若葉の美しい季節になりました。皆さんお元気ですか。この所、皆さんからの投稿が無、そろそろ疲れ、老いを 感じ始めたかな? さて今回は真冬のような話題を取り上げてみます。
朝日新聞3月18日の「声」欄の「・・・学徒援農隊」を読み、しばらく当時の暗い回想に浸った。戦時中、 中学、商業学校などの生徒は軍需工場へ勤労動員され、農学校の生徒は援農隊として北海道へ3カ月派遣される 時期があった。援農とは農家に1,2名で住み込み農作業、酪農の手伝いをすることで、米の代わりにカボチャを 食べさせられ食事は良くなかったようだ。派遣地により差はあったのかしれませんが。昭和19年、無事帰省 した先輩達の顔、指先は皆黄ばんでいて、原因はカボチャの色素のせいだと知らされ驚いた。ブログで調べると 全国318の農学校から4万5千余の生徒達が援農隊に参加したとのこと。
私たちは2年生の時(15、6歳)、学年を前、後班に分け、前班は昭和20年5月、北海道へ出発した。 しかし運悪く、内地への引きあげ間近の8月15日に敗戦を迎えることになった。そして音信不通、父兄達の嘆き: 「息子は戦死こそしなかったが、帰省の目当てもなく、もう諦めるしかないな」が、あちこちから。しかし間も なく大被害を受けた青函連絡船がやっと動き出し、どうにか一ヶ月余の遅れで無事帰省することが出来き、父兄、 先生、級友の喜びもまた格別であった。
この間居残り組は、出征兵士のいる農家のお手伝いで授業なし。1年生の時は1学期だけは、午前中かろうじて 授業、午後は農業実習。8月に入っても日曜日、夏休みもなく実習の連日。9月の2学期からはほとんど授業なしで、 終日農業・山林実習や出征軍人のいる農家へのお手伝いと、往時を回想すると悪夢を見ているような毎日でした。
北海道への援農隊は人数制限があるから、病弱とかチビは除外された。そのチビの一人が私。今では想像出来ない ほどのチビで、卒業後同窓に合うと決まって「いつの間に大きくなったのだ」と驚かれたものだ。でもチビで得した のは農学校1年生時10月の軍事教練査閲日。その日は朝から冷たい雨になり、前日引いておいた校庭の白線は雨に 流され、急遽、白線代用にチビ二人が利用されることになった。学友は泥の校庭を匍匐前進、可哀想に服は見る影も ない。陸軍大佐を迎えての査閲は年一度の大行事。また教練は国語、数学と同じように教科の一科目になっていました。
チビの劣等感を知っていた父は「俺も、お前と同じ学生の頃はチビだったが、こんなに大きくなった。おく育ちの 家系だから、心配するな。そのうち必ず大きくなるから」とよく励ましてくれたものでした。