クー猫逝く





 2017 年 3 月 5 日、よく晴れた日曜日の午後 1 時 30 分、わが家のクー猫が旅立った。




 クーがわが家に来たのはある年の 9 月 19 日。 それは覚えているのだが、何年のことだったかは失念してしまった。 「ムー猫日記」 の旧い記述が残っていればそれが分かるのだが、大学を辞めたとき一定の区切りをつけるため、現役教師時代のホームページをすべて破棄してしまったので、それも叶わない。 おそらくは、享年 18 ないし 19 である。



 クー猫については便宜上、「クー」 と表記しているが、彼の正式の名前は QUEUE である。 真っ直ぐに伸びる太い見事な尻尾を持っていて、そこからフランス語の Queue を彼の名前とした。 動物病院からくる予防接種などのハガキにも、Queue ちゃんという宛名が書かれていた。

 以下は、親バカならぬ一人の猫バカによる、わがクー猫の介護記である。



 1) 介護のはじまり

 2014年7月、2 年半の滞在を終えてチュニジアから戻ったとき、門扉を開けた私の足音を聞きつけたクー猫はしっかり三つ指ついて、わたしを玄関で迎えてくれた。 その半年後、わたしは再度チュニジアに出かけたが、6 ヶ月後に帰宅したときも玄関ドアを開けると、やはりクー猫がそこに座って待ってくれていた。

 その年の 11 月に徳島県、翌 2015 年の 3 月に高知県と、わたしはお四国さんの遍路道を歩いた。 クー猫の後ろ脚に異常を見つけたのは、その高知から戻った 2015 年 3 月のことであった。 すぐに腰が砕けてしまい、スムーズに歩けない。 このとき、クーがこうなったからには、もう家を空けることはできないぞと、わたしは自分に言い聞かせた。 お四国遍路はもちろん中断し、爾後、2年にわたるクー猫の介護がはじまった。

 ちなみに、チュニジアから帰国したあと、わたしはすぐスペインに発ち、例のコンポステラ巡礼路を歩こうと考えていた。 その前に忘れないうちにと、チュニジア滞在記の草稿づくりに取り掛かったのだが、気がつくと 9月という、スペイン巡礼に最適の時期が過ぎてしまった。 そうして粗削りの草稿が一応できあがったのだが、チュニジアについて書いたことを本にしてくれる出版社などあるのかどうか、まったく自信が持てなかった。そこで一旦、それについては忘れ、スペイン巡礼の代わりに、お四国さん遍路に出かけることにしたのである。

 仮に高知から戻ってもクー猫が元気なままでいて、わたしがお遍路の続きをしたりコンポステラに出かけたりしていたら、おそらくあの 『「アラブの春」 のチュニジアで -- おおらかな人と社会』 (風媒社) の出版はなかったであろう。 クーのために家を空けられなくなったという事情が、わたしに原稿の完成と出版を可能にさせたのである。



 2) 猫介護のむずかしさ −−試行錯誤の日々

 人間の場合はもちろんだが、猫の介護もむずかしい。 どちらも世話をする側が、基本的なノーハウを備えていないところに起因するようだ。 それに加えて、猫というのは、人の言うことをまず聞き入れてくれない。 とくにクーの場合、独立不羈の猫であったので、難しいところが多々あった。

 一番の問題は、下の世話をどうするか、であった。 はじめは写真にあるようなペット・シーツの上に寝かせることをした。

 

 下のはサイズの小さいペット・シーツ。 こうした商品の大抵には 「ワンちゃん」 と書かれたり、犬の写真があったりして気に食わないが、ともかくもこれをクー専用の寝床に数枚重ねて敷き、そこに寝かせることをした。

 

 大きいほうのペット・シーツには、小型犬 2 回分のオシッコを吸収すると書かれている。 誇大表示もいいところで、そんなことは絶対にない。 それゆえ、オシッコをしたらすぐにシーツを変えてやらないと、腰のあたりがビショビショになってしまう。 つまりは 3時間ほどのスパンで、クーがオシッコをしていないかどうか、いつも注意を払っておく必要があった。

 ただ、夜のうちは 6、7時間、どうしても目が離れてしまうし、昼間でもちょっと油断をすると、腰を濡らしたまま横になっているクー猫を発見することが多かった。 これはどうしたものかと、クーの顔を見ながらわたしは思い悩んだ。 このままではクー猫の QOL (クオリティ・オブ・ライフ=生活の質) が、低下する一方であった。

 クーには申し訳なかったが、そうした試行錯誤が 1年ほどつづいた。 その間、猫用の小さなオムツも試してみたが、腰への固定がうまくいかなかった。 すぐ脱げる以前に、そうしたものを身につけることをクーが断固、拒否したからである。

 そうしてやっと解決策として見つけたのが、人間の大人用オムツ= 「一晩中あんしん 尿とりパッド」 を利用することであった。 完全とは言わないが、少なくともこれでクーは夜も昼も、腰をビショビショに濡らすようなことはなくなった。

 

 このオムツ・パッドを 2枚、並べてセロテープで繋げると、正方形になる。 上記のペット・シーツを何枚が敷いた上に、この正方形のオムツ・パッドを二組置き、その上にクー猫を寝かせた。

 大人の尿 4回分を吸収するという、これはまさに優れ物の商品である。 中国人民の爆買い対象となったらしいが、さもありなんと頷ける。 クー猫に教えてもらったにも等しいこのオムツの世話になる日が、いずれわたしにもやって来るであろう。

 ともあれ、もっと早くこのオムツ・パッドを使用していたらと、私としては返す返すも悔やまれる。



 3) クー猫に水を飲ませる

 クー猫は小さいころから、お椀で水を飲むことをあまりしなかった。 代わりに、一階の洗面所、あるいは二階のトイレにある水道の、蛇口に口を近づけて水を飲むのを好んだ。

 

 上の写真は二階のトイレにて。 蛇口はわたしの腰辺りの高さにあり、クーはここまで上がらなければならない。 ところが、クーは小さいときからジャンプが苦手で、ここへはわたしが抱き上げて座らせるのが常であった。 とくにこの二階トイレの場合、彼が自分で上まで上がったという記憶は、わたしにはない。 おそらくそのジャンプ下手は腰関節の弱さに起因するもので、晩年になっての足萎えも、それとは無関係になかったように思う。

 死の一か月前まで、クーはここで水を飲んだ。 しかしその頃は後ろ脚の自由が利かず、わたしが脚をうまく折り曲げて座らせ、水を飲んでいる間、後ろから支えておいてやる必要があった。



 4) 歩行の一時的再開

 クー猫が歩けなくなってから、二階のわたしの仕事部屋に彼のベッドを置いた。 下の写真は 2015年12月のもの。 水道の蛇口でなく、食事の後などときどき、こうして容器から水を飲んでくれることもあった。

 

 昼間は南側の、陽のよく当たる部屋にベッドを移動し、そこにクーを寝かせた。 夕方になるとまた仕事部屋に移したが、冬のこととて、寒さが募る一方。 次善の策として、夜中の 3時から 5時まで暖房が入るよう、部屋のエアコンのタイマーをセットした。 それでクーが暖まったのかどうか、よく分からなかったが、とにかくも、わたしにとって少々の気休めとはなった。

 年明けの前か後か、寒さが一段と厳しさを増すなか、わたしは決断してクーを、暖炉のある一階の居間に寝かせることにした。 あわせて居間にマットレスを敷き、クーの傍で寝る日々が一カ月ほどつづいた。

 その、クーを居間に下ろした寒い日の夕方、彼を抱いたまま暖炉の傍に近づくと、温かさを感じたのか、ファーという、まさに安堵したような発声が彼の口から洩れたように記憶している。

 そうこうするうち、クーはまた歩けるようになった。歩けると言っても、5、6歩行っては腰砕けになって横たわる、ということの繰り返しであったが、ともかくもそうして自力で餌のお椀のところまで行き、砂トイレまで移動してくれるようになったのである。

そうした状態が半年ほどつづき、このままひょっとして恢復するかなと思ったが、残念ながら一時的なものにすぎなかった。


 5) 驚異的な生命力

 2017年の 1月、わたしはまた居間にマットレスを持ち出し、クーの傍で寝るようにした。 クーの体力が目に見えて衰え出したからである。 それから最期の日まで、いつも夜明け前の 4時か 5時には起き、クーがまだ存命であることを確かめた。 マットレスにいるわたしが起き出すと、その気配を感じてクーは前足を立て、顔を上げてわたしを見ることをした。 ときにはそれをしないで頭を伏せたままいることもあって、あわてたわたしは飛び起きて、おい、大丈夫かとクーを抱き上げたものであった。

 2月に入ると、クーは水を飲むだけで、食事はほとんど取らなくなった。 お気に入りの、ちょっと値段が高めのカリカリ餌を与えても、以前と違って匂いを嗅ぐだけで、食べようとしない。 食べるのはカツオの削り節、それも 2.5グラム入りの袋を一日に一つ、食べるか食べないか、といった状態がつづいた。

 最後の 2週間は、居間のソファーで寝たきりとなった。 同じ姿勢をつづけるのは辛かろうと、痩せた身体をソファーの右から左へ、またその逆にと、時間を措いて移し替えた。 以前は 7.5kg あった体重も、今ではその半分ほどになっている。 背骨の凹凸や長い鎖骨も、目で確認できた。 そんな風になりながら、水だけで持ちこたえるクーの生命力には、驚くばかりであった。

 もう、いつ逝ってもおかしくない。 死期が迫っており、わたしは外出も控えた。 とてもそうする気にはなれなかった。 クーが逝く一週間前の土曜日、JICAボランティアの会が名古屋であったときも、クーのことが気になって、早々と帰途に着いた。 その翌日であったか、家人からの外食提案を拒否すると、それがもとで大不興を買うことになってしまい、何とも悲しかった。


 6) クー猫の最期

 2017年3月5日、午後1時20分ごろ、ソファーに座るわたしの横で寝ていたクー猫が、突然伸びあがり、大きく口を開いてウーと声を出した。

 すぐにわたしはクーを抱き上げて立ち上がり、両腕のなかに収めた。 3度か 4度、腕の中でクーはやはり伸びをするような形で口を開き、ウーと声を発した。 そうしながら 10分ほどが過ぎ、やがて静かになった。 午後 1時 30分、クーの最期であった。

 クーは猫として、その生涯を全うした。 まさに大往生である。 寂しくはあるが、悲しむべきことでない。 実際、クーほど自由気ままに、猫らしく生きた猫は珍しいであろう。

 クー猫がいなくなってから、その召使的存在であったわたしは家にいて、何もすることがなくなってしまった。 もはや用なしの濡れ落ち葉、といったような目で、家族からも見られている毎日である ・・・・。