そして一週間後、お礼の気持ちをこめ 最近まとめた短い随筆を三点ほど郵送した。 しかし 几帳面で筆まめな彼から一週間経っても、何の音沙汰もなかった。 今にして思えばこの頃から病状(4年前に肝臓癌の手術を受けほぼ全快)が悪化していたのかも知れない。 そして、7月22日夕方、彼の親友T君から E君が入院しているので、見舞いに行って来たが、黄疸症状で出ているから楽観できない旨の連絡があった。 この時、気掛かりだった随筆の件を話題にすると、先生の随筆は読んだそうです とのことで、一応ほっとした。
彼は日立一高定時制卒業生で、最後の3,4年時を私が担任した。 卒業した翌年あたりから、彼は同級生を3,4人連れ、新婚ほやほやの我が家を訪れるようになった。 その時は決まって、酒とおつまみを持参してくれたので、私たちは場所を提供するだけで済んだ。 苦労しているだけに、また社会人でもあるので、教師の安給料は知り尽くしての心遣いであったようだ。 お陰様で毎回 楽しいささやかな思い出深い宴会となった。
私が土浦に転勤し、4年後新居を構えたときも、E君一行が態々新築祝いを兼ね来遊してくれた。 また平成21年の生存者叙勲受賞の際、開催して頂いた祝賀会の第一号が彼らの学年だった。 また彼が古稀を迎え 平成16年には、「日立あって今日の僕がある」と、広く日立市への感謝をこめ金一封を寄付したことがある。 とても他人には真似の出来ない報恩の念が極めて強い誠実な男であった。
彼は日立で育ち、日立で教育を受け、日立の日本鉱山へ入社し、その後 関連会社へ勤務。 退職後は環境の良い鹿嶋市に新居を構え、ボランティアをしながら幸せで静かな余生を送っていた。 私達も一度お邪魔したことがあるが、とても喜んでくれた。 E君の奥さんは一年下級生で、彼女が2,3年の時、英語を教えていたので、気楽な家庭であった。
七月末の朝、私の見舞い状にE君の奥さんからお礼の電話。 今から病院に行きますが、夫は落ち着いた日々を過ごしています とのことで一応安心する。 それから10日後の昼頃、T君からE君の訃報が伝えられてきた。 8月12日、鹿嶋市の斎場へ車を飛ばし、T君の仲間三名と一緒にE君(享年78歳)と永久の別れをしてきた。 斎場の最前列に着席し、和服姿の遺影を眺めながら 時に涙し、告別式をじっと見守った。E君さようなら! ご冥福を! (了)