人々の犯した罪だと思わざるを得ません。
心臓移植などの臓器移植についての話題がマスコミを中心として各メディアで取り上げられています。私も1人の人間という生命体としては興味のあるところです。
自分の身体のパーツを誰かの身体に移植するという状況をちょっと想像してみましょう。
例えば腎臓移植。腎臓はご存知の通り左右に1個づつあり、ちょうど手で握りこぶしを作った大きさの臓器です。体内の余分な水分や塩分、また尿素などの毒性のある化学物質を取り除き尿を生産する器官です。この機能が働かなくなると血液中に老廃物がどんどん増えていきますので、結果として人工透析なしには生命活動を維持していくことが出来なくなります。
しかし健康な人であればどちらかが1個あれば、日常生活に何ら支障はありません。
今、朝の通勤電車の中などですれ違う、普段なんの関わりもない人がこの器官の障害で苦難の中、毎日を暮らしています。たった1個の正常な腎臓を移植すれば、この人は3日に一度の人工透析から開放され、普通の生活が送れるようになるのです。
この時、例えば私などの場合で考えますと(私はAge32のチョンガですが…)、これから結婚して子どもを育て…という事を考えると、とても今現在においては腎臓を提供する気にはなりません。というか、提供後も生きていくことを思うと提供した行為に対する充実感よりも、失ったものに対する喪失感の方が大きいように思われます。これが自分に直結した人間、例えば愛する妻であるとか子どもであるとか親であれば話しは別だと思いますが。
それでは自分が死んだ時はどうでしょうか。その答えを導き出すためには、人間の生命ということについても考える必要がありそうです。
もともと人間の生命は精子と卵子という1個の生殖細胞の出会いから始まります。その後細胞分裂を繰り返して成長、成人し、アポトーシスを繰り返してやがて細胞自身の選択により死を迎えるのです。この誰もが経験するサイクルを、我々人類は地球環境の中でごく普通の営みとしてもう数万年、或いは数十万年前から行ってきたのです。その中でそれぞれの個体を通じて進化し、生き延びてきたものがあります。遺伝子(DNA)です。私の細胞の中の遺伝子もまた、はるかに気の遠くなるような太古の昔から、逞しくも脈々と生き続けてきたのです。そう考えると、本来遺伝子の立場からみると肉体はさほど重要なものではないのかも知れません。ですからもし自分が死んだ時に本当に器官を必要とする人がいるのであれば、その時はどうぞお使い下さいと言えそうです。(現在は臓器提供許諾書に記入して自分で保管しておけば良いそうです。ハイテクには不似合いなほどアナログなシステムですよね。)
ただ問題としては、このままもしパートナーが見つからずチルドレンを残せなかったとしたら、その時はきっと遺伝子に恨み節の1つでも聞かされそうです。(笑)
ここ数年、少子化つまり子どもの数が減っていることが、随分と問題になっています。
確かに私たちの生活を考えた場合、少子化とは次世代の働き手の数の減少ということであり、納税者や年金の拠出者の減少を意味すると考えられます。その結果、年金のパンクや税の負担増も心配されるわけです。
もちろん、少子化が急に始まったわけではありません。私は小学校の社会科で、縦軸に年齢、横軸に人口の数を表したグラフを見た記憶があります。発展途上国(当時は後進国といってました)は、子どもをジャンジャン産むのでグラフの下の幅が広く、年齢が上がるに従って人口が減少する、ちょうどピラミッドのような形をしていました。これは発展途上国は社会情勢が劣悪で、病気・戦争・食糧問題などが人間の天寿をまっとうできないために、齢を重ねるごとに人口が少なくなるのが特徴でした。
私の習った先生は「今は日本もこのようなピラミッド型の人口構成ですが、あと20年もするとフランスやイギリスのような紡錘型(つまり人口の低年齢と高年齢者の数が他の世代に比べて少なく、グラフがちょうど糸を紡ぐ糸巻きのような形をしている)になりますよ」と教えてくれました。
ある意味では、少子化は文化の証明でもあるわけです。子どもが即労働力になる途上国に比べて、学校制度の充実した文明国においては、子どもが独立するまでにかなりの時間と費用が必要です。だから「少なく生んで、大切に育てる」方を親は選ばざるを得ないのです。その結果が、少子化です。
少子化って、そんなに心配しなくてはいけないことなのでしょうか。最初に述べました年金、税金以外に、人口が減ることで個人的なレベルでの心配事ってあるのですか。
国家的レベルで言えば、GNP(最近は別の言い方をしてますよね。忘れてしまったけど)下がる、税金的な意味で国が貧しくなる、対外援助も減らさざるを得ないでしょうから、対外的に大きな顔が出来なくなるなどが考えられます。
もしかしたら、もっとたくさんあるのかもしれませんが「日本は経済的には一流国である」(新聞や週刊誌でよく見る言葉ですが、これって絶対ミスリードだと思います)とか「先進国」といわれることに何の価値も見つけることの出来ない私にとっては、こんなことしか思い当たりません。
少子化が親の選択の結果であるとしたなら、国民が安心して子どもを生める環境を作り出すことの出来なかった政治の責任であるとも言えます。
その責任を感じてのことか知りませんが、笑っちゃうのが国の少子化対策。泥縄的というのか彌縫策(びぼうさく)と言うべきか、012歳児保育の援助と称して保育園に補助金を出してどうするんだ。少なくとも現在生まれている子どもの援助をしてもその世代の子どもの数が増えるわけはありません(あったりマエだよね)これから生まれてくる子どもたちや「じゃひとつ、子どもでもつくるか」と思わせる政策が必要なのでしょう。
こんな政策なら、コンドーム1ダースのうち、「アタリ」を作っておく。つまり小さな穴をあけておき、めでたくご懐妊。といった情けないような方法のほうがまだましと思います。(マジで)
怒りのついでに言えば、この時期になんでピルの解禁なんだ。少子化が心配なとき、なんで妊娠しない薬を認可するの。バイアグラのほうは、少なくとも少子化対策としてほんの少しは効果があると思えますが。
閑話休題。
はたして日本の適正な人口とは何人ぐらいなのでしょうか。人口密度的には日本はまだまだ高密度で、住みづらい国であると思います。まだまだ異常に高い土地や住宅。アメリカを別にうらやましいとは思いたくありませんが、大都市の近郊でも大邸宅が日本の10分の1以下の価格でしょう。これって日本の人口が多すぎるせいではないのですか。
ヨーロッパの国々を見ていて思うのは、別にイギリスやフランスのように一流国と呼ばれていない国(何をもって一流国というのか、私にはわかりませんが)スペイン、ポルトガル、デンマーク、スウェーデンほかほとんどの国が実に豊かで文化的な生活をしています。
経済的に特に優れているわけでもなく、最先端の工業力があるわけでもないこれらの国々の人々の優雅な暮らしを見るにつけ、とてもうらやましく思うのです。経済力つまりは金の力ですが「それが何だ」と、ヤセ我慢ではありますが、言ってみたい。
少子化というのは、日本が住みやすく、豊かな国になるための、避けることの出来ない試練(そんなおおげさなものではないか?)と思えませんか。
おそらく人口が減っても、都市への人口集中は変わらず、ラッシュも解消しないと思いますし、過疎は更に進むでしょう。でもこれは人口が減らなくても同じことでしょう。(このことはこれまでの歴史が証明していますよね)
しかし大学なども、今のように入学は難しいけど、入ってしまえばこっちのもの(私もその恩恵にあずかったわけですから、偉そうなことは言えませんが)といった状態から、ゼミなどが充実して、学ばなければ卒業できない方向、つまり大学が本来の姿に変わっていくのではないかと期待しています。
もちろん日本の人口が減っても、金が全てだと、金儲けに奔走する人たちがいなくなるわけはありません。でも、お金儲けというのは人間の欲を利用することでありますから、多くの人々が心に余裕ができて、心の質が向上すると、安易なお金儲けも難しくなるし、そういったレベルの人相手のものとなり、賢い人々からは見向きもされなくなることと思います。
少子化問題が私たちにショックを与えたのは、このまま日本の人口が減り続けると、西暦ウン千年には日本人がゼロになってしまうという、きわめて算数的(こんな安易な計算は数学的とはとても言えませんよね)な、小学生でもできるような計算を根拠にしたオドカシではなかったかしら。マルサスの人口論だってこんな簡単な計算はしていません。
人口が少なくなって、豊かで安定した生活が可能になれば、安心して子どもを生むこともできるようになるし、人口構成の逆ピラミッド状態も解決し、年金制度なども破綻することはないと断言できますと、楽天的な私は思うのですが、いかがなものでしょうか。