彼は1835年 現在の福岡あたりで武士の子として生まれたが、1歳半で父を失っている。 1855年(21歳)、彼の人生を決定つける緒方洪庵塾に入り、 蘭学を学ぶと同時に日本の国作りに強く関心を持つようになった。 1858年、慶応義塾の起源となる私塾を東京・築地に開き オランダ語を教えながら後進の指導にあたる。
その傍ら 先見性を持つ彼は英語の勉強に励む。 というのもペリー艦隊が浦賀へやって来たのが1853年、 そして翌年には日米和親条約、続いて日英和親条約などが締結されるという時代であった。 日米通商条約が結ばれたのは4年後の1858年、彼が私塾を開いた年。
1860年(26歳)遣米使節の随行員として 咸臨丸でアメリカに行くが、 これが彼にとり初めて外国の文明:文化に接する機会であった。 この当時は英語の紹介語が定着せず、 カトリーキ宗、キリストマス、ニューヨルクと表記していた時代、 言語面でも想像に絶する苦労をしたことでしょう。
彼はこの時『ウェブスタ−大辞典』を買い求め持ち帰ったが、 これは日本人としては最初の購入者として今もその道での語り草になっている。 この時 洋書を大量に買い込んできたので帰国と同時に謹慎、 洋書は差し押さえの処分を受けている。 五か月にわたったこの時の様子、驚きなどが ごく簡単に『アメリカハワイ見聞報告』に記されている。
2年後の1862年、幕府の遣欧使節に随行し(西洋事情調査が彼の主たる任務) 1年間ヨーロッパ諸国を回ってきた。 それから4年後の1866年、彼はこのとき見聞してきた西洋諸国の最新情報を 詳細にわたって『西洋事情』初編と外編にまとめ上げた。
初編は巻1と巻2(米国の歴史と憲法の翻訳)に分かれているが、 ここでは巻1を主に触れてみたい。 この中には迷うことなく諸外国に門戸をより一層開放し 我が国の近代化を図るのが いかに賢明であるかを 幕府にまた国民に訴えたいという憂国の情が滲み出ている。
では巻1に記載されている主だった項目だけを列挙してみましょう: 政治、収税法、国債、紙幣、兵制、学校、新聞紙、病院、貧院、博物館、蒸気機関、瓦斯灯。 西洋諸国が色々な分野でいかに進歩しているかを報告するとともに、 わが日本はこれにどう対処すべきかを問いかけている。 議会制、兵制、学制となに一つ確立していない国に生まれ育ってきた福沢はもちろんのこと、 他の使節団員も余りにも大きい日本との落差を目の当たりにした時の驚きはいかほどであったろう。
小学校の様子が面白く紹介されている部分を引用してみたい。 「学校の傍らには必ず遊園を設けて、花木を植え泉水を引き遊戯奔走の地となす。 又、園中に柱を立て 梯子を架し綱を張る等の設けをなして、 学童をして柱梯に攀り或は綱渡りの芸をなさしめ、 五禽の戯を為て四肢を運動し、苦学の欝閉を散じ、身体の健康を保つ」。 これを読み皆さんもきっと昔学んだ小学校を懐かしく思い出すことでしょう。
貧院とは養老院と孤児院を含めたものらしく、これが当時運営されていた。 これに続き盲学校、聾唖学校、精神病院についてもその実態が述べられている。 心身障害者への施設がすでにあったとは驚きである。 蒸気機関の項に続き蒸気船、蒸気車の項目をたて いかに便利な交通手段が普及しているかを羨ましく述べているのはもちろんである。
翌年1867年、彼は米国に発注した軍艦と小銃を引き取るため 米国への出張50日を命じられた。 二度目のアメリカ行き。『学問のすすめ』はこの5年後に書きはじめている。 『福翁自伝』は彼が66歳の1899年の出版。 それから2年後の1901年(67歳)、脳溢血死亡。
先にもちょっと触れましたが、興味深い文字表記がありますので追加してみます。 地名ではベルリンが別林、オランダが荷蘭(陀)、ロシアが魯西亜。 いつから伯林、和蘭、露西亜に変わったのでしょう。 その他米国の地名でインヂヤナ(Indiana)、フェレデルフヒヤ(Philadelphia)、 ミチカン(Michigan)等がある。
人名ではコロンビス、フランキリン、ゼッフェルソンなど。 また 訳語が定着していなかったのかminister(大臣)にはミニストル、 soldier(兵士)にはソルジヂールの仮名をあてています。 (2008-06-15)