《アメリカ女性点描》 (中島 節) -2007. 2.18-
1.「留学生援護会」
大学の所在地ブルーミントンには「留学生援護会」という奥様方のボランティア組織があった。 シカゴからプロペラの小型機(12,3人乗り)に乗り換え小さな田舎ブルーミントン空港に到着。 入国手続きを済ませ不安な気持ちで お粗末な待合室に出ると、 突然見知らぬ夫人が“Are you Misao?”と私に言葉をかけてきた。 「援護会の者で子供達と一緒にお迎えに来ました。さあお荷物を手渡してください。 これから寮までお連れします」とのこと。
機内で知り合った他の留学生2名の同乗も快く引き受けてくれ アメリカ生活の順調な滑り出しとなった。 事前に現地への到着日時を大学へ知らせておいたが、 このような親切な援護会からの出迎えがあるとは夢にも知らなかっただけに喜びはひとしおだった。
この後も何度かC夫人の家に招待され、アメリカ家庭の内部をつぶさに見聞することが出来た。 書物などでは得られない貴重な体験、 また夫人の子供達が通う小学校にも案内していただき小学校教育の一端を垣間見るチャンスも与えてもらった。 それに年末の帰国時には濃霧のため田舎の空港は閉鎖されてしまったが、 労を厭わず国際空港インディアナポリスまで約2時間かけ送り届けてくれた。
この援護会には地域社会を理解してもらうために市内見学に連れて行ってくれる夫人のグループもあった。 「何でもみてやろう」の精神に漲っていた私は 彼女達の催しに3度ほど参加した。 電機工場、新聞社、石切り場の見学にはそれぞれ学ぶところ大。
新聞社の時などは「もっとたくさんの学生さんが参加してくれと良かったのに。 時期が悪かったのでしょうか」と淋しく語る奥様たちに慰める言葉もなかった。 石切り場に連れて行ってくれたキーナさんは一ヵ月後にお目出度という身重な方でした。 この温かい行事を利用し、利用される事で相互理解が深まり、喜びを分かち合えるだけに残念でならなかった。
2.寮生活
ホテルと呼ばれる15階建て大学一番の寮には世界各国からの男女学生、研究員などが生活していた。 当時大学は女子学生にとりボーイハントの場と言われていた。 食堂は主采を除き各自お好みの料理を選び好きな場所に座り おしゃべりしながら食事をすることになっていた。 食堂はいわば楽しいサロンであった。
ある日のこと一人で食事していると、嬉しい事に脇に座っていいですかと前置きし、私のお相手をしてくれた。 どこの国から、専門は などたわいのない雑談の後 単刀直入に“Are you married?”ときた。 正直にイエスと答えると、もう話の流れはよどみがちになった。
あるときはS嬢から「あなたはずるいね。リングをしていないなんて」と言われたこともあった。 このことを日本人に話すと「誤解のないようにとアメリカに来る時 結婚指輪を家内から買い与えられた」 と答えてくれる用心深い若い仲間もいた。
入寮初日に知り合ったS嬢に誘われ やむなく国際ディナーパーティに参加する事になった。 これは留学生がそれぞれのお国自慢・独特の料理を作り 地域市民も参加して行われる年一度の恒例行事。 食べることは得意だが料理音痴の私、 日本女性に援助を求め また日本男性からの援助申し出もありなんとか目鼻がついた。
出品者には1枚の参加券が配られるが、このような事情で私はあと2枚欲しかった。 食事会の役員だったS嬢にお願いすると「悪いけど1枚しか都合つかないの」といって後日1枚手渡された。 このことを仲間に話すと女性は「私はもう券は買ってありますからご心配なく」との返事で万事解決。
当日朝から準備した「けんちん汁」を持ち3人で会場に乗り込むと、間もなく血相を変えてS嬢が現れた。 「ミサオ出て行け。仲間をずるして入れたね」と大声で叫び 私の説明も聞かず私を会場から追い出した。 ほどなく廊下に出てきた役員のインド人に事の次第を話し、S嬢への仲介を頼んだ。 「承知しました」とすぐ部屋に戻ると、間もなくS嬢が出てきた。
“I’m very sorry”を期待していただけに、 開口一番の「どうしてその事を最初に言ってくれなかったの」には耳を疑うほどだった。 アメリカでは自分の非を全面的に認める“I’m sorry”が禁句である事を知ったのはしばらくたってから。 交通事故を起こした時でも絶対にこの文を口にしてはいけない。 日本語でもよいから先ず相手も罵声を浴びせるのが鉄則らしい。
このハプニングも一段落つきパーティも峠を越したころ、隣席のS嬢は何回となく私の名を呼び、 彼女手作りの料理をご馳走してくれた。
こんな事があって1,2週間経ったある寒い日バスを待っていると、ブルーの乗用車が停まった。 S嬢は私の行き先を尋ね 暖房の効いた車で目的地のショッピングモールまで乗せてくれた。 外交官を夢見る活発なS嬢はその後も寮生のため積極的に明るく活躍していた。
ちなみに晩餐会は世界各国の料理35種類が並び一人6種類までの選択が可能。 メニューのトップにN0.1 Misao Nakajima(Japan,KENCHIN-JIRU)を見た時は喜びより驚き。 西洋人好みに豚肉を入れたケンチン汁は好評であった。
3.ホルトさん
ホルトさんご夫妻はご主人の関係で日立に在住していた。 その頃知り合いになった夫人とは帰国後もまたご主人が亡くなってからも親しく文通していた。 私の渡米を知らせると、わが事のように喜んでくれ、是非フロリダの自宅を訪問するように連絡してくれた。 11月末の感謝祭を利用し息子さんの住むテキサス宇宙センター、フロリダ、ニューヨーク、 ワシントンを回る計画を立てホルトさんに連絡。
するとニューヨーク、ワシントンは東京と同じ喧騒な町、 旅行するに値しないからよしなさいと言ってブルーミントンからフロリダ・タンパまでの往復航空券、 そして10日ほどした頃小切手が送られてきた。 「航空券は予定より安く、残金が出ました。留学生はお金がかかるもの、いくらあっても有り余ることはない。 自由にお使いください」と添え書きがあった。
ご子息のKさんに「恐縮至極、どうしたらよいですか」と尋ねると。 「遠慮しないで貰ってください。それが一番お袋を喜ばすことですから」 と淡々とした返事にお礼の言葉もなかった。
K氏は一度も合ったことのない私をテキサス空港で素早く見つけ笑顔で迎えてくれた。 彼は米軍関係施設4,5箇所の清掃を一手に引き受けている社長であった。 彼の部下を案内役にNASA(アメリカ航空宇宙局)、またK氏の紹介でナサ職員の子弟が通う近くの高校、 世界最初のアストロドーム(屋根つき全天候型球技場)などを見学し貴重な2日間を過ごす事が出来た。
この後ホルトさんの住むタンパに飛んだ。 到着は真夜中近くになっていたが88歳のホルトさんは私を温かく迎え入れてくれた。 「冷蔵庫は自由に開け、好きな物を遠慮なく食べ、飲んでください」と言ってくれた。 これがアメリカ式の心のこもった最高の歓待。
翌日はこの別荘地にもコンドミニアムが建ち始め 興味・関心を持っていたらしくそこに連れて行ってくれることになった。 初めて耳にする単語コンドミニアムが理解できず質問すると 辞書を取り出し説明しようとしたが その語は未だ辞書に収録されない新語(後日 お礼にこの単語の載っている辞書を贈る。 10年後英和辞典にもデビュー)。
夕方は私の食べたい物を尋ね、知人の運転(自分の自動車を提供し運転を隣人に依頼)で アメリカ最大のレストラン(収容客数2000人余、ヨーロッパ風の荘重な建築物)に行き ビフテキをご馳走してくれた。 この店のビフテキは大き過ぎ老人には不向きと言うだけあって、 それはそれはB5版くらいある大型の美味しいビフテキであった。
翌日はK氏の迎えを受け車で30分ほど走り、彼の新婚家庭へ母親と私を招待してくれた。 新婚といっても既に60歳を過ぎ孫までいる離婚男と4人の娘を持つ若い女性(彼の秘書)との再婚。 年老いたホルトさんはこの再婚にもちろんノーコメントであるばかりか、 嫁についての情報もあまりなく また持ちたいとも思っていないようだった。 そして結婚から10日経ったこの日が嫁たちとの初対面とは! 「現実は小説より奇なり」を地で行くこのアメリカの結婚、 家庭生活を目の前にし大きな衝撃を禁じ得なかった。
この日は小六の孫娘(?)の誕生日にあたることを知り、 ホルトさんは急遽1ドル紙幣を取り出しチリ紙に包み祝に差し上げた。 一番下の小1の娘は私の膝に乗り父親に甘えるように甘え、日本まで一緒に行くと言いながら寝込んでしまう。 豊かなブロンドの髪の女優のような美人の奥様はとても快活、手製の料理を美味しく楽しく頂く。 暫く歓談の後 K氏のキャンピグカーに全員乗り込み車で10分ほどの温暖なメキシコ湾岸までドライブした。 この自動車にはベッド、バス・トイレ、キッチン、TVなどを備えた豪華なもので、 当時の日本では見たこともちろん聞いたこともない代物だった。
二番目の小4の娘とは帰国後 暫く文通し、 Dear Misaoで始まる手紙の一通は一部を手直し工業高等専門学校の入試問題に利用させていただいた事もある。
4.恩師の姉
タンパ空港からワシントン国際空港乗り継ぎでニューポートニューズに旅を進めた。 乗り換えた飛行機は なんとタンパに来た飛行機。 青い目をしたしなやかなスチュアデスが私を見つけ驚いた顔で 「今度はどこへいらっしゃるの」と言葉をかけてくれた。 このひと言で旅人はどれだけ癒されたことか。
僅か30分の飛行で目的地に到着。 空港待合ロビーで恩師G先生の出迎えを受け、彼のアパートへ直行、 50歳を過ぎた彼はこれまた独身の60歳の国語教師と共同生活をしていた。 この晩は彼ら合作のライスカレーをご馳走になり、スコッチ、ワインなどを飲みながら昔話に花を咲かせた。
翌日は街全体が博物館の表現がぴったりの由緒あるピッツバーグのあちこちを訪ねたり、 初めて見るヘルスクラブ・スパ(今流行のジム?)に寄ったりして帰宅。
ディナーの用意がほぼ出来上がった頃、男女3名の客が次々とやって来た。 一人は恩師の姉。女性顔負けの料理を食卓に、ディナーは11時過ぎまで楽しく賑やかに続いた。 隣に座った姉さんは、まるで久し振りに会ったわが子のように私の手を愛撫したり、 ご馳走を口までフォークで運んでくれたりの大サービス。 多少の戸惑いもあったが、喜んでアメリカ中年女性の好意を素直に受け、堂々と暫しの幸福感に浸ることにした。 底抜けに明るいアメリカ女性には一種の羨望すら感じた。
そして三日目は一番機でワシントンに発つため早起き。 先生は早起きし朝食のサービスをしてくれ空港まで送ってくれた。 恩師とはありがたき人なり。
ホルトさん、ご子息のK氏、そしてG先生も既に故人になられた。冥福を祈る。 (了)