57歳&57回忌  (中島 節) -2015. 9. 1-


 記録的な猛暑に喘いでいた今年の夏も、8月下旬になると、突然10月のような低温になり驚くばかりです。皆さん体調管理は 上手くいきましたか?

 さて今回は五人兄弟の末子である私が亡き母の思い出を少し綴ってみたいと思います。題目の57歳とは母の亡くなった年齢です。 現在の平均年齢からは、約30年(当時でも12,3年)も若く、病名(骨粗鬆症?)もはっきりしないまま天国へ旅立ちました。
私は結婚して3年目、我が子を見せることも、旅行に連れて行くことも、親孝行に値することは何一つ出来なかったのが心残りです。 そして57回忌(こんな仏事はありませんが)とは、7月14日が母の命日で亡くなってからちょうど57年が過ぎました。この世と天国 での長さが同じになった、永久の別れをしてから半世紀余が過ぎ去ったとは、ちょっと信じられないほどです。

 母は商家の五人弟妹の長女として生まれ、結婚前の修行として隣町の呉服店に女中見習いに行ったそうです。そこで学んだことは 「楽するために人を雇ってはいけない。率先垂範し一緒に働くように」ということを聞かされました。また商家から農家(分家)に嫁 いできたので、農業の知識はゼロ、苗代で稲と稗を区別が出来ず苦しんだ。父は村会議員、青年学校の軍事教練教官をしていたので、 農作業の手ほどきをして貰う機会が極めて少なく人一倍の苦労をした。そして子供の出産で心身共に重労働を強いられる日日となった。 実家からはそんなに苦しいなら,離婚し帰って来ても良いと何度か言われたようだ。しかし第二子・長男は暫く実家で養育して頂き、 なんとか苦難の道を乗り切ったようだ。そんな時、住み込みの姉やを雇い、私の幼少時まで数年同居して貰った。
 私が15歳の時、所帯を持っている彼女の住家の脇を隣町まで自転車通学することになった。母は帰校時に、姉やの家に寄ってみるよう 勧めてくれたので、立ち寄ってみると、運良く彼女は在宅していた。「徳永のミサオです。毎日ここを通って,真壁へ通学しています」 と告げると、満面に笑みを浮かべ「あら、ミサちゃん、お久しぶり。大きくなったね。」と応じてくれました。

 少し短過ぎた人生の母にとり、せめてもの慰めは,あの忌まわしい大戦の犠牲者が私達子供五人に一人もでなかったことであろう。 姉は結婚し奉天(瀋陽)で敗戦を迎えたが、二年後には連合いと、二児の母親となって無事帰国できた。また長男(友人の7,8割は 戦死)は甲種幹部候補生で水戸37部隊に勤務していたので、敗戦後間もなく帰宅。次男は入隊日が決まり、会社を退職し自宅待機して いると、入隊延期が届いた。そして約一ヶ月後に敗戦を迎えた。また三男は日立に学徒動員されていたが、間もなく解放され無事帰宅 することが出来ました。


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