![]() ◆ コルシカ島 : 「コロンバ」 の島 ◆ マルセイユからアジャクシオへ ◆ アジャクシオの大晦日 ◆ アジャクシオ 市街散策 ◆ ナポレオンの生家 ◆ コルシカ鉄道 ◆ コルシカ鉄道 つづき ◆ かつての首都 コルテ ◆ コルシカ語のことなど ◆ アジャクシオ・ボナパルト空港からチュニスへ |
わたしにとって、コルシカ島とは、何を措いても、プロスペール・メリメ著の小説 『コロンバ』 の、主人公の島である。 フランス留学時代、大学院に登録する前に、外国人学生のための 「フランス文化講座」 を受講していた。そのときの最終試験で構文解釈の問題が出たのだが、それを一目見るなり、ああ、これはメリメの 『コロンバ』 だと頭にひらめいた。わたしはそれまで 『コロンバ』 を原文でも訳本でも読んだことがなかったから、きっと、NHK第二フランス語講座のテキストとして読んだのであろう。 そうしたこともあって、留学を終えて帰国してから原著を取り寄せ、辞書を引き引き読んだのを記憶している。 時は流れて、チュニジアでJICAのボランティアをしていたある日、チュニス郊外線に乗り、二人の女性協力隊員をハマムシャットまで案内した。ヤセル・アラファトがいたPLO亡命事務所の、イスラエル空軍機に破壊された廃墟を見るために、である。その帰り、彼女らとチュニス駅で別れてブルギバ通りの本屋に入ると、新書版の棚にメリメの 『コロンバ』 (Prospere MERIME, ? Colomba ?, Garimard) があるのを見つけた。前にもう読んだ本だし、どうしようかと思ったが、中を見るとページごとに編集者注があるのに惹かれて、結局は衝動買いをしてしまった。本当は 『千夜一夜物語』 のフランス語版が欲しかったのだけど・・・。 豊田の家にあるのはフラマリオン版で、『コロンバ』 だけが収録されている。今回買ったのはガリマールのフォリオ・クラシック版。『コロンバ』 のほかに 『マテオ・ファルコネ』『イルのヴィーナス』という、やはりコルシカ島で名高い復讐伝統をテーマにした2つの作品が収められている。 わたしが考えるよい本とは、繰り返し読んでも飽きがこないものである。この 『コロンバ』 はまさにその通りの小説で、新潮文庫に翻訳があるらしいが、わたしはまだ見ていない。だからこの本を手にするたび、最後に出てくる文章をどう日本語に直せばよいのか、いつもに思い悩む。次のがその問題の文章である。(oeil は眼、yeux はその複数形) Tu vois bien cette demoiselle si jolie. dit-elle à sa fille, eh bien, je suis sûre qu’elle a le mauvais oeil. (女は娘にこう囁いた、「ごらん、あのお嬢さん、あんなにきれいなお顔だけど、le mauvais oeil にちがいないよ」) この le mauvais oeil を日本語でどう訳すか? 「悪い眼」 や 「意地悪な眼」 では、美女コロンバのイメージを歪めてしまう。メリメもこの眼についてノートに書き残していて、編者のつけた脚注にそれが転載されている。 Tout le monde n’a pas le pouvoir de nuire par les yeux ; il faut avoir le mauvais oeil. (眼で人を傷つけるというのは誰にも出来ることでない。それをするには le mauvais oeil が必要だ。) いちど本屋で訳本を見つけて、そこのところだけ立ち読みしてやろうと思っっているが、まだ果たせていない。 |
2012年12月27日、まずはマルセイユ空港に到着。次の飛行機まで待ち時間があるので、まずは空港からバスで港へ。 ![]() 少し前まで港の全体で工事をやっていたが、今はかなりすっきりし、落ち着いた様子になっていた。角にあるカフェ・サマルタンの前にあった道路の仕切りもなくなり、視界が開けて明るくなった。ビールを飲んでいると鳩がテーブルに座り込み、わたし用のピーナツをつついて、みんな食べて行ってしまった。 時間があったので往復 3 時間の、マルセイユ・クルージングに参加。東のカシスという、石切り場とワインの銘柄で有名な村まで案内してくれた。往きはポカポカした陽気で暖かかったが、雲に陽も隠されて大波の中を行く帰りは、相当に寒かった。ただ、久しぶりに大きく揺れる船に乗れて、はなはだ爽快ではあった。 ![]() 夜遅く、コルシカ航空にてアジャクシオ着。ホテル・メルキュールに宿泊し、年明けの 4 日まで過ごした。 |
元日の朝にテレビを見ると、前日の大晦日の、パリなどの夜のどんちゃん騒ぎが映し出されていた。ここアジャクシオでは午前零時に爆竹の音が単発的に聞こえただけ。音楽も花火も何もない、ごくごく普通の静かな夜であった。 ![]() 夕方、6時すぎのナポレオン大通り。カフェはどこも満員で、行き交う人の数も普段より多いよう ![]() 電飾は多分、クリスマスのときの飾り付け。左はブティックが多いカルディナル・フェッシュ通り ![]() 第1執政 (つまりナポレオン) 像が立つフォッシュ広場 ![]() 市庁舎の正面玄関と、その前のフォッシュ広場。ここが市内で最も華やかな場所 ![]() 夕食前にカフェでビールを一杯。左はアントレの生ハム。このあとメインのイカスミ料理を食べた |
アジャクシオはコルシカ県の首都だけあって、きれいに整備されている。メルキュール・ホテルの前をクール・ナポレオンという大きな通りが走っていて、それがこの町のメイン・ストリート。ゴミだらけのチュニジアから来て、きれいに掃除の行き届いた通りを見ると言うのは、やはり気持ちよい。 ![]() アジャクシオの中心部。この辺りにナポレオン記念館などがある。そして例のごとくヨットハーバー。 ![]() 朝市のある広場。午前中で露店は終るが、その直後に市の清掃車がやってきて、水を撒いてきれいに掃除をしてしまう。この日の昼食は、ドゥーズフ・エ・ジャンボン (ハムと卵焼き)。このハムがなかなか美味しい。 ![]() 2013年のツール・ド・フランスのコースに、バスチア=アジャクシオ間が選ばれ、すでにその日程も決まっていた。アルプス越えと同じような、山間部を縫ってのアップダウン・コースとなる。 上右はフェッシュ宮殿の中庭。フェッシュとはナポレオンの母方の伯父で枢機卿。宮殿には数多くの絵画、とくに14世紀から18世紀までのイタリア人画家の絵画、ナポレオン及びその縁者の肖像画、それにコルシカ人画家の絵画が展示されている。 |
アジャクシオの中心部にナポレオンの生家がある。「ボナパルト家の家」 として、国立の博物館になっている。 ![]() ナポレオンは貴族の生まれではないので、生家も外観はごく普通のアパルトマン。案内板がなければ、すぐ前を通っても見過ごしてしまう。この家でナポレオンは 9 歳まで過ごし、父のシャルルが得た奨学金で兄のジョゼフとともに、オータン (ブルゴーニュ) の学校に入り、次いで士官学校を出る。孤独を愛する、熱心な勉強家であったという。 ![]() ここの見学料は 6 ユーロ。日本語の音声ガイド機も貸してくれる。部屋の改修や調度品についての説明が多々あったが、聞いてもすぐに忘れてしまった。ナポレオン自身は幼くしてコルシカ島を出たので、彼とこの家を結びつける具体的な物はほぼ何もないはず。が、何しろ稀代の英雄であるからして、まことしやかな伝説めいた逸話がつくられ、この家や調度について語られてきた ・・・・ といったようなことがいろいろ、彼の肖像画の横にある解説に書いてあった。 ![]() 唯一、床にクルミ材を用いたこの細長い部屋で、アジャクシオでは初めてとなる舞踏会が催されたという。正面玄関がある通りの名はボナパルト、アパルトマン横の細い通りはレティツィアと呼ばれる。ナポレオンの母方の苗字である。 ![]() 生家から1キロほど北にカゾンヌという公園があり、ナポレオンの巨大な銅像が立っている。その階段部分に、彼が手がけた主要な制度的業績 −− 民法、大学、コンセイユ・デタ (法制局)、レジオン・ドヌール、フランス銀行、会計検査院、政教条約 (コンコルダート) などなど −− が書かれている。すべて、今日のフランスの基礎をなすもの、である。 ![]() 銅像の横下にある 「ナポレオンの洞窟 (Grotte de Napoleon)」。ここでナポレオンは、10歳から 12 歳まで、友人たちと遊んだとされる。実際は彼は 9 歳でコルシカ島を出ており、まさしくあり得ない英雄伝説の一つである。 インドのネルー首相は獄中で書いた 『娘に語る世界歴史』 (みすず書房) の中で、このナポレオンをまったく理不尽な圧政者として描いている。トルストイの 『戦争と平和』 も、彼がバカげたロシア遠征などを企てなければ、書かれなかったことになる。 |
コルシカ島にはアジャクシオからバスチアまで、南北に鉄道が走っている。これに2回乗って、それぞれ北の終点バスチアと、中間にあるコルテという町まで行き、散策をした。 ![]() フランスでは新幹線のことをテージェーヴェー (TGV=トラン・ア・グランド・ヴィッテス=高速列車) と呼ぶ。 ![]() コルシカ鉄道を走るのもTGVで、ただしこちらは、トラン・ア・グランド・ヴィブラシオン(大揺れ列車)・・・ ![]() という自虐ジョークがあったらしいが、今は新型のディーゼル車輛が投入され、そんなに揺れたりはせず快適であった。 ![]() バスチアもアジャクシオに劣らず、きれいな町。平地が少ないので、それだけコンパクトに整備されている。 ![]() 港の前の広場にはずらりとレストランが。まずはコルシカチーズと生ハム入りのサラダを。 |
コルシカ鉄道でアジャクシオからバスチアまで3時間30分、途中のコルテまでは2時間かかる。時速は平均して40キロほどで、下り勾配では70キロほど出す。 途中でヤギなどが線路上にいると、警笛を鳴らしながら、ときにはそのまま停止してしまう。そのため案内の時刻表には、船や飛行機との連絡に責任は持ちません、との注意書きがある。 ![]() アジャクシオ駅とバスチア駅。ウイークデーは5本の運行。日曜日や祝日は2本しか走らない。 ![]() コルテ駅。かつての独立国コルシカの中心都市がコルテ。そのためか、ここはいまでも独立運動を象徴する地らしく、非常にきれいな町なのに、駅も住宅の壁も、いろんな独立スローガンの落書きで溢れている。 ![]() 単線で、途中のほとんどが無人駅。下車する人がいなければそのまま通過してしまう。 ![]() 黒部渓谷鉄道のような感じで、鉄橋とトンネルが数え切れないほどある。清流がいたるところに見え、駅にあった案内板にも、カヌーやラフティング、それに釣りのことが書かれてあった。夏に来れば最高のところのよう。 ![]() |
コルテは昔のコルシカ島の首都で、小説 『コロンバ』 でも主人公たちの係争を処理する裁判はコルテで行われていた。 下の写真ではそのように見えない嫌いがあるが、旧い時代の都だけあって、コルテというのは実に美しい町である。その上、本土以上に、フランス的な雰囲気が感じられさえする。かつての城塞の下につくられた町で、どこもかしこもきれいに整備されている。ここを歩いていて、靴がちっとも汚れないことに感心した。少し歩いただけで土埃だらけになるチュニスからやって来た身として、これはちょっとした驚きであった。 ![]() 駅を降りると上の方に城塞が見える。ナポレオンの兄、ジョゼフが生まれた町で、その生家も残っている。 ![]() 左は、インドシナで戦死したコルシカ島出身兵士の碑。そして右は、その少し先の道路にあったキリスト像。 ![]() 町の中はすべて石畳で覆われていて、細い道が縦横に通じている。そのどれを通っても向こうに抜けられる。 ![]() 色眼鏡で見てしまうからか、ここで見かける猫も、何となく落ち着いていて上品。すべてが飼い猫のよう。 ![]() チーズやサラミが並べられた商店。右の陶器店に目隠しを外された黒人の横顔。コルシカ島の象徴でもある。 ![]() 城塞へと通じる道。そこに火をつけられた車が一台。昨年の大晦日にフランス中で警官5万人が警戒する中、全国で2000台の車が燃やされた。もはや年中行事のよう。上の車もその際のものか、そうでないのか? ![]() 城塞。近代に入って武器庫や刑務所などに使用。見学は1月14日からで、中に入ることはできなかった。 ![]() 閉鎖中の城塞博物館入り口。 ここを通り抜けて城塞の中に入る。駐車場からは素晴らしい景色が見渡せた。 ![]() 電車からもこういう景色の連続。ピレネー山脈と雰囲気が似ているが、こちらの方がよりコンパクトで瀟洒。 |
コルシカ島ではもちろんコルシカ語が話される。ホテルに置いてあったコルス・エブドという週刊新聞を朝食の時に読んでいたら、コルシカ語とフランス語を共に母語とする人は島民の約20%、という調査結果が載っていた。最も話し手の多い外国語はアラビア語 (約2%) で、北アフリカからの移民がここでも多いことが知られる。 コルシカ島の人が話すフランス語にコルシカ訛りがあるかと思っていたが、どうもそういうのは耳にしなかった。反面、カフェなどで、隣のテーブルで話す人の言葉がまったく聞き取れないことが多く、あれが多分、コルシカ語だったのであろう。そう言えば、マルセイユでも不思議とマルセイユ訛りには出くわさなかった。昔、フェルナンデルという喜劇の名優がいて、フランス語を習い始めたころ、彼がキリストと話ができる田舎神父の役で出ていた映画を何本か見た。そのフェルナンデルが口にするマルセイユ訛りを、留学時代に聞いて感激した覚えがあるが、今は少し事情が変ったのかもしれない。まあ、わたしにしても、普通は大阪弁では喋らないのであるから。 ![]() 上はコルシカ大学。コルシカ島に唯一ある大学で、コルテ市の各所に分散する。左の写真には、UNIVERSITA DI CORSICA : PASQUALE PAOLI と、コルシカ語で大学名が書いてある。右の写真は正面玄関で、ここにはフランス語で法・社会・経済・経営学部とある。シタデル博物館と同じ敷地の中に考古学部があった。 ![]() コルテの要塞や古い町の見学コースには案内板があり、そこにはコルシカ語が併記されている。どうやら U が定冠詞に当たるらしい。ただ、ITINERARIU にしろ PATRIMONIU にしろ、ほとんどフランス語と同じである。右の写真は独立運動派の落書き。こういうのが実に多く、そのほとんどがコルシカ語の綴りで書かれている。 ![]() 独立は INDEPENDENZA。かなりイタリア語に近い。右の写真は前の総選挙時の、アジャクシオ選挙区のポスター。「コルシカ島全土でコルシカ的価値の実現を」、というスローガンが、フランス語のみで書かれている。 |
高知の竜馬空港と同じで、アジャクシオ空港の愛称はもちろん、ナポレオン・ボナパルト空港である。地元の新聞 「コルス・マタン」 によると、2012年にこの空港に降り立った旅客は100万人を超え、その前の年と比べて5%の伸びだったという。 ここを定刻の14時30分、コルシカ航空の飛行機で発ち、15時20分にマルセイユ空港着。チュニス行きのチュニスエアーは16時20分発なので、あまり時間がない。 急いでチェックインを済ませ、荷物検査のコーナーまで行くと、100人ほどの人が並んでいた。時計を見ると、指定されたゲートインの時刻まで、もう10分ほどしかない。横に、わたしと同じようにゲートインを急いでいるアラブ人の親子連れがいたので、チュニスまで行くのかと訊いたら、いやアルジェだと息子の方が答える。母親を見送るため、荷物検査のところまで一緒に着いてきてやってるらしい。そちらの出発時刻はわたしのよりも早く、仕方がないので彼らと3人で横の通路から前に出て、そのまま知らん顔して検査台に荷物を置き、通過してしまった。 そうして急いで目的のゲートにまで辿り着くと、さすがはチュニス航空である。まだ案内も何も始まっていなかった。結局、出発は50分遅れとなり、その間に、もうダメだと諦めていたパスティス酒とウイスキーを買うことができた。まあ、わたしの方でも、心のどこかで、まさかあのチュニス航空が定刻通りに出るということはないだろう、と思ってはいたのだけど。 ![]() 前に家人と一緒のときもそうだったが、チュニス航空のカウンターではパスポートやビザのことをうるさく調べる。昨年の夏は、滞在許可証まで見せろと言われた。今回、わたしは任期延長でパスポートを更新しており、古い方にビザがある。それやこれやを説明してやっとOKになったが、税関当局でもない航空会社のカウンターがなぜこれほどうるさく言うのか、不思議である。きっと、ベンアリ政権時代の役所的なやり方の名残なのであろう。 無事チュニス・カルタゴ空港に着き、タクシーに乗るため、空港ロビーの2階に上がった。出口から外に出ると、案の定、いつものとおり客引きが待っていて、タクシーかとうるさく訊く。それを無視して、向こうで客を下ろしたばかりの運転手に声をかけ、乗り込んだ。タクシーを巡るこのいつもの倦騒によって、そうだ、チュニスに帰ってきたんだ、と実感させられた。 |
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