浅草と神谷バーと級友と
(萩原 靖夫) -2004. 4.21-
唐突ながら、東京・浅草に「神谷バー」という大衆酒場があります。
明治以来の伝統ある老舗で、酒呑みでなくとも、つとに有名な店です。
この「神谷バー」が最近は、級友の宮城君と私の待ち合わせの場所となっています。
二人で杯を合わせる度に、「メール同窓会」が話題になりまして、
皆様にも是非ご紹介したいとの思いに駆られ、ここに取り上げたしだいです。
俗に“下町の社交場”
「神谷バー」という店名は、明治時代の末から今日に引き継がれている屋号だそうです。
当時は随分ハイカラな名前であったろうし、現在では家業の伝統を崩さないこだわりの店名のように思えます。
その店は、隅田川の吾妻橋と東武浅草駅が間近に見える4階建ての古いビルです。
なんと、所在地は「浅草1丁目1番1号」なんです。
「1−1−1」だから覚えやすく、何か由緒ありげでもあります。
店舗は、2階が洋食、3階が割烹になっており、我等が常用する「BAR」は1階部分です。
席数は100席くらいかな。大衆酒場と言っても、薄暗くはなく、日本酒臭さもありません。
イメージは“ビアホール”です。
店内はいつも込み合っています。
夕方からはネクタイ族が中心になりますが、浅草を訪れたついでに立ち寄った人や、
何かのグループの流れ、家族連れといった多彩な人達が入れ代わり立ち代りしています。
昔は男の酒場とかで、女性用トイレがなかったそうですが、
いまでは女性客のはしゃぎ声の方が元気に聞こえます。
特徴的なのは常連客が多いことです。
ご年配のお馴染みさんが一人で飲み、相席した見知らぬ人同士で仲良くなって飲み交わしている光景が目に付きます。
これが「神谷バー」の独特の光景で、下町の社交場と言われるゆえんでもあります。
名酒「デンキブラン」と「カミヤワイン」
その神谷バーの代名詞になっているのが、「デンキブラン」という奇妙な“名酒”です。
温かい琥珀色をしたこの飲み物は、いわゆるカクテルです。
神谷バーの先代が発明したとかで、
電気と洋酒がハイカラだった明治時代に「電気のようにシビレる洋酒」ということで、この名が付いたそうです。
アルコール度は30度の強さですが、口当たりの甘い酒です。
ブランディーをベースに、ジン、キュラソー、薬草などがブレンドされていると説明されていますが、製法は秘伝。
店内ではグラス一杯260円。店外でもボトルが限定販売されています。
このデンキブランとビールを交互に飲むのが“神谷流”とかで、
常連客は「ビール1杯、デンキブラン2杯」がコースだそうです。
それから、神谷ブランドの「ワイン」もセールスポイントになっています。
デンキブランほどの講釈はありませんが、人気メニューのひとつです。
赤、白ワインの瓶が店内の棚に並んでいて、興に乗ると、ついつい注文してしまいます。
グラスだと350円だから、2〜3杯お代わりもザラです。
ヒロイン“志乃”の面影!
もうひとつ、有名な話があります。
この神谷バーはいくつかの小説の中にも登場していることです。
代表的なのは、芥川賞を受賞した三浦哲郎の『忍ぶ川』にその店名が書かれています。
『忍ぶ川』というのは料亭の名前ですが、
そこに働く「志乃」という美しい女性と主人公(「私」という学生)が深川界隈をデートしている途中、
志乃が浅草へ行こうと誘います。
その時の2人の会話に、「父はね、浅草が好きでよく私をつれていったんですよ。
映画を観て、花屋敷で木馬にのって、帰りにはきっと神谷バーへ寄って、
あたしには葡萄酒、父は電気ブランを飲んだんです」、
「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」、
「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっと見たような気がするんですの。
映画観て、神谷バーへいって、あたしは葡萄酒、あなたは電気ブランで、
きょうのあたしの手柄のために乾杯してくださいな」(原文のまま)とあります。
ついでながら、小説の中の2人は不幸を背負いながらも結婚するわけですが、
志乃は売れない小説家志望の夫を支えて自分の着物を1枚ずつ売り払って貧乏生活を凌ぎ、
両親や弟妹への思いも深い女性として描かれています。
ついつい、その献身的な志乃が葡萄酒を口に美人顔をほんのり赤らめている姿を勝手に想像してしまうほどです。
そんなわけで、神谷バーを訪れる度に、フィクションの中では止まらないリアリティーを感じ、
店内客の中に、志乃の面影を追ってしまいます。
これから、さらに級友と!
宮城君も私も、最初に神谷バーで飲んだのは、随分昔のことです。
初めから一緒に飲んでいたわけではありません。
お互い、別々に仕事仲間と気まぐれに立ち寄っていた程度でしたが、
最近は2人の待ち合わせの場所にしています。
ワイン好きの宮城君は、大ジョッキの後、だいたい「カミヤワイン」を追加注文し、
私は「デンキブラン」を定番にしています。
酔い心地も一巡してくると、どちらかともなく、次の日本酒の店へと流れ、
飽きもせず、終わりのない世間話に盛り上がっているのが常です。
つい先日は、いつもと違うコースを辿りました。
桜の開花時期だったので、吾妻橋から川べりを散策し、墨田堤の夜桜を観賞し、
そのあと神谷バーに立ち寄って桜の余韻を楽しんだところです。
この吾妻橋のたもとには、遊覧船の船着場があって、
ここから墨田川を下って東京港に抜け、港区の竹芝桟橋までを遊覧することもできます。
こんなひとときを、我等互いに思いつつ、
「級友をお誘いして、一緒に飲みたいね」というのが、話しの締め括りになっています。(了)