さよなら! 根本 厚二君  2012年 6月 4日 逝去

       (沼田 吉治) -2012. 6. 6-
       (中島 先生) -2012. 6. 6-
       (宮城倉次郎) -2012. 6. 6-
       (栗田 直久) -2012. 6. 8-
       (稲植 俊雄) -2012. 6. 8-
       (沼田 吉治) -2012. 6.15-

      
沼田からのコメント

今朝(6/6)いつもの起床時間5.30に新聞を開いたら、訃報欄に根本(厚)君の訃報が出ててびっくりしました。

新聞の通りですと、
根本厚二さん(日立情報サービス社長)  70歳  6月4日 逝去
告別式 6月8日 13時  日立市金沢町  金沢葬祭場
喪主/長男 祐司さん

以上の情報しか分かりません。
昨年秋のクラス会に来れなかったのは、具合でも悪かったのでしょうか。
以上取り急ぎお知らせいたします。


中島先生からのコメント

ご連絡有り難うございました。まだ少し早過ぎる他界ですね。
心から厚二君のご冥福をお祈りいたします。

今後の事を考えるとき、弔に関する内規をこの辺で考えておくと良いかもしれません。
細部にわたると結構面倒なことになりますが。
皆さんで相談して下さい。
この件に関し、私からは特に意見はありません。


宮城からのコメント

ご連絡ありがとうございました。根本厚二さんのご冥福をお祈り致します。


栗田からのコメント

長い入院生活から帰還したばかりの私に沼田君からメールがあり、 想像外だったのでびっくりしました。
告別式には参列したかったのですが、退院したばかりの私は まだ自動車の運転も 長距離を歩くことも無理な状態ですので、 我が家から冥福を祈るしかありません。

HPの管理をしていたので、過去の資料から根本(厚)君の思い出を抽出してみます。
第3回(2003)の時、電気の大切さを話していましたが、2011. 3.11 の大震災では思い知りました。 第5回(2009)の時、自分は120歳まで生きるんだと話していましたのに 70歳で旅立つとは短か過ぎます。


第3回クラス会は2003.12.21 日立駅近くの「まんぼう」で行いました。

その時の葉書案内に対する根本(厚)君からの返信(2003.12.17)です。
  参加します。返事が遅くなり、大変申し訳ありません。
  当日は宜しくお願い致します。

第3回クラス会での根本(厚)の一言
私は学校を卒業して以来、電気の工事をやってきました。
今年、東京電力が停電するかもわからない状態だった。 皆、電気があることを常識に思ってると思うんですが、 停電して、電気の有り難味をわかって欲しい。・・・と思っていたんですが、 東京電力がしっかりやっていたので、停電しなかったです。

今、社会は電気がないと、何もできないと思う。 ところが、電気があるのを皆、当たり前に思っているので、一回、そういう事があれば 面白いかなぁと思っています。・・・反社会的かなぁ。

今、息子と一緒にやっています。 その息子が酔っ払った勢いで、「親父なんかと一緒に住みたくねぇ」と言ったんです。 それで、家がもうボロになっていたんで、「俺、家を作るんだ」と話すと、驚いたことに、 息子が「俺も一緒に住むから」と言うんで、そういう訳で、今、親父が作った家を壊して、 家を作っています。


第4回クラス会は2005.10. 7〜10. 8 高萩の中野屋旅館(横川温泉)で行いました。

根本(厚)君が幹事の一員であった我が家にわざわざ来てくれました。(2005.10. 5)
  一週間前(30日)に母が亡くなり、やっと落ち着いたところです。
  ご迷惑をかけますが、今回のクラス会に参加できなくなりました。
  次回を楽しみにしています。

彼は出席は出来ないが、記念品代は出させてくれと記念品代を置いて帰りました。 一旦は預かったものの、クラス会後、今度は私が彼の家へ行き 預かった記念品代を返却し、 お母さんの仏前にお線香をあげてきました。


第5回クラス会は2009.10.27 水戸駅前の三の丸ホテルで行いました。

その時の根本(厚)君からのファックス(2009. 9.27)
  返事遅くなり申し訳ありません。出席いたします。
  昨日栗田君からTELをもらい、今日パソコンのメールを開きました。
  (メールは携帯を使うようになって、パソコンのメールは使わなくなっています。)
  幹事役大変でしょうがよろしくお願いいたします。

第5回クラス会での根本(厚)の一言
どうも しばらくです。
今は昭和62年に会社を作りまして、現在 進行形です。 息子と一緒にやっていますが、そのうち抜かされると思っています。

皆さんの現実を見て、悪いことは無いと思いますが、 私は最近、血圧が高くて、5月から薬を飲むようになっています。

先日、先生に会いまして「私は130歳まで生きたいのですが大丈夫ですか?」 と聞いたんです。そしたらアウト。

理由を聞いたんです。 「人間の血管は120歳までが限度。130歳は無理だ」と言われました。 じゃ〜120歳で我慢するか・・・

先生は私より年上、ケヤキ通りの一高より南にある小泉病院ですが、 「先生、120歳で我慢するから それまで 先生も病院をやっていてくれ」と お願いしました。ただし、返事はありませんでした。
以上。


稲植からのコメント

沼田さん! 根本厚二さんの訃報の連絡有難う御座いました。
朝日新聞を調べたら訃報記事が載っていました。

昨年、クラス会の案内で、参加をするよう厚二さんと電話で話をしましたが、 この時は大変元気で、仕事が忙しい為に申し訳ないが参加出来ないと返事がありました。

私の周りでも同年代は元気で活動しています。
同級生の突然の悲報を聞き本当に残念です。

2012年6月8日 稲植 俊雄


沼田からのコメント

あらためて、根本厚二君のご冥福をお祈りいたします。

あれは、高校2年生の夏、日立の会瀬球場で当時賑やかに行われていた盆踊りに、 高萩の遊び仲間のN・K君、M・M君と出かけました。当夜は根本厚二君の住んでいた、 多分日鉱の社宅?に泊めてもらいました。隣の部屋にはおばあさんがいるから静か にと言われ、ひそひそ話で夜も更けた頃、彼が忍び足で外の物置から父親のビールを 盗んできて栓を開けました。

皆さん、想像して下さい。真夏の熱帯夜、冷えていないビールの味。さすがに悪餓鬼 どもも持て余したことを今でも鮮明に覚えています。本人にクラス会の時にその話を したら、全然覚えていませんでしたが。

また、40代の頃のある夜、水戸のスナックで隣の席のお嬢さんと話し込んでいるうちに、 お父さんが日立一高卒ということから、いろいろ辿っていったら、なんと厚二君の娘さん でした。彼女の曰く「お父さんのこと大好き」いう言葉が、娘二人の我が身にもいたく 沁み、厚二君が羨ましく思ったことがありました。

いまでも、あの人懐っこい笑顔が目に浮かびます。 どうぞ安らかにお眠りください。そのうち遅かれ早かれそちらの方に行きますので、 それまで…。


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