そのころ、父(故人)は東北の1都市で旧制中学の教師をしていた(県名や校名は伏せる)。 近視であることと 教師であるため、徴兵は受けなかった。 苦学した人で、当時、女学校の受験を控えた長女を頭に5人の子がいた。わたしは、その下から2番目。 父は貧乏に育った反動からか、豊かで理想主義的な家庭を営みたいと頑張っていたことは、のちのち分かった。
東洋史の教師。同時に、選ばれて、戦争遂行の模範的な教師を養成する国の精神文化研究所に派遣されていて、 学校ではそうした役割を担っていたはずだ。 「中学生であっても、戦局ままならないこの国難を乗り切るために何ができるか」。 持ち前の熱心さで、戦争遂行への理解や協力を説いただろう。
大勢の「ロッカクさん」が登場するドラマ(終戦特集)が、この夏テレビで放送され、胸が詰まった。 志願兵募集の割り当てを受けた名門の旧制中学。 生徒を説得し、いかに志願兵募集を成功させるか腐心する校長や推進派の教師、派遣軍人(教官)たち。
しかし、なかには、「国への貢献は兵隊でなくとも」と思う教師もいた。 「技術者や研究者になって活躍すれば良いのだ」と。 「生徒を戦地に送りたくない」と悩むものの、生徒は純粋でひた向きに答えを求める。 学校と自らの信念との板挟みで苦しむ教師像も描かれていた。
しかし、戦時下の学校では、誤解を恐れずにいえば命を国に捧げる思想の方が勝っていただろう。 長男が同じ中学の生徒という教師も登場、妻と「戦争に行かないで」と本心を言う場面もあった。 学校側は、押しつけにならないよう父兄会を開いた。 しかし、ある学年では全員が志願し、ドラマは驚くような結末を迎える。
「ロッカクさん」の記憶に戻る。わが家の玄関を出る「ロッカクさん」を、みんなで見送った。 父がその時なんと答えたのか、残念ながら思い出せない。 しかし、ドラマの生徒たちに志願を説いて回った教師や派遣軍人の役どころが、父の姿に重なる。 そして、終戦。きのうまでの教師、きょうからの先生。
父は一度は教師をやめる決心をした。さすがに、「ロッカクさん」の亡霊に悩まされたに違いない。 だが、母(故人)によれば、5人の子どもを育てる責任感から、「謹慎」にとどめたのだという。 戦後しばらくは、山間の小さな町で新制中学の先生をして過ごした。
終戦直後の「素人農業」や食うや食わずのすさまじい暮らしは、当時のほとんどの人が体験しているだろう。 やがて、父は高校の先生に復帰した。 ただ、大酒飲みに変身し、ついには「アル中」に似た症状を呈し、家族や学校に迷惑をかけた。
しかし、こんな夜もあった。食料が尽き、ついに夕食に何も食べるものがない。早寝しかない。 薄い布団に親子7人がならんで寝ながら、父について歌をうたった。「美しき天然」。 父の手帳に、青春時代の歌が青いインクでびっしりと書かれていた。長い夜をうたい続けるうち、わたくしたちは寝た。 その後、父は教頭を経て校長になった。最後には勲章も授かり、授与式には夫婦で出かけた。
「ロッカクさん」を時折思い出させたのは、父に反抗し続けた姉(長女)だった。 先年、70代で亡くなった。その夫は90歳近い今でも、反戦の短歌を新聞に投稿し続けている。
かつて、正月には何度か親子みんなが顔をそろえた。誰かが次々に話しを引き取り、茶の間はにぎやかに時が流れた。 たいてい、戦中戦後の苦しかったことに話題が及んだ。「いまは、何事もなかったように過ぎてしまう」と姉。 本当に平和なのか、疑っていたようだ。亡くなるまで、田舎訛りがとれなかった。 言うまでもなく、わたくしたちには戦争や戦後があって、いまがある。そして、「ロッカクさん」がいる。 これからのためにも、「ロッカクさん」の痛みや悲しみを、闇に葬ってはならない。
8月上旬、東京大学で「国際シンポジューム『韓国併合』100年を問う」があった。 学者や研究者が中心のシンポジュームだが、関心を持つ1市民として参加した。 会場の弥生講堂は、300人ほどしか入れない。 そこへ、通路に補助椅子を並べても足りないほどの参加者があり、超満員。 東大といえば、わたくしにとっては雲の上の学府である。少し改まった気分で校門をくぐった。
シンポジュームは2日間にわたり、外も内も熱気の中で発表や質疑が続いた。 主題が『韓国併合』だけに、引き締まった空気もあった。 発表は日韓25人の歴史学者。レジメや資料はあったものの、明治以来の日本をとりまく歴史、 ことに極東の動きを知らないと発表について行くのが大変だったかも知れない。 幸いなことに、今春まで約2年半、明治・大正時代の朝日新聞について、指定されたその年その年の、 ある一定期間の新聞全部を読みまくったデータベース構築作業(在宅)が役に立った。
いまの新聞と違い、初期の報道は、いわば箇条書き。 それでも感心するのは、当時の新聞人が過(あやま)たず日本と世界のニュースをかき集めている点だ。 ロイターなどの外電もあり、特派員もそれこそ命がけの活躍を随所にみせている。 ただ、断片を読んだだけでは、その よって来るところがなかなか理解できない。 そのため、歴史年表や辞典、地図などと 首っ引きでニュースと格闘した。 しかしそれが、わたくしの歴史認識を相当に向上させてくれた。
韓国併合も日清戦争、日露戦争とからんで、明治期の新聞のあらゆる面に登場する。 シンポジュームの最初の講演では、韓国併合は1875年9月の江華島事件 (日本の軍艦が測量と示威のために朝鮮の江華島水域で行動し、砲撃を受けて応戦、占領した)に始まるという。 当時の記事を読んだときには、どうしてこんなことが可能だったのか不思議でならなかった。
講演は次に、ハルピンで伊藤博文を暗殺した朝鮮の「安重根」や「伊藤博文言説」、「日清戦争と伊藤博文首相」、 「日露戦争から韓国併合へ」などと続いた。 詳細は省くが、併合の1年前の1909年(明治42年)1月の新聞には、 伊藤博文・韓国統監が韓皇の巡行にかかわる日韓官民の歓迎会であいさつした記事がのっている。 「日本が韓国を保護する所以 韓国の力 微弱にして自ら其邦土を護ること能はざるに因れり」(記事抜粋、原文のまま)
わたくしたちのいまの感覚では、日本によって殖民地化された当時の朝鮮半島の人々の悔しさや無念さが伝わってくるばかりだ。 その後の殖民地支配では、日本名に改名を迫った創始改名や学校での日本語教育が象徴的な出来事として、よく知られている。 この殖民地化が武力を背景とした強制的なものであったかどうか、従って「併合条約」は有効か無効か、 日韓の政府間で解釈の上で対立があるという。
しかし、菅直人首相は韓国併合100年の節目に「殖民地支配がもたらした多大の損害と苦痛」に対し、 反省とお詫びの談話を発表した。 わたくしたちの記憶には、まだ生々しい朝鮮戦争。そして、韓国との国交正常化。 日本国内で激しい闘争を呼んだ60年安保を経て、いまは対米同盟関係にある日韓。
シンポジュームの内容・併合についてさらに詳しく述べるのは、本意ではない。 ただ、過去の歴史認識については、わたくしたちはいまいちど思いを新たにした方がいいかも知れない。 明治維新で走り出した近代化、西欧化、帝国主義、日中戦争から太平洋戦争にいたるまで、 日本及び韓国、中国や米国などに残る外交文書や資料について、それぞれの国の学者や研究者が深い研究をしていることが、 シンポジュームで分かった。
「後ろ向き」ととらえられがちだが、歴史認識の上でわれわれだけがこの先、 隣国やアジア、世界の空気を読めない存在にならないようにしなければならない。 そうでなければ、「戦争の失敗」は生きてこない。「戦争」だったから何をしてもよかった、では通らない。 まして命を粗末にしない思想が根付いていれば、兵隊にしても民間人にしても、 あれだけの犠牲者を出さないで済んだかも知れない。
シンポジュームで、韓国の若手学者が片言の日本語で言った。「日本は大正ロマンを生かすことができなかった」。 ロマン主義に影響を受けた大正時代の個人の解放や新しい時代の理想に満ちた風潮にかぶせていう(Wikipedia)。 戦勝と好景気、帝国主義、欧米列強と肩を並べた日本。いっとき、「大正浪漫」の花が開いた。 大正時代の新聞を読み進めて胸が躍ったのは、文化欄などでの吉野作造らの自由闊達な論文だった。
やがて内地外地で宗教や思想の弾圧は強まり、立憲政治は力を失って行く。 軍部が台頭、日中戦争、太平洋戦争へと傾斜して行く。 母の女学校の同級生は、戦時中に思想犯で投獄され、長く石の床に座らせられていたため、いざりになって出獄した。 この人も短歌をつくり続けていた(故人)。大正ロマンは短く終わった。 しかも、その先が泥沼の戦争であり、原爆投下だった。
「ロッカクさん」が盆の迎え火に映った8月だった。歴史認識と日韓併合について学んだ夏だった。
その8月を豪快に締めくくったのは、甲子園で堂々の優勝を果たした沖縄興南高校だった。
普天間基地をめぐる迷走が続く。
今帰仁(なきじん)村に住んで環境保護運動にとりくむ元環境庁レンジャーの知人に、「おめでとう」と電話した。(おわり)
2010年9月・宮城倉次郎