![]() アヴィニョン → マルセイユ → バルセロナ → コルドバ → マドリード → リスボン → ペルピニャン → マルセイユ シニア・ボランティアのときの休暇旅行。 ラマダン中のチュニジアを抜け出してヨーロッパへ ・・・ ◆ アルマス アンリ・ファーブルの研究所 ◆ マルセイユ ◆ バルセロナ ガウディの建物 ◆ コルドバ ◆ グラナダ アルハンブラ宮殿 ◆ セヴィリア ◆ マドリード ◆ ロカ岬 西経9度30分 ◆ リスボンにて ◆ リスボン空港でのアクシデント |
アヴィニョンにはいろんな思い出がある。 フランス留学の最初の年、まだブザンソン大学の語学クラスに在籍していたころ、アルフォンス・ドーデの風車小屋が見たくて、南仏旅行を思い立った。 列車でプジョーの50ccバイクを運び、それに乗ってあちらこちらを巡る途中、、ついでにアヴィニョンにも立ち寄った。 ちょうどベトナム戦争の末期で、フランスにも難民が増え出したころ。 アヴィニョン郊外のフェンスで囲まれた場所にたくさんの衣類が干されているのを見て、へえー、こんなところに難民キャンプが、と驚いたものであった。 −−実はそれは、わたしが初めて目にするオート・キャンプ場であった。 ![]() アヴィニョンと言えばこの橋である。 壊れて用をなさない橋ながら、世界中から大勢の観光客を集めている。 ひょっとしてあの有名な、Sur le pont d'Avignon, on y dance, on y dance... の歌がなければただの橋のままで、悪くすれば取り壊されていたかもしれない。 昔は自由に橋の上を歩けたように思うが、世界遺産に登録されたいまは有料。われわれは旧教皇庁見学とセットになった割引切符を購入した。上右は、夜の観覧車から眺めたアヴィニョンの、町を囲む外壁。 ![]() 橋から見る川の風景が素晴らしい。右の写真に、両岸をつなぐ無料の、白い小型フェリーが見える。 アヴィニョンでは旧教皇庁がすぐそばの、オテル・メルキュール・パレ・ド・パープに宿泊。朝食時にレストランへ行って驚いたが、中国人民(あるいは台湾人か?)の団体客でいっぱい。いや、その食べること、食べること。 ![]() かつて旧教皇庁を初めて訪れたとき、幸運にも広間でピカソの絵の展示会が催されていた (たしか、作品のいくつかが盗難にあったと記憶している)。 しかし今回の見学は疲れるばかりであった。 日本で言えば南北朝時代。 二人の教皇をめぐる歴史やら何やらを説明するパネルを読んでもよく分からず、わたしとしては、この教皇というのがヤクザ同然の職業でなくなったのはつい最近のことである、などと考えながら順路を辿るばかりであった。 エンベルト・ウーコの 『薔薇の名前』 で、この旧・教皇庁は悪の巣窟のようにも描かれている。 ![]() アヴィニョン市庁舎のロビーの壁に、大戦で戦死したアヴィニョン市民の名が刻まれている。こうした場所でのフランス国旗は、不思議と色が映えて見える。ホテル脇の広場には屋外レストランが並んでいて、何を食べたかは忘れたが、風呂に入ってないらしいウエイターが横を通るたび、家人が顔をしかめていたのを思い出す。 |
『昆虫記』 のアンリ・ファーブルが晩年を過ごした自宅兼研究所の 「アルマス」 は、セリニャン・デュ・コンタという村の入り口にある。 そこへはアヴィニョンから電車でオランジュまで行き、駅前でバスに乗ることになる。 そうして着いたオランジュの観光案内所で、バスの時刻表をもらってよく見ると、「アルマス」 の開館時間に合わせたバスが一台もないことが判明。 まったく連携がとれていない。村では帰りのタクシーも拾えないだろうと、観光案内所の人は言う。ということで、どうなるか分からないけれど、とにかく行くだけは行ってみよう、ということになった。 11時40分発のバスに乗り、セリニャンに着いたのが12時20分。 バスの運転手に教えられたとおりに歩いて 「アルマス」 の入り口にたどり着くと、時間は午前の閉館時刻の12時30分。 中から3人の女性見学客が 「セ・レール」 (終了時間でーす) と言いながら出てくるところであった。 ![]() アルマスの正面入り口 その後ろから管理人の若い女性も出てきて扉に鍵を掛けながら、「午後の開館は3時30分です。向こうの事務所で切符が買えますから。それじゃ、ボンナペティ!」 と言って行ってしまった。 まったく商売っ気がない。 6時近くにオランジュ行きのバスはあるのだが、それではアヴィニョン行きの電車に間に合わず、残念ながら中の見学は断念せざるを得なかった。 まあ、わたしは少年少女向け全集にある 『伝記』 を読んだところでもあるし・・・。 ここまで来るオランジュ発のバスの乗客は、はじめわれわれ二人だけ。動き出すと運転手はわたしに 「こんにちは」 と日本語で話しかけ、次の停留所で常連客らしい女性が一人乗ってくると、「いま日本語の練習をしてるところなんだ」 と言って、それから3人でずっとセリニャンに着くまで、いろんな話をした。 この運転手も、ファーブルのことはフランス人よりも日本人の方がよく知っている、と言っていたが、ことほど左様に、グルノーブルでオリヴィエたちにファーブルの話をしたところ、それがどこの誰だか、彼らはまったく知らないようであった。まあ、オリヴィエもシルヴィーも、あのプロスペール・メリメさえ知らないのだから仕方ないけど。 いつ日本に帰るんだと運転手が訊くから、いまチュニスに住んでいると答えると、そうか、この辺りにはチュニジアでなくモロッコからの移民が多い、ラマダンになると奴らは昼間はずっと寝ていて、夜になると猛烈に食べ出す、などなどと解説してくれた。興に乗ると運転手は前を見ずに話しかけてきて、オランジュもマルセイユとそう遠くない南仏の地だから、むかし本で読んだフランス小噺に出てくるマルセイユ人とそっくり同じだなと感じ入った。 そのフランス小噺とは―― フランスの市バスにある普通の注意書き : 「乗客は運転手に話しかけないこと」 マルセイユの市バスにある特別の注意書き : 「乗客は運転手が話しかけても答えないこと」 ![]() 入り口横のベンチに座って記念撮影 ![]() レストランを探して歩いていると、教会前広場にファーブルの銅像を見つけた ![]() 村で唯一と思しきレストラン 「ラ・プリュム・ダンジュ(天使の羽根)」 ![]() なんだか、このファーブルの村へ昼食を取りに来ただけのような 1 日であった |
このとき、私としては数十年ぶりのマルセイユ訪問で、感慨深かった。 かつてはリヨンがパリに次ぐフランス第二の都市であったが、今はマルセイユがそれにとって代わっている。港の周辺はどこもかしこも工事中で、2013年に終了する予定。一般産業のほか、観光開発にも大きな力を注いでいる様子で、来年になると一段と美しい港町が見られることと思う。 ![]() 小高い丘の上に聖母マリアの教会があり、市内のどこからでも見える。歩いて1時間ほど。 ![]() 教会の名はノートルダム・ド・ラ・ギャルド (Notre-Dame de la Garde)、ご加護の聖母教会。天辺が金色に光るのが遠くからも見えたが、近づいてみるとキリストを抱く巨大なマリア様の像であった。まさにキンキラキンに輝いていて、何だか安っぽい新興宗教の人寄せモニュメントのようにも見え、失礼ながらちょっと笑ってしまった。 海風が強かったが申し分のない天候で、教会から眺めるマルセイユの町と地中海は、まさに絶景であった。 ![]() ブルターニュでよく食べたムール貝をここでも注文。とても量が多くて食べきれないほど。 上右はマルセイユ名物のブイヤベス。昔は焜炉と鍋で出していたように思うが、今はこのようにお皿で。 中にはエビや魚が入っていて、もちろんわたしには食べられない。 皿で出されるからきっと美味しくないぞと家人に警告したが、一度は食べてみたいと言うので注文。 現地添乗員としては反対できなかった。 後で感想を聞くと、やはり不味かったとのこと。 ![]() われわれとは日程が合わなかったが、近々ジャズ・フェスティバルがマルセイユであり、あのソニー・ロリンズの名前もプログラムにはあった。それを盛り上げるため、街角ではアマチュアのバンドが演奏し、いい雰囲気を醸していた。 このマルセイユ駅は、オリヴィエの家に行くときも、またチュニスに戻るときにも、便利な駅である。 |
◆ バルセロナ ガウディの建物 ガウディの建物として最も有名なのが、サグラダ・ファミリアの教会である。 ここではエレベーターで、塔の上まで上がれる。 相当の高さの塔がいくつも林立しており、したがって屋根などはとても複雑な構造をしていて、よくもまあこういうものを設計して建てたなと驚かされる。 ![]() (↑)左が正面玄関。 この裏手に見学者用の入り口がある。 サグラダ・ファミリアについてはバルセロナのマヌエルから、早く行かないとすごい行列ができるぞ、と脅かされていた。 そのため朝の8時前にホテル前からタクシーを拾って直行した。 早すぎて誰もいないだろうと思いきや、上右の通り、長くはないが、もうちゃんと行列ができていた。 ![]() (↑) いろんなオブジェが壁などに取り付けられているが、パリのノートルダム寺院にあるような、おどろおどろしい化け物を象ったものは一つもない。 上左はキリスト像だとすぐに分かるが、多くのオブジェは何を表わしたものか、わたしにはよく分からなかった。 それでもガウディ作品に特有の、何とも言えない柔らかさと優しさに溢れたものばかりであった。 上右の写真で分かるように、上に登って下を見降ろすと相当の高さ。 外に突き出た狭いベランダに立つと、ちょっとした恐怖さえ覚える。 とても高所恐怖症の人には勧められない。 ともあれこの高さゆえ、この教会を一枚の写真の収めるのは、とても素人には無理である。 ![]() (↑) 上はバルセロナの中心街にある、ガウディ作の別の建物。こういうのがバルセロナだけでなく、スペインのあちらこちらにあるという。 ちなみに、コンポステラ巡礼路にアストルガという小さな町があり、そこにもガウディが建てた建物がある。サグラダ・ファミリアを見てきた今、写真を一見しただけでガウディ作のものとわたしには分かるが、当時はガウディのことは何も知らなかった。それでも、いかにも個性ある、優しい線でできた建物であるなという印象は持った。 ![]() ![]() 周知のとおり、サグラダ・ファミリアの教会は今なお建造中である。あと100年、あるいは200年かかるとか ・・・・。 |
バルセロナから列車に乗ってアンダルシア地方のコルドバへ。ここを、セヴィリアとグラナダを訪れるための鉄道拠点とした。 マヌエルから聞かされていた通り、スペインのこの辺りは相当に暑い。路上に設けられた温度表示塔には40度とあり、直射日光の厳しさはチュニスとほとんど変わらなかった。 コルドバでのホテルは 「ACホテル・バイ・マリオット」。当地にACホテルは約1キロの間隔をおいて二つあり、セヴィリアなどへの移動の便を考えて駅前のホテルを予約してあったのだが、そうしたことすべてを忘れてしまって酷暑の中、別のホテルまで直行してしまった。 現地添乗員としては大失態で、家人の大顰蹙を買ってしまった。 ![]() (↑) とても近代的なコルドバの駅。 公園には小型の白い鳩と、失業者らしい人たちの群れが ・・・・。 コルドバの旧市街には大きな川が流れていて、川沿いには有名だとされる旧ユダヤ人街がある。往時のイスラム時代のメディナ風街並みや、外観が簡素なイスラム建築がそのまま残っていて、チュニジアの風景を見慣れたわたしにはすぐそれと分かった。が、そこへカメラを持参するのを忘れ、これも現地添乗員としては大失敗。 ![]() コルドバ駅前の広場から、2キロほどずっと先の向こうまで、車の入らない広い歩道が伸びている。夕方になるとそこへ大勢の人が繰り出し、散歩をしたり会話を楽しんだり、子供を遊ばせたりしている。昔はここに鉄道のレールが走っていたが、それを地下に埋設し、上を公園にしてしまったものらしい。経済の斜陽が囁かれるスペインで、お金をかけてこんなに優雅なものをつくっているとは、さすがはヨーロッパであるなと感心してしまった。 |
今はもうやってないと思うが、北海道の宗谷岬に大きな標識塔があり、そこに据えられたスピーカーから 「♪ りゅうひょうとけて はるかぜふいて・・・」 と、件の歌が絶え間なく流されていたという。 わたしが出張か何かで青森駅に降りたときも、港近くにある板張りの散策道をうろつく間、「♪ つがるかいきょう ふゆげしきぃー」 がずっと聞こえてきて、もう煩くてたまらなかった。 この伝でいけばきっとアルハンブラ宮殿があるグラナダ駅でも 『アルハンブラの思い出』 が流されているはずだと恐れたが、さすがにそんなことはなかった。 あれはやはり騒音に鈍感な、東洋の民族の間だけでの悪習である。 ちなみにマドリードの少し南には、やはり名曲として名高い 『アランフェス協奏曲』 のアランフェスがある。 ![]() コルドバからセヴィリア経由でグラナダへ行く列車は多いが、時間が倍以上かかる。 別の短いルートを走る直通便は日に 1 往復のみ。 滞在時間は短くなるが、アルハンブラ宮殿訪問だけが目的なのでこちらを利用。 ネバダ山脈の麓を登山鉄道のように登り降りする列車の窓から、延々と続くオリーブ畑が見えた。 チュニジアより遥かに規模が大きい。 上右の写真はアルハンブラ宮殿の入り口にいた警官。 腰のベルトにむき出しの銃弾が・・・。 ![]() いろんな部分からなるアルハンブラ宮殿は少し広すぎて、全体のコンセプトをイメージするのが難しいほど。 それに、肝心の宮殿内部に通じるらしい入口辺りにはすでに大勢の観光客が列をなしていて、とても並ぶ気にはなれなかった。 というわけで、あちらを少し、こちらを少しという風に、摘み食いをしながら敷地内を歩いた。 ![]() 高級ホテルや土産物屋が立ち並ぶ一般道に一旦出て、そこからカルロス5世宮殿やイスラムの要塞跡に向かった。要塞入り口前の広場には売店があり、家人はアイスクリームを、わたしはもちろん生ビールを注文。広場にある水道からペットボトルに水を注ぐ人たちを見ていて、そうだ、ここはアフリカでなくスペインなんだ、と改めて思ったりした。 ![]() (↑) イスラム建築の最高峰と言われるヘネラリフェの離宮。 レコンキスタ間近の最後のイスラム王朝、ナスル朝の王族たちがここで夏を過ごした。 シェラネバダ山脈から引いた水を利用した、緑豊かな庭園は見事 (↓)。 ![]() アンダルシア地方は本当に暑い。 グラナダ駅から宮殿行きバスに乗るつもりでいたが、その停留所がどこか分からない。 とりあえずは水を買い、駅前通りを歩いているとタクシーが来たので乗車。 帰りは宮殿横にバスの停留所を見つけたが、料金を二人分払うんだから同じだということで、結局、そこに駐車していたタクシーを利用。 |
『セヴィリアの理髪師』 は 『フィガロの結婚』 とセットになった歌劇、ボーマルシェ原作でロッシーニとモーツアルトの作曲。 セヴィリアについてはその程度の知識しか持ってなくて、古いヨーロッパ的雰囲気の町が見られると思っていた。 しかし実際に市街を歩いてみると、まるでイスラムの世界に舞い戻ったかのような印象を受けた。 ![]() (↑) ここでの由緒ある建造物のほとんどは、イスラム時代のものを改修してできている。 カトリックの教会もかつてのモスクを再利用、外観を見れば簡素なイスラム風、中に入ればキリスト像をいただく豪華な祭壇が見られる、といった具合。 内部のイスラム風装飾も、外に高く聳えるミナレットも、壊さずにそのまま残してある。(↓) ![]() ![]() スペインにはお惣菜を売る店が多い。 好みのものを適当に皿に盛ってもらって、店内で食べることもできる。喫茶店 (バルと呼ばれる) のカウンターにもガラスケースにお総菜が並んでいて、コンポステラ巡礼のときはこれを大いに利用した。 大抵のお惣菜屋さんではお菓子やケーキも売っていて、ずらりと並んだ様子は見事である。 ![]() セヴィリアに向かう日の朝、時間を間違え、乗る予定の列車を逃してしまった。 現地添乗員として善後策を考えなくてはならず、駅前のバスターミナルで、セヴィリア行きの ALSA バスを見つけたときはホッとした。 コンポステラ巡礼の際、大いにお世話になったバス会社である。 そして帰りは、こちらも近代的なセヴィリア駅から列車を利用。 |
危ないとか泥棒が多いとか言われていて、当初は寄る予定のなかったマドリードだが、リスボンへは列車で行けないことが分かり、飛行機を利用する関係から、仕方なくこのスペインの首都に立ち寄った。 着いてみると、ごく普通のきれいな街で安心した。 浮浪者らしい人たちが公園で寝そべってはいたが、これはスペイン中、どこでも見られる風景。 フランスでいつも利用するメルキュール・チェーンの、地下鉄サント・ドミンゴ駅を出たところにあるホテルに宿泊。 ![]() (↑) スペイン広場にて。かつての栄光と繁栄を示すこういうモニュメントの類が、やたらと多い。 チュニスにもスペイン語を教えるセルバンテス協会があるが、ここには彼の主人公、ドンキホーテとサンチョパンザの像があった。 ![]() (↑) マドリードへ来たからには、もちろんプラド美術館に家人を案内しなければならない。 ここを訪れたいとする彼女の大きな目的は、ゴヤの、あの 「着衣のマヤ」 と 「裸のマヤ」 を見ること。 それが遂げられて大満足してくれた風で、案内役の現地添乗員としてはホッとする思いであった。 プラド美術館の横にはゴヤの銅像があり、そこでも記念撮影。 そのあとの昼食後、近くにあるソフィア王妃芸術センターまで移動し、ピカソの 「ゲルニカ」 とご対面。ほとんどそれだけを見るような形で同センターを後にし、わたしとしては仕事が楽に運んで、もうやれやれであった。 もうかれこれ30年ほども前のこと、車に家人と子どもを乗せてヴァン・ゴッホ美術館の前まで行った時、入り口で大勢の人が列を作るのを見て恐れをなしたわたしは、じゃあこの次にしようと言ってそこを通過してしまった。結局、「この次」 の機会はやってこず、爾後、ことあるごとに家人から恨み節を聞かされてきた。 というわけで、チュニジアから帰国してちゃんと豊田の家に入れてもらうためにも、わたしはサービスを怠るわけにはいかない。 ![]() (↑) マドリードでは市内巡回の、赤い観光バスの2日間チケットを買い、これを足代わりに利用した。 ボルボ社製の二階建てバスで、イヤホンで日本語の案内も聞ける。 同じものはバルセロナにも、リスボンにもあった。 王宮を見学した帰り、そのバスをプエルタ・デル・ソルで降り、プレシアドス通りにあるレストランに入ってガスパチョとパエリアを注文。 家人お勧めのガスパチョのスープは口にするのが初めてで、その美味しさには感動した。 しかしパエリアの方は、ごく普通の洋風おじやであった。 そこを出てホテルまで歩いて帰る途中、プレシアドス通りにはその筋の業界の女性がほぼ10メートルおきに、ハンドバッグを手にきれいに着飾って、並木のそばに立つのが見えた。 もちろん現地添乗員として、彼女たちが何者であるか、家人にはそれとなく説明しておいた。 |
夏のヨーロッパ旅行でポルトガルのリスボンへ行くことは早くから決めていた。 列車で行くつもりだったが、スペインのコルドバからの連絡が悪く、行く予定のなかったマドリッドを宿泊地に追加し、そこから飛行機を利用した。 飛行機の予約に最初、イベリア航空のサイトを開いたが、スペイン語ばかりで、英語のページもフランス語のページも見当たらない。 それではと、ポルトガル航空 (TAP) のサイトを開くと、こちらは最初からフランス語のページ。 結果的にこのネット・サービスの違いによって、イベリア航空は乗客を二人、取り逃がしたことになる。 ![]() (↑) 左は16世紀の詩人カモンイスの詩碑 (だと思う) 右は利用した小型観光バスのベンツ リスボンのホテルはシェラトン・ホテル。でも、ネット予約だから 1 泊が100ユーロと少し。 今回はすべて四つ星クラスのホテルに泊ったが、宿賃はすべてこんな風で、二人で1万円ほど、場所によってはそれ以下であった。 わたしはロカ岬のことはまったく知らなかったが、リスボンへ行くならロカ岬、と家人がしきりに言うので、そこをめぐる1日観光バスに乗ることにした。 観光バスには女性のガイドがいて、ポルトガル語、スペイン語、英語で案内をした。 で、唯一分かるはずの英語であったが、ガイドの話すそれはほとんどポルトガル語と区別がつけ難く、よほど注意して聞いてないと、今、どちらの言葉で話しているのか、それさえ分からないほどのものであった。 ともあれ、こうしてロカ岬を訪れたことで、わたしが一つ、思い違いをしていたことが判明した。 というのは、コンポステラ巡礼の最後にフィニステラに立ち寄ったが、わたしはあそこがユーラシア大陸の最西端だと信じ込んでいたのである。 で、今回の1日ツアーの案内に「大陸最西端のロカ岬」とあり、ホントかなと思ってポルトガルとスペインの地図を見直すと、たしかにロカ岬の方が西にある。 ということは、フィニステラはスペインの最西端であって、何かでそれを読んだわたしが勝手に、大陸最西端と早合点したものらしい。 ガイドの案内がちんぷんかんぷんであった中、そういう勘違いを正せたことが、このツアーに参加した最大の収穫であった。 その日のロカ岬は霧が深くてほとんど何も見えず、雲ひとつない晴天のフィニステラとは大違いであった。 |
ちょっと驚いたが、泊ったシェラトン・ホテルの玄関脇で客待ちをするタクシーのほとんどが、メルセデスか、BMWの大型車であった。 それに恐れをなしたわけではないが、われわれは近くにある駅からメトロを利用。 それを3本乗りつぎ、テージョ川沿いに広がるベレン地区まで出向いた。 新世界に向け、大勢のポルトガル人たちが船出をした場所である。 ![]() 上左は 「発見のモニュメント」。 ここから航海に乗り出した30名ほどの人物像が彫られていて、われわれに馴染みのあるところでは、マゼラン、バスコ・ダ・ガマ、それにフランシスコ・ザビエルがいる。 右は河口を防御する目的でつくられた要塞 「ベレンの塔」。よほど由緒があるらしく、たったこれ一つで世界遺産。 1983年に認定。 ![]() この辺りは1755年のリスボン大地震で大きな被害を受け、べレンの塔を除けば、古い建物は一つも残っていない。 テージョ川に沿ってずっと広場が延び、ハーバー近くの建物の庭に、見事な花を咲かせる木を見つけた。 ![]() こちらも1983年、世界遺産に登録されたジェロニモス修道院。 中庭には広場のと同じ木があり、やはり見事に花を咲かせていた。 ここにはバスコ・ダ・ガマと、ロカ岬のところで名を出した詩人カモンイスの棺があるという。 後で知ったことだが、あのバスコ・ダ・ガマの偉業を中心に、ポルトガルの栄光を謳いあげたのがカモンイス、この国では国民的詩人と仰がれているそうな。 恥ずかしながら、わたしは不勉強にして、まったく知らなかった。 ![]() ホテル前大通りのビルに描かれた巨大なワニ (?)。 そして同じ通りにあったレストランにて。 飲み物は赤ワインにフルーツが入ったサングリア。 なぜか家人のお気に入りで、マドリードのパエリア店でもこれを注文した。 |
早朝にホテルを出てメトロでリスボン空港へ向かい、離陸の2時間以上前に到着。 出発便の案内パネルにバルセロナ行きはまだ表示されていなかった。 時間に余裕があるのでカフェで朝食を取り、そのあと列に並んだ。 ![]() その時間帯は出発便が非常に込んでいて、ポルトガル航空の受付ロビーでは、どこが最後尾かも分からないほど大勢の人が列を作っていた。 あとで考えると、どうやらわれわれはアメリカ大陸方面行きの、長距離便の方に並んでいたらしい。 しかしそのことを示す案内は一つもなく、結局われわれの番になってカウンターに e チケットを出すと、もう受付は閉め切ったと係の女性は言う。 あんたフランス語はできるかと訊き、ちょっとだけ、と答えるのを無視して責任者を出せとかあれこれ文句を言ったが、その話はちょっと下品になるのでここではやめておこう。 係の女性が教えてくれた別のカウンターへ行くと、午後1時にバルセロナ行きがあると言う。夕方の便しかないだろうと半ば諦めていたので、これはもう幸運と言うしかない。バルセロナからは16時42分発の列車で、ペルピニャンに行く予定になっている。 ポルトガル=スペイン間の 1 時間の時差を考えると、タクシーを飛ばせばぎりぎり列車に間に合う。 ![]() そうしてバルセロナ空港に無事着いたが、そこで乗ったタクシーの女性運転手は当方の事情を理解してくれて、大通りでは渋滞を避けて脇道を行くなどして急いでくれた。そうしてメデタク発車の20分前に、無事サンス駅に着くことができた。こういう時にこそチップを弾むべきで、ちょっとした額のお釣りを、いいですよと言って家人は受け取らなかった。 かくて列車は定刻の19時39分、ペルピニャンに到着。 ここは最初から通過するだけの町で、そのためホテルも駅構内にあるオテル・サントル・デル・モン。白を基調とした、まさに簡素にして清潔そのもののホテルで、部屋にはなぜか、月面着陸をした宇宙飛行士が描かれていた。 わたしは以前、家人とピレネー方面に旅行をしたとき、このペルピニャンに立ち寄ったと思っていた。しかし駅前付近を歩いても、見たような景色に一向に出会わない。何かの勘違いであるらしかった。 周辺を捜したがレストランは一つもないようで、夕食には駅のファーストフード店に入って、サンドイッチとサラダ、それに飲み物 (もちろんわたしはビール) を注文した。チュニジアには大変申し訳ないけれど、やはりこちらのサンドイッチの方が数段、美味しかった。 |
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