暗くも怖くもない帰り道。
5月31日(月)「イタズラがき」
久しぶりにマリオがやりたいと思った。キノコ喰ってラリってデカくなったり1UPしたり花摘んで火の球投げたり跳んだり跳ねたり踏んづけたりコイン拾い集めて着服したり旗のポールにしがみついてピースサイン出しちゃうタチの悪い酔っ払いのようなステキなヒゲオヤジをやりたいと思った。もちろん平面横スクロールでネッ!
はーい、皆さんコンバンワッ!ようこそDRYBOXへ。今日もクールにヒカラビってるカイ?オレなんかもうカラッカラのシワシワさッ!可燃物で燃えるゴミライクな人生だぜェッ!!さあ今日も熱く熱く水分をトバしていこうゼッ!!レェェェッツッドゥライッッ!!!
とてもくだらないと思った。くだらない、くだらない、なんてくだらない。くだらなすぎて言葉もない。つまらない、価値がない、取るに足らない、すくいようもないくだらないさだ。走らない車よりも、映らないテレビよりも、飛べない翼よりも、そんなくだらないものよりも、何十倍も何百倍も、何千倍も何万倍も、大きくて膨大で夥しいほどにくだらないくだらなさだ。目を瞑ってみても耳を塞いでみても遠くへ逃げ出してみてもそいつはそこに在る。口の内側にべっとりと吸い付くようなくだらなさが身体中に溢れている。ああ、ああ、足がもつれる、舌がからまる、内臓がちぎれる。身体中の骨という骨がコツコツと音をたてて笑っている。そんなそんな呪いのようなくだらなさがオレを支配する。ああ、くだらない。最高に、くだらない。いっそ澄みわたる青空のように爽快なくだらなさだ。皆さんもそう思われませんか?
ゴボッという音がする。肺の中の空気をいっぺんに水の中へと吐き出したような、生命そのもののような音だ。ゴボッ。
意味があると思うのかい?そんなのウソっぱちだよ信じちゃダメだ。そんなものはまやかしなんだ。キミは騙されているし、ボクも騙されている。意味があるって思わされているだけなんだ。欺瞞なんだよ・・・でも・・でもキミがそう云うのなら、どうしても意味があるって思うのなら、ボクに云ってみてはくれないか?キミの信じたその意味を。
懐と時間に余裕がある方、ゲームそのものよりもゲーム業界に興味のあるというスレた方、私のように経験によらず雑誌などで得たに過ぎない知識で知ったかぶりを気取ることに命をかけている方などは、カツアゲしてでも読まれるがよいでしょう。しかしそういった方々は私が薦めるまでもなく既に購読されていることでしょうから、この文章はまったくの無駄であると云えます。ゲームそのものを純粋に楽しめる方は読まれないがよいでしょう。私はもはやダメくさいです。雑音が鳴り止みません。
でもマンガはまだ大丈夫です。最近やっと手塚治虫の「火の鳥」を読み始めました。文庫版で「ヤマト・異形編」まで読み終わったところです。とても面白いです。
音楽も大丈夫です。ここ2,3日はバッハの「G線上のアリア」ばかりを聴いています。この止まらない悲しみそのもののような曲を聴くと私はいつも泣きそうになります。泣きそうになるだけで泣きはしないんですけど。
テレビゲームカルチャーは過去の遺産を食い潰したり切り捨てたりしながら今日までやってきました。まだ発祥から四半世紀程度の歴史しか持たない脆弱な文化に過ぎませんが、この先順調に行けば成熟と定着を迎え余裕を手に入れることでしょう。そうした時、他のカルチャーのように過去の作品も手軽に楽しめるようになってくれたらと思います。その時私自身もゲームを純粋に楽しめていることを願ってやみません。
ノイズ。
「・・・ほんの1ヶ月前でいいです、誰が今日の事態を予想していたというのでしょうか。せいぜいどこかの宗教連中がいたずらに終末論を唱えていた程度に過ぎないのではないのでしょうか。しかしたとえそれを信じたところで今日の事態を救うことなどはできはしなかったでしょう。これは決して我々の原罪、余殃などではないのですから・・・」
ノイズ。
「・・・間近に迫った最後の瞬間を迎えるにあたり今皆さんがしているように家族や友人、そして恋人たちと過ごすことをせず報道という虚しい行為に身を窶している我々だからこそ皆さんに云いたい。無力感に囚われないで下さい。たとえこれで終わりになろうとも、生まれ出でて今日まで生きてきたことを無駄だったというふうに思わないで下さい。たしかに死を受けいれるにあたり全てが虚しく感じられるかもしれません。しかしそうやって感じることができるのも生まれてきて今この時を生きているからではありませんか。どうかお願いです。父に母に全ての仲間たちに存在の喜びを分かちあえた喜びを感謝してください。そして胸に刻んでください。我々人類は、その種の滅びの時を迎えるその瞬間にすら生きる喜びを感じていたのだと。我々を滅びへと導かんとする彼らに伝えようではありませんか。我々はけっして下を向かない。胸を張り、拳をつくり、決意を込めた眼差しで最後の時を迎えるのです。今この瞬間だからこそ全人類の強固な意思、そうしたものが求められているのだと思います。さあいよいよです。もはや天はその姿を失いました。視界は全て彼らの使役するものたちで埋め尽くされています。この地球へと、いや世界へと下される鉄槌は決して神の仕業などではなく、明確な意志ある利己的精神に基づく我々の敵のものです。我々にこれを避けるすべは残されてはいませんが、せめて目を閉じることなく睨み返してやりましょう。それが我々人類最後の矜持ではありませんか・・・」
再びノイズ。
「オレのことを キライだって
云ってほしい」
自分の中だけでケリをつけられないなんて
子供だ
いくつだ、オレは
「・・・・・・・キライ、・・です・・・・・・・」
受話器のスピーカーからキミの声
オレが望んでいた言葉
言葉
そう 明確な 言葉だ
「ありがとう」
受話器を置く
狭い狭い部屋の中
低く唸り続ける機械たち
喉の奥から
なにか感情が込み上げてきたが
オレはそれを懸命に無視した
「(俺を)殺せ! 殺せ!」
字幕が貼り付く。
「ああ、(DO ITって)やりなさいってこと・・・」
俺は思う。
(just do it)
さっさとやれ。
(Do it yourself)
自分でやれ。
(Do it)
やれ。
(Do it)
やれ。
(Do it!!)
ヤれ!!
(「ヤ」に好きな漢字を当て嵌めよ。考えるな。刹那に答えよ)
「HAHAHAHAHA!!!」
ははははははッ、ひゃーひゃひゃひゃッ、あっはっはっはっはッ!!!
ゲラゲラゲラゲラゲラ。
まあ文句を云いながらもずっと読み続けているワケで、俺がこのマンガを好きだということは間違いがないから、これからもブツクサ云いながら読んでいくことでしょう。まったく世話ねぇな。
書かなかったけど土曜日に映画を観た。ただ観ようと思っていた「キャメロット・ガーデンの少女」ではなく、サスペンスホラータッチの「8mm」というのを観た。理由は渋谷くんだりまで出掛けて行くのがだるくなったのと、インターネット上での評価をみたら「感動した」とか云ってたから。当方感動モノは遠慮したいところ。よって比較的近場でやっていた「8mm」に変更。この「8mm」という作品の前知識は「スナッフ(殺人)フィルム」がどうとかいうだけ。「スナッフですってよ奥さん」て感じで少しわくわくしながら観た。結果それなりに面白く怖かったけど、エンターテイメントの枠を抜けないものだった。別にムリに抜けなくてもいいんだけどやっぱり物足りなさは否めない。怖さが後を引くこともないし後味の悪さもない。全てその場限りのモノ。感覚的に安っぽいのだ。完成度が高いということは、云いかえると良くまとまっていて観ている側が感情をのせる隙間が無いというかなんというか。いや違うな驚けなかっただけだ。「感動」ってのは文字どうり心が感じたり動いたりすることだけれど、それは泣けるってことだけではなくて色々な感動がある。それこそ憤ったり、悦に入ったりとか。とにかくそういうのが無かった。それは観る側の俺の技量とかセンスの問題か。はたまた不感症か。とにかく欲求不満なのだ。ああぁもうぅぅぅ足りねぇよォ全然足りねぇよォォッ!もっと!もっと過剰にィィッ!!殺せ殺せェェェッ!ダメでしょうオォォッ!!もっともっとォォォッ!!!そんな感じでした。
(今日の日記、書くっていう行為に踏み込めず躊躇してる。足りないのは血じゃない。足りないのは圧倒的に思考だ。思考せよ、思考せよ、思考せよ。曖昧にするな、放棄するな、顔を上げろ。お前は自分のことをこだわらない諦めのいい人間だと思っているようだがそれは大きな間違いだ。お前は何一つとして諦めきれない中途半端な人間なんだ。削り落とせ、余計なもの一切合切を捨て去れ、無駄を心の底から憎め。そして自分の本当にやりたいことに磨きをかけよ。それこそが洗練というものだと知れ)
宇宙の塵のようなものが集合して星と成り そして幾つかの素元子から生物としての命が生まれたものならば、 私たち、アーティストの営みもそこから出発しなければならないのではないでしょうか。 何かを表現するという以前の問題として、存在そのものの設定から プログラムしていかなければならないと思います。 「素材は何でできているのですか」 個展などの最中よく問われることなのですが、 その一言は、お化けがひたいに突然おふだをはられたような 決定的な一言のように私にはひびいてきます。 「では貴方は何でできているのでしょうか」と問い返す勇気もなく、 作品の製作過程や苦心談などを何事もないような顔つきで話している 自分に気付きます。神様と勝負をしたところで、どうせ敗者と 決まっているものならば、おとがめを受けない程度に 彼のもち駒あるいは方程式を拝借しながら、思うぞんぶん遊んでみたい。 アーティストとしてではなくプレイヤーといなおりながら、 人形、オブジェ、絵画や仮面やオルゴールという名の好奇心、 それがかぎりなく自然に近い存在となるためにはやはり、私自身が 私自身の宇宙なり、神を信じなければならないと思います。 物を作るということはこの二つの神の共同作業なのではないでしょうか。 仮に神という者がいて万物を創造したのなら、 いったい彼は何を思いながら何の為に作ったのでしょうか。 アーティストはとてもそれに近い行為をしているのだが 彼の作品はなんと愛にみちているのでしょう。 天 野 可 淡
|
1990年11月1日午前11時10分、天野可淡は永眠しました。彼女の37年間に及ぶ人生が途絶えて今年で9年目になります。私が彼女の存在を知ったのは、彼女の死の翌年に出版されたこのRETROSPECTIVE、「回顧的」と名付けられた作品集を観たときが初めてでした。そのとき既に彼女のこの世の人では無かったワケですが、そんなことには何の意味もありません。死後も作品は残り、私のように感銘を受け虜になる人々を今も増やし続けているのですから、アーティストというのはつくづく罪作りな人々です。
初めて買ったゲームミュージックのアルバムは「ドラゴンクエスト」だった。すぎやまこういち作曲によるクラッシック調のオープニング曲は、音楽などほとんど聴くことのなかった当時に私にとって衝撃的だった。ゲーム中流れる全ての曲が、そのゲーム自体の面白さとあいまって強く記憶に焼きつけられたものである。続編となる『2』が発売されたのは中学生のときだ。前作のアリアハン大陸が『2』の広大なマップの一部に過ぎなくなっているのを観たときは驚いた。そしてアリアハン大陸に降り立ち、前作と同じフィールド曲が流れたときには感動すら覚えた。
さてそこで私は思った。『2』は『1』の続編だ。あたりまえである。『2』の中では『1』の曲が流れる。前作の世界も取り込んでいる『2』の世界であれば、それも自然だ。ヘタに新曲を創ってイメージを損なう危険を犯すこともないし、そもそも安上がりだろう。はて?じゃあイメージさえ損なわなければいいのなら、『1』ですらオリジナル曲でなくてもいいのではないだろうか。そうすればさらに安上がりになる。これだけ色んな音楽が世界には溢れているんだから、ゲームのイメージにあったものだってきっとあるに決まってる。特にクラッシックはイメージも多様で素晴らしく、ゲーム中の様々な場面にでも対応できるほどたくさんの曲があってそれこそ宝庫ではないか。もちろん全てを既存の曲で埋める必要はない。そんなことをしたらTV番組と同じになってしまう。でも映画などのように場面によっては既存の曲を使用してもよいように思うのだが、ゲーム業界はかたくなにオリジナルばかりだ。私の知る唯一の例外は「IQ」だけ(コナミの音ゲーは除く。意味が違うから)。どうしてなのだろう?版権使用料が自分のところで創るよりも高くついてしまうのだろうか。
さてさてこの文章に結論はない。疑問だけを吐き出して終わるのである。昔不思議だったことは今も不思議というわけだ。まあなんでもいいからさ、安い版権の曲を使うなりアーティストとタイアップするなりしてもっとゲームって安くなんねぇデスカ?特に最近のゲームの音楽って感心できるものって全然ないから。そんなのにまで金を払わされていると思うとムカツキますんで。最近じゃ「FF8」。
5/23 onkusoさんより「アリアハンじゃなくてアレフガルドでは?」との指摘あり。そんな気がします。たぶんアレフガルドが正解です。恥ずかしい。もう生きてられません。皆さんさようなら。ぶしゅッ。
今日は別に書くことが無い。胸を熱くするような出会いだとか、死にたくなるような事件だとか、書かずにはいられない嘔吐にも似た想いだとかは今日は無かったから。じゃあ書かなきゃいいじゃん。フテって寝ちまえばいいんじゃんかよ。と思う。ホントそう思う。書くことの無いときにムリやり何かをでっち上げて書いてみても、ただただ虚しいだけなんだから。
GUNPEY40万点が限界だとか、ターンAガンダムまた観忘れただとか、これで3週連続だとか、今日本を買っただとか、「からくりサーカス(8)」と「EDEN(3)」と「蒼天航路(16)」と奥浩哉短編集「赤」「黒」と、それとそれとファミ通とドリマガを買っただとか、昨日は「ほたる」っつーエロゲーやっただとか、今は森博嗣の「数奇にして模型」を読んでいるだとか、推理モノとしてダメだけどキャラモノとしてはイイネだとか、このシリーズの中じゃ天才真賀田四季博士が好きだなあだとか、最近また椎名林檎ばかりを聴いているだとか、「丸の内サディスティック」は最高だにゃーだとか、「だにゃー」なんてだとか、「グレッチで殴って」のグレッチってなんだ?だとかそんなことはどうでもよくて、そんなことは誰も知りたくなくて、だからどうしたというわけでもなくて、ただただ今日も一日が過ぎて行くんだなあとカーテンの向こう側に在るであろう夕日を眺めながらポツリと呟いて、さて明日はどうしようか?なんにも予定がないなあと軽く懊悩する自らをぼんやりと見詰めて悦に入る自分をまた見詰めて、そんな自分が好きで嫌いで好きで好きでやっぱり嫌いで、「そうだ明日は映画を観よう。確か渋谷でやってる『キャメロット・ガーデンの少女』とかいうのを観よう。そうだそうしよう。明日は早起きしなくっちゃ」と 自分以外の誰も居ない部屋でわざわざ声に出して云ってみた。
実に3ヶ月ぶりくらいのチャットということで何度か打ち込みに失敗しましたが、onkusoさんは私の失敗をあげつらうこともなく流してくれました。さすがジョスター家仕込みの紳士です。きっと電話線の向こうではバスローブにワイン片手で波紋のひとつも練っているに違いありません。
1時間ちょっとにわたるチャットで話したことと云えば、チャットとリンクとポケモンスナップと明日はお仕事?って話くらいでしょうか。もっと色々お話したかったです。チャット終了後、ポケモンスナップのシステムで美少女を被写体にしたカメラ小僧ゲームがでるんじゃないかとか、onkusoさんの「俺は「夜」のお勤めなんで」と云うセリフにちゃんとツッコンでおくべきだったんじゃないかとか考えながら寝ました。楽しかったです。
えー、タイトルを修正します。
5月18日(火)「カワイソウなヒト」
|
アジアン・ゲッソー 名前 : onkuso 日付 : 05月17日(月) 04:42
その1、いまさらながら14日の日記をみて。
|
以上が書き込み全文です。以下は私のお返事です。
●onkusoさんへ。
<その壱>
ひとつの生命にひとつの魂と仮定し、生命の最小単位を細胞とするならば、細胞ひとつひとつに魂があってもおかしくはありません。むしろあると考えるほうが自然に思えます。ただ魂の定義をなんらかの意識体とするのは神秘主義的過ぎるような気がします。魂をたんなるエネルギーボールのように考えると幾分かスッキリしますが、面白味には欠けますね。あくまで魂が存在するとすればですが。
魂同士の会話で思い出したんですが、星新一のショートショートでこんな話があります。脳ミソを脳ミソ以外の部位が告訴するという夢を少年が見る話です。右手、左手、両足、内臓などがかわるがわる証人席に立って、如何に被告「脳ミソ」が横暴で無神経であり、普段自分たちを奴隷のように酷使し続けているかをつらつらと語りまくります。勿論判決は死刑。翌朝目を覚ました少年がいつものように学校へ通学していると、突如身体が勝手に動き出し、走るトラックに頭から飛び込んでしまいます。ぐちゃりと潰れた脳ミソに嬉しそうに痙攣する身体。肉体の現世での復讐譚と云うワケです。
この話は身体のそれぞれの部位がそれぞれに意識を持ったらという一種のシミュレーションとも云えます(死刑という結末はアレですが)。これは道具が意識を持ち人間に立ち向かう、つまりロボットの叛乱ともつながりますね。こういったシチュエーションはSFとしては酷く古典的ですが、普遍の面白さがあるようです。
呼吸器系がイカれて酸素が供給できなくなったとき、真っ先にダメになるのは脳ミソです。それ以外の細胞は身体の末端部分に位置するものから段々と死んでいきます。もし脳とそれ以外の部分の関係を一種の主従関係としてみるならば、脳という主の死は肉体という奴隷の解放ともみれます。しかし独立して生存するすべを持たない奴隷もまた死を迎えるしかないので、かりそめの自由に過ぎないのですが。そう考えるとまだ死んでいない部分を摘出し、欲しがっているヒトに与える移植という行為は、奴隷売買にもみえます。拒否反応は新参者を追っ払おうとする他の奴隷たちの嫌がらせともみえますね。あ、面白いかも。もし細胞が夢を見るとしたら、次は脳細胞になりたーいって願っているのかもしれませんね。
ここまで書いて思ったのですが、細胞というか生命を擬人化して考えること自体が大きく間違っているような気がします。生命とはたんに物質の循環に過ぎないのかも知れません。脳ミソにしても、ここは外部からの情報を処理するところ、ここは記憶するところなどと様々な機能をそれぞれの細胞が分担して行っていますが、それらがひとそろいあれば意識が生まれるのかというとやはり疑問です。意識というものは生物に生まれた一種の奇形であり、魂の概念とはまた違った不思議です。もちろん不思議とは無知と同義なのですが。
家庭用ゲーム機は1ヶ月くらい触ってませんね。今DCを起動すると日付時間設定画面が表示されると思います。あ、そういえば昨日久しぶりにグンペイやりました。今はワンダースワンの「風のクロノア」を買おうかと考えています。
無駄があるのなら無駄を無くせばよい。それができないからといって、装飾で誤魔化そうとするさまは見苦しいだけだ。この無駄なデコレーションにも幾らかの代金が支払われていると思うとウンザリする。同時にケチくさいことを云う自分にウンザリする。
CDが全ての曲を流し終わる。踊っていた棒グラフがすうっと短くなり、『0』を表す横線の中に消える。静寂だ。しかし今までスピーカからの音に紛れて聴こえなかった音たちがその存在を主張しはじめる。部屋を構築している様々な機械たちの低く小さな唸り声。音楽が切れても部屋に音は溢れている。世界にと云い換えてもいいだろう。しかしコンポの表示は相変わらず『0』を表す横線だけだ。現象だけみれば内向的で律儀にも見える。そう思ったら可笑しくなった。残念なことに笑いはしなかった。