『おふくろ』  (宮城 倉次郎) -2013. 3.27-


 先日、神奈川県・鶴巻温泉に住む堀江君の母親に会ってきた。大正2年生まれ、現在100歳。 大正元年生まれの小生のおふくろ(故人)と水戸二高専攻科(旧制)で同級生だった。直接聞いた 話だが、「寄宿舎で1年間同室だった」という。「元気がよかったよ」とも。おふくろの女学生 時代の話が聞けるとは、おふくろを美人だと思っている小生にとっては、とてもうれしい。奈良へ の修学旅行で、猿沢の池で撮ったセーラー服姿のおふくろの写真が残っていて、それがよみがえっ てきた。背景に興福寺の五重塔。女学生のころ、テニスで明治神宮大会に選手で出たことが自慢で、 「元気がよかった」のはその通りだろう。

 100歳の堀江登茂子さんは、(オープンになっているので記す)川尻の造り酒屋のお嬢さん。 卒業後、堀江君の父(医師)と結婚、旧大津町に住んだ。小生が日立一高に入ったころ、母親同士 が同級生だったことをおふくろから聞く。ほかにも兄同士が日立一で同級生だったり、わが家の 遠縁だったり、教師だった父が良く知っている人物のせがれだったりする同級生がいて、はじめか らよく知っている間柄のような気持ちになったものだ。このへんが田舎のいいところかもしれない。

 そんなわけで堀江君とは丹さんや長谷川さんの4人で1年か2年生のころ、テントを持って 会津磐梯山へ旅行した。初めての体験、疲労や大雨でテントが雨漏りし眠れない夜を過ごしたりし、 4泊5日の予定を一日繰り上げ、残りの米を宿屋か何かに売って帰って来たことを覚えている。

 堀江君は、理工系の几帳面さか、この旅行の写真帳をつくっていて見せてくれた。若いというより はまだ初々しい感じの4人が写っていた。たまたま堀江君とは大学も一緒、ただし入学年時が違って いて知ったのはずいぶんあとになってからというのは、ご愛敬だが。堀江君のおふくろさんは、いま ケア付きの老人ホームに入っている。息子の自宅は車で2、30分の距離。3年ほど前は大変元気で、 会話も達者だったという。しかし、視力が落ちてから本も読まなくなり、寡黙になっていったそうだ。 弱ってしまうと、家族の介護に限界があることは小生も体験している。

 小田急線の最寄り駅まで、堀江君が迎えに来てくれたのだが、車を見て驚いた。白い大排気量のス ポーツカーが愛車だったからである。さすが、自動車メーカーのアメリカ社を率いた人物、自動車屋 の面目躍如といったところだろう。

 しぼんだような体になってはいるが、車いすに端然と座った堀江君のおふくろさんは威厳があった。 大正、昭和の激動の時代を生き抜き、堀江君のような優秀な息子を育てた。部屋の外は桜が満開、堀 江君が前年の桜の季節に、ホームの庭先で撮った桜の木の下のおふくろさんをアプリで見せてくれた。 やさしい息子だ、「ことしもあとで連れ行ってあげる」と花見を約束する堀江君だった。

 小生のおふくろは、子のない兄一家の養女になった。養父が校長先生だったので、本当のことは知ら ないまま何不自由なく育った。「実情」を知ったときには、しばらく勉強が手に着かなかったという。 おまけに、父も大津町の米屋兼魚業の家(姓)を離れておふくろと縁組した養子一家だった。父は90 代、おふくろは80代まで生きた。

 小生をふくめ5人の子どもを育て、戦中戦後をいきぬいたおふくろ。堀江君のおふくろに会ったのは、 その母の夢をみたからだ。いまのうちならまだお会いすることができる。そう思って、おたずねした。 おふくろについての思い出はいっぱいある。しかし、自分だけが胸にしまっておいた方がよいこともあ る。この年(70代)になって、両親のありがた味がよくわかる。堀江君の自宅にもお邪魔し、短い時 間だったが妻君ともお話ができた。堀江君と同じ、現在いわき市の女性だ。それぞれに物語がたくさん ある人生のはずだ、生きるという道を実に遠くまできたものだ(2013年3月27日、宮城倉次郎)


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