近況報告 (萩原 靖夫) -2003. 7.25-
振り返れば、一高を卒業して、いったんは就職したものの、
「納得できる生き方をしたい」との若気から、1年足らずで退職し、
東京へ出て大学に進みました。苦学でした。
学費稼ぎのアルバイトを繰り返していたせいか、
身についたのは学力より精神力だったような気がしています。
そして、産業専門紙の日刊工業新聞社に入社し、志望して記者になりました。
経済大国ニッポンを驀進していた時代ですから、会社にも勢いがありました。
在職前半の20年近くは大阪支社、京都支局、神戸支局など関西地域が仕事場でした。
それぞれの地域経済を肌身で感じ、様々な企業や団体・行政を取材し、記事を書きまくりました。
1985年に東京本社に転勤、旧・通産省や郵政省の記者クラブを根城にして、
ひたすら“愚直”に経験を重ねました。
国際部長のときに北京支局を開設し、頻繁に中国出張したことなども印象深い思い出になっています。
会社は新聞以外にも事業経営をしておりまして、
在職の後半は、セミナーなどを行う教育事業局長、
企業動向調査などを行う産業研究所所長のほか幾つかのセクションを担当、
最終的には経営企画室長として社の予・決算や経営戦略の策定などにも携わり、
昨年1月末、定年退職しました。
浅学非才はいまも変わりませんが、38年余の会社勤めを費やして、
多くの人との「出会い」というかけがえのない財産を蓄積してきたのかなと思っております。
結婚したのは、大阪万博のあった1970年でしたが、
それから子供の誕生まで11年かかりました。
その遅ればせの息子は、いま慶応大学4年に在学中で、
目下は弁護士を目指して司法試験に挑戦中です。
まだ現役の学生ですので、定年だからといって“枯れる”わけにもいきませんし、
一人息子の目標達成まで応援歌を続ける覚悟でいます。
現在は、経済産業省が所管する特殊法人「中小企業総合事業団」にお世話になっております。
いわゆる契約職員として広報課に所属し、
同事業団の機関紙やホームページ、Eメールなど広報活動のお手伝いや、
コラムを書いたりしています。
民間企業とはまったく違った雰囲気ですが、
管理責任とかマネジメントに気遣うことがありませんので
気分的には随分と楽をさせていただいております。
それから、休日にはテニスクラブに通っています。
私の柄ではないのですが、8年程前、体調を崩した折にタバコとゴルフを止めて、
健康維持の目的で始めました。
ちっとも上達しませんが、若い人に混じってレッスンを受けることが刺激にもなり、
結構はまっています。
もうひとつ、ご報告があります。
このたびの中島先生のメッセージに書かれていた(まさかご存知ないだろうと思っていただけに)ので、
ものすごく驚いたのですが、宮城君とは一高時代から今日に至るまで、
ずーと交友を続けておりました。
大阪時代も、東京にいるときも、宮城は薄情な私に連絡をつけ、飲みに誘ってくれていたのです。
この関係がなければ、多分、私は消息不明になっていたと思います。
私の経歴のことも、私の家庭のことも彼は知っておりますが、
何よりも、宮城は七転び八起きの励ましをもって、一貫して私を支えてくれたというのが正確なところです。
さらに今回は、ボランティアで熱心に対応していただいている栗田、沼田(吉)の両君にも大感謝です。
仲間に対して、気の利いたお付き合いはできませんが、非礼の段をお許しいただいて、
新たな「出会い」があってもいいかなと思っております。
中島先生のイメージは、教壇に立つ姿が鮮明ですが、
これからはカメラ姿のイメージもダブらせて創造してみます。
そういえば、朝日新聞の夕刊(1面)に「花おりおり」というカラー写真の花シリーズが掲載されてまして、
その花を自らフォローして撮影旅行しているマニアが私の身近にいることを思い出しました。
どうぞ、ご自愛いただきまして、デジカメと35ミリを駆使した作品を拝見させて頂きたく存じます。(了)