真夜中の婦人の依頼  (稲植俊雄) -2009. 9. 9-


  1973年5月中旬、ロンドンのヒースロー空港を23時20分に離陸したBOACの航空機は ドイツのフランクフルト空港に向けて飛行していた。 夜間のフライトの為 飛び立って間もなく機内は照明が落とされた。 ところどころで手元のスポットライトで読書をしている乗客以外は殆どが寝ていた。

ロンドンで搭乗前に飲んだビールのせいか 尿意を催してトイレに行こうとして席を離れた。 五列ほどの席を通り過ぎようとした時 突然誰かに左腕を掴まれた。 驚いて掴んでいる人物を見ると それは60歳ほどの白髪の上品な英国人と思われる婦人である。 彼女は私の腕を引き寄せ 耳元で周囲を気にしながら囁いた。 「ここから参列目の二人が先ほどから話をしていてうるさくて眠れない。 悪いけどあの二人に静かにするよう言ってくれませんか。」

前方を見るとスポットライトの明かりで二人の男が話をしていた。 あまり大きな声で話しているわけではなかったが 周りが静かなので近くの乗客は耳障りに聞こえるのだろう。 若い女性なら こんな頼み方をしない。 恐らく自分で席を立って話を止めるよう言いに行くだろう。 日本人なら我慢するか、或いは客室乗務員を呼び静かにするよう言って貰う。 英国のオバサンは逞しい。

「後ろの席の乗客が、眠れなくて困っている、静かにして欲しい、と言うように言われました。」  40歳前後のドイツ語を話していたドイツ人と思しき二人はすみません と言って直ぐライトを消して話を止めた。 トイレから戻り通路を歩いていくと 先程の二人の話し声はもう聞こえなかった。 依頼人の横を通るとき、「あなたのメッセージを二人に伝えました。」 と話した。 彼女はどうも有り難う と言って又私の腕を掴んだ。 このご婦人は何故か腕を掴む癖があるようだ。

前方の二人の話し声がうるさくて眠れない、しかし二人のところまで行って注意するのは億劫だ。 丁度タイミング良く誰かが後ろの方から歩いて来る。 良し、この男に頼もう。眠れないときの辛さが良く分かる。 ささやかながら お役に立てて嬉しいなどと、席に戻り考えているうちに私も間もなく眠りについた。 最近、ご婦人から腕を掴まれることもないので この出来事が妙に懐かしい。 (了)