「くうちゃんー」と問う。なつかしいやら、面映いやらであった。 小生(倉次郎)の幼名を覚えているひとは、兄弟以外に何人もいない。
山形さんには、以前にも一度、電話をもらった。 大分、昔である。直接用があってかけてきたのではない。 兄を懐かしがって、かけてきたのだ。 同窓会名簿でみると、兄(宮城竹男、1977年没)が昭和31年卒、山形さんは32年卒。 だが、「2年遅れて入った」(山形さん)というから、年齢は山形さんのほうが1歳上ではなかったかと思う。
学校では同じ弁論部に所属し、大会ではいつも「ワン、ツウ、スリー」だったという。 つまり、ふたりは上位入賞の常連だったというわけだ。 生徒会でも一緒に活動したらしい。ふたりとも、生徒会長経験者だ。
確かに、当時の弁論部が優秀だったことは、多くの人が知っている。 小生も33年に入学するや、入部した。活躍した「兄の弟」だったからだ。 いまになって思えば、つまらない見栄をはったように思う。もちろん、先輩たちには期待された。 しかし、1年生の終わりごろ、太田一高であった大会を最後に、退部した。 才能がない、というか、全てに怠惰になり始めていたころだ。こののちは弓道部で2年間を過ごした。
山形さんの話にもどる。兄は松岡中、山形さんは高萩中の卒業生だ。 汽車通学や部活、生徒会活動が一緒だったことになる。兄が早死にしたことはもちろん知っている。 多くは語りたがらないが、高校の受験費用も大学の学資も「出してくれた人がいた」という言葉から、 山形さんの孤独と当時の並々ならぬ苦労とがわかる。
兄とつきあいがあったころ、夏休みの1、2週間を旧松岡町の奥にあった我が家で過ごしたことがあるという。 小生が「くうちゃん」であり、兄が「たあちゃん」で姉が「もーちゃん」だったことを、 家族同様に過ごしたことで知っていたのだった。
当時の我が家は、先祖が残したわら屋根のボロ家だったか、 大部分を改造した瓦屋根の家だったかのどちらかだ。 いずれにしろ、教師の父の給料と先祖が残した猫の額ほどの田畑を耕して、家族7人の生活が何とか成り立っていた。
山形さんの記憶では、中学生の小生は水田から大きなナマズをとってきて自慢したらしい。 それを煮るか焼くかして食べたら意外においしかったそうだ。 孤独な中にある山形さんと、どんな会話を小生はしたのだろうか。記憶にないのが、情けない。
次に紹介する山形さんの感慨は、小生にとって万感胸に迫るものがある。
何の話の最中かは知らない。父が「あなたは幸せなのだ」と言ったという。 誰にも親がいて、子どもの心配や世話に懸命になる。人間形成に与える影響も多大だ。 ところが、あなたは全部自分でやっている。エライではないか、よくやっているではないかと励ましたらしい。
「嘆くに値しない」とまで言ったかどうか、分からない。 しかし、自分が不幸だと嘆くのは簡単だが、そこでとまっていては進歩がない。 逆転の発想をして強くなった経験をもつ人もたくさんいるはずだ。 しかし、逆境の中にある山形さんにとっては、厳しい言葉だったろう。励ましにしても。
ところが山形さんは父に感銘を受け、のちのちまでこの言葉を心にとめていてくれた。 子としてはうれしく、ほっとする。父も実は学生時代、赤貧の生活を送った。 その苦しさや悲しさは、酔った父の口から何度も聞いた。 詳しく書く必要はないだろう。 だからこそ、父は山形さんの泣きたいほどの境遇について痛いほど感じ取っていたに違いない。兄もである。
山形さんは、その後茨城大を出てブラジルに渡り、ブロイラーの加工と保存、 管理などに独特の技術を開発し、同国と日本の業界に貢献したことで知られる。 間もなく71歳になる。いまも、仕事をもっているという。
山形さんは兄のことを話すとき、とても懐かしいようすだ。 ポツン、ポツンと電話がかかるとき、どんなことが胸に去来するのか。 兄の死後も響きあうのはなぜなのか。ありふれた言葉に置き換えのはやめておく。 ただ、会話しながら、小生には山形さんを通して父や兄が蘇る。 ありがたいと思う。山形さんの覚えている7人家族の我が家は、いま子どもだった3人が残るだけだ。
今度、山形さんの住む横浜に出かけ、お会いする約束をしている。 心して、サングラスをかけて行こうと思う。(07/11・30 宮城倉次郎)