくない世界だ。
彼の辞書に「愛」という言葉は、あったのだろうか?...
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私の単なる意見。主観だ。事実ではない。でも、ウィトちゃんの言う世界観が好きだ。
語りえないものって、曖昧で比喩で表現された世界観だったのだろうか。愛的世界という...
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語りえないものって、道徳とか感情とかそういう類のものらしい。
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全ては無価値
すべては、この言葉で完了したと同時に始まった。この言葉...この表現は、より一段と私に安息を齎したのさ。
私と言うよりは、究極的な人間本能は、「全ては無価値」である事を曖昧ではあったものの、既に見ぬいていた。しかし、 今ある社会は、「価値あるものが存在する」と教え、究極的な人間本能に反していた。そんな中で、眼前にあるはっきりとした「有価値論」に翻弄され、 本能的な「無価値論」を捨ててしまった。それ故、もう一つの無価値な世界である最終目的地を探し出せず、彷徨い歩いていたのかもしれない...あるべき筈のもうひとつを探していたのかもしれない。そして無自覚にも、躍起になって捜し求めていたらしい。
やっと出会えたね「無価値」君って言ったところか。やっと無価値になれた訳だ。本質的な自己を見出したわけだ。
どちらにしても、全てが無価値とわかれば、価値の再定義、意味の再定義からやり直さなければ。「人生の意味論」みたいな、本質的には、 意味など無い物事に意味を付けて安定しなければならないのかもしれない。
人生の意味とか、アイデンテティーの確立だの、自己を見出すだの、どう見たって変だろ。何で人生に意味があるんだ。意味付けするって事自体それには意味がない事を表しているし... 自己の価値を確立す るて何だ。自己を見出すって何だ。己にそんな価値や大そうな意味があるのか?。そら大そうな自信だね。そして全ては、自己否定の念で矛盾と無限の地獄へ落ち込むのであった。落ち込んで初めて自己の二重否定ができるのさ。否定も徹底してやると、肯定になるのさ。ついでにもう一つ、「自我確立に失敗した」なんてのも、なんか変。
私なんかは、己に自信を持っていないと自信を持って提言しちゃうもんね。傲慢で根拠の無い自信なんて要らないのさ。純粋な自信だけを持ちたい。
そして私は、社会に向けて、こう提言しておこう。
「意味を無理に与えて安心するな、物事の本質には意味など無いのだから」、「自己の無価値さを会得しなければ、自己の価値など見出せるはずなど無い」と。
前者は、どこかの哲学にあるだろきっと、後者は、心理学の応用よん。
最後に、私が意味を欲しがっているのではなく、人が、人間的存在が、本能として意味を欲するのだ。
いぢょう。
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最近やっと、二とか三とか四という本質を見ることが出来た。でも五とか六なんてのもあるらしい。
無価値とはいうけれど、全てが無価値なわけだから、正しくは、同価値、平等、有価値(価値があること)てなところか?。
価値とは、幻想であり、社会が作り上げるものであり、社会が躍進するための道具でしかない。それ故、我々個人は、この価値に騙され続けねばならないのだ。この事実に気付いては、いけないのだ。
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全てのものには、価値が無く、また平等であると捉えると、「自我確立に成功した」とは、大きな矛盾ではないか?。アイデンテティーを確立した、とか、自己に価値を見出した、とか、可笑しくはないか?。えっ。でも、これこそが生きていく上で重要で、かつ、正しいことなのだ。正しい事は、定義しなければならないのだ。
優柔不断とは、決断力のなさと自信のなさを表すマイナス性の面であり、また、全ての物事から価値や平等性を見出すプラス性の面の両方で捉えないといけないのさ。
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だから自己を見出せずに死にたいとか自信が無いと思うのは、実は、超正常なのだ。それは、全くもって素晴らしい思考を持った現代人たる所以なのだ。究極の思考を行うには、感情的価値(意味)付けは、禁物なのだ。あるものが「良い」とか「悪い」「好き」「嫌い」「価値がある、ない」とか思えたとき、自分に問うてみればぁ。
「美しいものが、良い」って、えっ。一体それの何処がどう美しいのか教えてくれ。何故それが美しく感じられるのか教えてくれ。美しいものは、美しい。理由などない、って。...ということは、美しいと思い込んでいるだけなんだね。
「あの人の顔が好き」って、えっ。その顔の何処が何故好きなのか教えてくれ。顔は整形すると綺麗になるのか?。ボディーラインは、整形すると綺麗になるのか?。でも何故それが綺麗と言えるのか?。綺麗とは、何なのか?誰か教えてくれ。
鏡に映った姿は左右逆になるってぇ、えっ。どういう意味で左右逆と表現するのか教えてくれ。どう見たって、右にあるものは、鏡の右側にちゃんと写っているぞ。う゛〜頭割れるぅ。
ほら、理由が無い。それは、現代が教える感情的意味(価値)付けなのだ。ということで、何であんたに価値があって自信があるのか教えてくれ。
どうして、親が、年上が、アイドルが、六大学卒が、高給取りが、エリートが、官僚が、医者が、社長が、政治家が、偉くて凄いのか教えてくれ。
無秩序にも似た多神教的世界観は、私にそういった考えをもたらすのかな。価値が平均化されてるって感じだろうか?。
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と言うことで、現代を生き抜くためには、自分に大嘘ついて生きるというのが、唯一正しい生き方なのだ。己には、価値があり有用であると、皆疑うことなく信じ込込んで生きているのじゃ。じゃあ、どうしたら信じ込めるのだろうか。疑わずに、そう信じることができるのか?
- 盲目的に信じ込む
- 信じ込むに値する物的証拠を作る 資格、創作活動(小説、詩、音楽、絵画、他色々)、製品作り、財産作り、育児?とか
- 忘れる
手っ取り早いのは、3か。でも、私にとっては絶対不可能。
で、価値があると信じるから、価値があるものとそうでないもの、という順序が生まれるの。順序は、秩序を齎し、秩序は、構造も生み出せるの。そう、これが社会構造なの。でね、さらに、一神教的とは、順序とか、秩序だから、これこそが、一神教的世界観な訳ね。価値的秩序観を与える一神教的世界観てな感じだろうか?。
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で、これが、私にとっての思考的礎な訳。不動の石な訳。確固とした立脚点に立てたかしらん?。えへ。
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ってゆうかぁ。そういうストリーでもって人は、成長するらしい。別に特別努力したわけでも、誰かさんのお陰でもないらしい。
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全ては、私の妄想なのでよろしく。忘れてくれ、大嘘だ。(笑)
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劣等感とか
劣等感とか、自己否定的とか不安を抱けるって事は、実はすんごく素晴らしい事だったりする。自分の思いや考えを否定的に捕らえられるってことは、更に深く物事を捕らえられるって事だしねぇ。まあ、「哲学する人は、不安の中から答えを持ち帰る」と表現されるように、考える事は自己否定的側面を持ち合わせているので、思考好きな人は、劣等感とか不安に悩まされると思う。要するに、賢ければ賢いほど自己否定的で強い劣等感を抱き自尊心が低く、自信喪失的かもしれないって事。真に優秀な人達の辞書には「自信」という語句が抜け落ちているかもしれないって事。
でも自信が付くと今度は、無駄な自信に頼って、よく考え無くなる。何故って、考えなければ劣等感や不安に悩まされることはないからねぇ。でも、それって劣等感か?。そのとき沸き立った感情は、劣等感か?、それとも不安か?。きっとそれは、感情。「Aは、Bだ」とする感情というか、感覚だ。「AをBとする」という定義だ。この塊である感覚が、無視され、言葉へ置き換えられるから...いわば、自分の感情を無視するから、行き場を失った感情が正しく認識されない故、不安なのかもしれない。
さあ、どんどん不安と劣等感の友達になろう。(大爆笑)何故って、
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劣等感は、成長過程(期)と唱えられたりするが、私は、向上心の裏返し?と捕らえたい。あんまし変わってないか。
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「私は、自信がある」という表現は、本質的には、自信が無いというのと同意だから。わざわざこんな表現すること自体、自信の無い自分に無理に自信を得ようとする傲慢さとか、自分を騙そうとするとか、そんな言い訳のように思える。
私は、自信が有るとも、無いとも言わない自信家になりたいのだ。
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とかく現代は、高度な思考を要求する。それは、優越感を感じず、劣等感を抱くな、盲目的イニシアチブを取るな、他人を尊重せよ、従属でない対等な関係を結び、自己の考えは間違っているかも、という自己の情念を無視するような自己否定的観念、不安を押し殺し強い自分を演出せよ、それでいて自己主張せよ、と要求するのだ。
従わせよう、とか、分析してくれよう、とかいう愛の無い破壊行為は、糞食らえなのだ。
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季
春の季
何かが始まるとき それは期待
期待が生まれるとき それは夏の季への期待
何かが私を柔らかく包み込む安堵のとき それは冬の季が呉れた陰鬱な世界からの離脱
冷え切っていた竈に小さな炎が灯さるとき 母なる安堵の大地へ希望がいでるとき それが春
瑞々しい春
初夏
竈の炎はいよいよ強く るつぼを炙る
気泡が生まれては 弾ける
何かが いでようと 生まれようと るつぼの底で戯れる
ぐつぐつと何かが底で戯れる
真夏
るつぼは ぎらぎらした鉛を煮えたぎらせ 不愉快な音を立てる
そのけたたましい音は 静かな辺りに響きわたる 何かものいいたげに
真夏の太陽の熱を借りた鉛の泡は 弾け 飛び散る 不規則に 淫靡に 狂気に
弾けた鉛のつぶが 地表で次の炎を灯し 音と共に飛び散る
秋の季
幾分冷たくなった空気が るつぼを冷やす まるで反省を促すかのように
もう真夏の太陽の熱を借りる事は出来ない まるで別れを惜しむかのように 真夏の太陽は去って行く
そして いよいよるつぼは 冷やされる
鉛は動きを止め るつぼの周りには 鉛の粒が散乱している
るつぼは 音を立てることを止める
まるで冷静さを取り戻したかのように
鉛の波面は 鏡のようにはっきりと 周りの光景を映し出す
まるで全ての物事を手にとって見るかのように そして詳細に
冬の季
鉛が鋳型に注がれる
冬の冷え切った空気は 鉛が大事にしている熱を否応無く奪い取る
その熱は 冬の薄暗く重々しい空へと逃げて行く
それは 鉛に 冷静さ以上のものを教えようとするかのように
鉛には 沈黙が強制される 大事なものを奪い取った冬の空によって
この強制は 次の春が来て 奪い取られた熱を還してもらうまで続く
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とある知り合いは、春になると「春のにおいがする」って頻りに言っていた。 その人はなにが言いたかったのだろうか?。そして、その春の匂いとはどんな匂いなんだろう。少なくとも、 私には、春は春の情緒としか理解できない。
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DEATH
「人が突き詰めて思考すると最後に残るのは死だ、自殺だ」と馬鹿げた事を言う人がいる。 最後まで考えたら、結局のところ、どっち付かずの優柔不断的な立場をとり、問題点の緒言に戻るのが普通だ。本質的には、 思考を止めるから結論が導き出せるのじゃ。死に限ったことではないが、死という結論とは、思考停止そのものだ。
人は、全ての欲や思いが消えたとき死ぬのかもしれない、死ねるのかもしれない。生きる欲も、死のうという思いも消えたと き、死の美しさに取り憑かれるのかもしれない。悲しみ、不幸、絶望を感じて死にたいと思っているうちは、彼らはまだこの世に居座るつもりだろう。勿論、そうでない人もいるだろうが、気まぐれな、思いつきのような死まで私は付き合えない。
死が、「永遠なる死」、「無限の死」、「麗しき死」、「美しき死」と表現され、ましてや物事の始まりという意味まで含もうが、私にとっては現実世界からの決別以外の何物でもない。自分がこの世から消える瞬間を想像するがいい、自己が消滅する瞬間を想像するがいい、自分が消えた世界を想像するがいい。ようは、どん底に落ち込んだと、奈落の底へ落ち込んだと、自分は死んだと思えればいい。思えれば、復活できるのである。本当に死んでしまったら復活できぬではないか?。死せれば、蘇れるのである。もちろん、それはイメージの中での死であるが...
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重い重い、重すぎ。やっぱり私は、自殺を擁護出来ない。「物質的豊かさ」が自殺を招いてい ると指摘する人もいるようだが、実のところこの「豊かさを求める」というものが曲者であように思う。まるで、強欲になれ、 強い向上心を持てと、誰かに命令されるようで、あまり好きな言葉ではない。少なくとも現代は、強い向上心を持てと教えているようで、私にとってそれではまるで自尊心を低く保ち、高い自尊心を得るな、とでも言っているようにさえ聞こえてくる。
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◎ 性と死のホームページ ◎
貴方が正常なら、その死に対するスタンスは、笑えるかも?。だって全てが無価値なら、何で私は生きてるの?。 それは、私には価値があると、私が勝手に定義したから。
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田口ランディ三部作
コンセント
三晩かけて「コンセント」を一気に読んでしまった。特に強く印象に 残ったのが、兄の死に様である。これじゃあまりにも死が美しすぎる。んー、毒、毒、毒、死んでも知 らんぞーっ。
そこに描かれた兄とは、生きる欲も死にたいという欲も全ての欲が消えた存在のように思えた。 だから、全てがどうでもよくなっちゃった、全てが無価値のように思えたから、生きる意味すら無くなった。生きることに価値を見出せなくなったから、死んじゃった、てな感じだろうか?。実のところ、そんな描写は全く無かったが(笑)...
そして、死を商品として取り扱う商人たちが、 死を生きるという側面において、美しく強く描かれていたのが印象的だった。人は、死と共に生きなければならない、死ぬために生きなければならない、てな、ところだろうか。
幸福な死を得るために死を意識して生きなければならない。死が何故怖いか、その理由を問う必要があるとでも言いたいのか?。もち ろん、そんな描写は全く無かったが(大爆笑)..。これは、ユングに教えてもらったことだ。
アンテナ
そろそろ作家さんの創作コンセプトが見え隠れしてくる。 臨床心理学からの拝借か、それとも個人的直感か、そんなもの集大成である。でもなにか物足りない。私の読書能力のなさなのかもしれないが、私には、パズルのピースが散らばっているようにしか見えないのだ。なんら、流行小説の域を脱していないのだ。
私も人って皆Mだと思う。苦労とか努力、勤勉さという苦痛に耐えられるのは、それらが快楽に感じられるのと、 もう一つの眼差しが自分に向けられているからだと思う。
人が悪い行いをしないのは、神が見ているような眼差しのおかげだと思う。 そう、それは、自分の価値基準を作っている眼差し。その価値基準を無視すれば、 罪悪感や自責の念に駆られる。もう一つの知ることの出来ない隠れた自分が、 真実の自分を甚振らずにはいられない。悪い行いを一切認めない潔癖地味た行動には、 とてつもない強い間ざしが見え隠れしているような気がする。ゆえに、麻薬中毒患者や分裂症患者が抱く妄想は、ちょー正常なのかもしれない。だがしかし、勿論その眼差しは、 私(以上の総体)が私に向けた眼差しであり、超自我などと表現されるらしい。無論、私は、既にその理論に従っていないがね。
登山家や冒険家は、何が楽しくて、そんな行いをするんだろうか。困難の征服というよりは 、自己の弱い面の征服感を満喫しているのだろうか。苦痛に対立する爽快感を得ているのだろうか。自然との一体感なのだろうか。自然に勝てない絶望感、畏敬の念か。もしかすると、彼らは究極のMなのかもしれない。 だって、征服したときに感じる爽快感とか征服感は、何を基準にした感覚か?。
モザイク
画像に掛かったモザイクの一片は、隣り合った別の片とは、 異なった色であり、独立しているのである。であるがしかし、それぞれの片は、お互いの影響 を受けているのであり、一つの片は隣合う片から成り立っている、といえる。ある一片は、全体から独立しているように見えるから独立した情報しか伝えていないように見えるが、実は一片は、全体あっての一片だから密接に関係していて全体の情報を伝えている。そもそも、一片とは、その前提(背景)に、全体を包括しているのだ。個(自己)の存在は、個(自己)以外の存在から起きあがっているということ。また個は、全体でもあるということ。
中学、高校時代は、私もやっぱり終末的(千年紀末的な彗星毒ガス説妄想?)白昼夢に躍らされた。それが、自然だったのだ。私がその白昼夢を創造したのではなく、白昼夢が私を襲ったと表現するのが、より適切と思う。映画 「ゾンビ」のラストシーンや映画「マッドマックス」、「ブレードランナー」等が引き金となってその白昼夢は、私の心理の奥底から具現化し現前されたのであった。世界規模の災害により 、人類を含む生き物たちが死に絶え、荒廃した世界が後に続く。それは、丁度梅津カズオの「漂流教室」そっくりだ。そして、私自身も死に絶えると思ったが、何時の間にか「私だけは生き延びる」と変わっていた。生き延びて、生き延びて、コミュ ーンを作って理想世界を白昼夢の中に作ってしまった。確かこんなことを考えていたように記憶している、というか、その手の映画を見るたびに荒廃した世界観をイメージする。あえて言語化するなら「腐った汚物は消えてなくなれ、ついでに全部無くなれ」といったようなイメージ だろうか?。
そういえば、「エバンゲリオン」はまさにこの荒廃したイメージくりそつで、さらに想像を加えて出来上がっている、ということに最近(’03.2.20)気付いた。漂流教室といい、エバンゲリオンといい、そのほか数々の映画といい、うーん、何処からアイデア拝借したんだか。やだねえ、ヒット作ってやつは。
特に、映画 「ゾンビ」のラストシーンの群れるゾンビのカットは、絶望のようなものを奥底に秘めている。表皮は、単なるゾンビの群れであっても、奥底にある絶望が、想起されたはずである。
終末妄想というか白昼夢は、何が引き起こしたんだろうか?。冷戦時代の不信感か?、思春期の不安定さだったのだろうか。世界的無意識が、そんな白昼夢や、原爆競争の冷戦構造を作り出したのかもしれない。今の日本経済の根底には、そんな荒廃したイメージが日本人の無意識の中に現前化しているのかもしれない。まあ、自暴自棄にならないように気をつけたいね。
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アンテナまでは、まだ良かったんだ。アンテナまでは。
モザイクぅ!、物事の細部を見ると全体を失うと言うことなんだろうか?。全体を捉えきる曖昧さを許容しろという事なのだろうか?。アインシュタインなんかも言っているが、理解とは 、イメージとして捕らえることを言うらしい。自分の理解を言葉で言い表すことが出来る限りにおいて、それは理解していないとも言えるらしい。ある言葉を別の言葉で説明すると、永遠説明する羽目になる。ほら、理解していないでしょ。だから、適当に像に置き換えないとね。
そうそう、中学、高校時代に心に描いたものとして「力」という のもがあった。権力、財力、腕力、ありとあらゆるパワーに魅力を感じたものだ。その範囲は多岐にわたった。頭脳としての知力、ジェットエンジンの推力、馬力、特権階級やエリー トたちの権力、こんな嗜好があるから人はそれに向かって努力するのかもしれない。良い悪いは、別にして。アドラーの言う権力志向では、範疇が狭いのだ。
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この三部作は、麗しいほど「繋がる」という語を奥深くに秘めているかも。
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鏡
果てさて、右にあるものは右に、左にあるものは左に映す鏡は、左右を逆に映すと表現してよいものだろうか?。
哲学をやるにはここら辺から入るのが楽しい、と私は思うのである。そうしているうちに自分の感情が理解できるし、そういった社会の常識に誤魔化される事もなくなるのだ、と強く私は思うのだ。
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この鏡の問題を錯覚というなかれ。
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復活
荒涼とした砂漠に 恵みの雨が降る
砂漠に恵みの雨が降るのである
後に 緑が生い茂る
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想像してみよう。雨を想像しよう。
どうだろうか?。何か好転する兆しが見えただろうか?。雨とは恵みであり、潤いである。雨を憂鬱とみるのは、顕在意識的である。もっと掘下げて拡充してみよう。集中力の限りを尽くして雨を感じてみよう。
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