先ず「神宮」という呼称について触れてみたい。 戦前、日本に神社でなく神宮と呼ばれていたのは伊勢、鹿島、香取の3社だけ。 神宮とは天皇や皇室の祖先を祀り、宮司等は皇室から任命派遣され、 皇室(宮内庁)予算で運営されていた規模の大きな神社・超一流の官幣大社のことです。
神宮略年表によると「神武天皇元年に社殿を造立す」とあり、 また現在も天皇皇后両陛下、 そして皇太子達が一度は当神宮を参拝していることからも いかに歴史的に重要な社であるかが窺い知ることができよう。 ちなみに鹿島神宮の祭神は日本の国を一つにまとめられた武甕槌(タケミカヅチノ)大神です。
本殿について世にも不思議な話をひとこと。 社殿は北向きに 手前から拝殿・幣殿・石の間・本殿と並んでいるが、 本殿に祀られている神は東を向いているそうです。 だから客は神を側面から参拝していることになる。 太陽の昇る東を重要視している証か?
何れにせよ東西に配置された石からも天地創造にまつわる宇宙観、 宗教観の奥義が隠されているのかもしれない。 宮司さんは自説としてこのようなことを漏らしていました。 なお記録によると奈良、平安時代には伊勢神宮と同じように 国で20年に一度社殿の建て替え、 造営遷宮をしていた。 それに鹿島が神宮建立地に選ばれた理由は、当時鹿島は水陸交通の要所であったからです。
さて見学当日は 時々小雨がまじる生憎な日であったが、 定員40名を乗せ 市教育委員会の無料バスは定刻通り8:45博物館を出発。 館長のガイド付きで先ず行方郡に残る椎井池(シイノイケ)と玉清(タマキヨ)井を見る。 これらの池、井戸は常陸国風土記(西暦710前後に書かれたもの)に記録されているもので 今でもこんこんと綺麗な水を湧出している。
この湧水を利用し造られた貯水池・溜池の数は四国地方に負けないくらい沢山あったとも言われている。 霞ヶ浦沿岸は昔、いや利根川河口堰(通称逆水門)が完成する40数年前まで海水が流入していた。 そのため貯水池の淡水を利用しないと霞ヶ浦沿岸での稲作は不可能であった。
昔を偲びながらバスに揺られ 次は鹿島神宮に向かった。
楼門を潜ったところで宮司は私達を待ち受けてくれ、
すぐ、本日の最高呼び物である鏡石に案内してくれる。
こんもりとした本殿の裏手、コンクリート柱に仕切られた一角に、
一般客に非公開の石が平凡な姿で鎮座していた。
直径60センチ位、苔むした鏡状の花崗岩。 館長もデジカメ時代になり撮影が楽になりましたと満足げにシャッターを切っていた。 宮司の説明によると古来より大切にされているが その由緒は不明とのこと。 境内の東に一般に開放されている要石、 そして西にこの鏡石が配置されているところから この二個の石には何か不可解な謎が?
この見学を済ましてから、宝物館、要石へと駒を進めた。 40年前の要石は草むらの中にもっと頭を出していたように記憶するが と館長に尋ねてみると、 「僕もそう思う」との返事。 現在、この石は地震を起こす大鯰の頭、 お隣の香取神宮の要石は尾を押さえていると寓話化されている。 また水戸黄門はこの要石の実態を知りたく7日7夜掘り続けてみたが 底が見えず作業を中止したとも伝えられている。
この後、御手洗池を回り、大鳥居前のレストランで予約していた昼食をとる。 昼食後は霞ヶ浦西側の旧江戸崎市にある広畑貝塚、陸平(オカダイラ)貝塚を見学。 広畑貝塚の現在は周囲の農地と同じ高さで塚にはなってないが、 アカニシという巻貝、ハマグリなどがたくさん露出している。
またこの地では藻を使って製塩したと風土記に記載されているし、 事実 昭和35年には縄文時代後期に使用されたと見られる製塩土器が発掘された。 土浦の下高津貝塚でも縄文時代に土器製塩された跡が発掘されているし、 霞ケ浦沿岸は日本最古の製塩地の一つと考えられている。
予定より10分遅れの4時40分、全員無事 博物館に帰着。 博学な館長、同道された学芸員さんに感謝し、参加者は一日の学習に大満足してそれぞれ家路についた。
いよいよ梅雨入りも目前、皆さん健康管理により一層注意しましょう。
追記:博物館館長茂木先生は考古学の専門家で昨年1月から毎月1回無料で開講されている講座。 我が国は神武天皇から万世一系の天皇を戴く、、、は 徳川光圀が『大日本史』でこじつけたもので 色々矛盾があり 実在を確認できる天皇は推古天皇からと説く。 とにかく事実に基づく講義、話術も巧みで興味津々、 毎回家内と出席し目から鱗を落としています。(2009-6-1)