異文化について(海外生活の体験)
(堀江 尚文) -2004. 2.18-
齢を重ね、又、長い間海外生活を送っていると、まずい事に、
ちょっとした価値観の違いや新しい発見に感動を覚えなくなってしまっている。
しかし、確かに最近の世界情勢を見ると、混乱の基にあるのは価値観の問題、
いわゆる異文化に根ざすと思われるものも幾つかある。
異文化とは地政学、歴史、宗教等に根ざすものであろうから、そこに生まれ、育ち、
教育を受けた者でなければ、到底うかがい知れるものでは無いと思っているが、
海外生活における体験談での記憶の一端を述べる事により、
外国人の考え方や習慣の一部を共有出来るものもあるかも知れないと思い、
記憶に強く残っている事を記述してみる。
はじめての米国滞在(約2ヶ月間)
70年代初期頃から、既に自動車業界ではグローバリゼーションの兆しがあり、
私の勤務先であったいすゞ自動車は世界最大企業の一つであるゼネラルモータス(GM)との間で、
資本提携が成され、以降GMとの共同開発プロジェクトや世界の国々とのビジネスが活発化してきた。
この時期、私は品質管理業務を担当し、GM関連業務にも携わっていた。
73年頃であったが、共同開発した車両を米国向けに輸出していた。
その中の車両において技術的な問題が発覚し、修理を必要との判断に至った事があった。
品質管理技術者であった私は、修理工を数人引き連れて渡米し、約2ヶ月に渡って西海岸に滞在した。
この時が外国人と生活を共にした最初の経験であった。
この修理プロジェクトは物流に係わる米人関係者に多大な迷惑と既計画をことごとく変更させる物であった。
私は言葉の不自由さもあり、彼らとの初対面を心配していたものであった。
ところが我々の到着前に車両の整理、作業場の確保、修理完了後の配車の手配等、完璧な準備が成されていた。
幾つかの苦情を覚悟していたものだが、逆に初めての海外滞在を心配される始末であり、驚きであった。
又、或る日、雨の中での作業中、米人マネジャーが来て、作業が進まない様子を見て彼らのガレージを空け、
車両搬送を部下に命じてくれる等、大変な親切に預かった。
仕事の遅れが生じ、休日返上を余儀なくされた時なども、日本人だけでは危険であるとの配慮から、
警備員を配置してくれた事も度々であった。
多くの米国人は責任は責任、仕事は仕事と割り切ったところがあり、
我々仕事に来た者に自分達の持つ苦情を言ったり、非協力な態度等、
日本では比較的起こり易い責任論によるトラブル等が無く、気持ちの良いものであり、
彼らの余裕を感じた出来事であった。
この事はその後の米人との付き合いに大きく影響していると思っている。
サンフランシスコ滞在中、ヨセミテ国立公園に長距離ドライブし、衝突事故を起こした経験がある。
我々は驚き、パニック状態に陥ったが、それを見た相手(女性であったが)は、名刺を出し、
これを持ってレンタカー会社に行くように、心配する事は無いとの事であった。
我々は半信半疑であったが他に方法が無く、恐る恐るレンタカー会社に行ったものであった。
ところが、受付の女性は怪我は無いかと言う。
相手の名刺を出したら、後はこちらで処理するからと言い、別の新しい車を直ちに準備してくれた。
30年前の頃の話である。当時、アメリカの保険制度の先進性を認識させられた事件であった。
タイ国での体験(赴任約1年)
79年頃、タイ国(バンコク)に赴任する機会に恵まれた。
この時期、タイのGM会社でいすゞの乗用車を生産、販売していたが、ビジネススキームの変更により、
販売権が日本商社中心のタイ現地法人会社に移転される事になった。
私は品質管理のアドバイザーとして、タイ人主体の会社に初めて単身赴任した。
タイは小乗仏教の世界で、形而上かつ極めて誇り高き人々であり、
この時期、理解に苦しむ事の多くを経験した。
赴任当時、異国人(特に日本人)によるアドバイスはうるさがられるとも、尊敬される事は無かった。
その頃、たまたま記録的な干ばつに見舞われ、農業国のタイは大変な不況に陥った。
自動車市場も急激に冷え込み、工場閉鎖に追い込まれた。
貧富の差が激しい状況の中での彼らにとっては死活問題であったがゆえ、
職を追われていく人達の感情やその表し方は驚くべきものであった。
極めて過激的であり、ピストルを所持し、マネージャー達を吊るし上げる様は、異常事態であり、
銃社会の恐ろしさを身をもって体験した例であった。
幸いな事に2ヶ月後に生産が再開され、従業員が徐々に戻って来た時の事である。
私も戻っていたのだが、それを見てお前も戻れたのか、と彼らは喜びを表し、
それ以降、仕事がやり易くなった事を憶えている。
人間、苦労や困難を共有すると、人種、異国人を問わず同胞的な意識が芽生えるものだと、
つくづく感じた出来事であった。
日常生活の一例であるが、当時バンコクの道路事情は極めて悪く、危険性が高いため、
日本人ひとり一人にドライバーが付いていた。
彼らはプロ意識が高く、極めて乱暴な運転を平気で行なっていた。
私は危険を感じ何度も注意を与えたが従う者では無かった。
或る日、長期連休を利用し、タイ北部のチェンマイまで旅行に出た。
北部の中国、カンボジアの国境近くは山坂の多い所で、日本で言えば箱根路のようなところである。
同行したドライバーは山坂路に不慣れであった。
当時ラリーなどモータースポーツを楽しんでいた私は、自らの運転の機会と捕え、
ハイスピードで山坂路を運転、彼の驚きは大変なものだった。
その後は言うまでも無く、その噂はドライバー間に広まり、その後、私の注意を甘受するようになった。
東西問わず、実行は説得力があり、特に誇り高き人達には極めて有効である事を学んだ例であった。
第1回 米国赴任(新会社設立当時 89年〜92年)
80年代後半に日米貿易摩擦により、自動車の対米輸出規制を必要とした。
他企業と同様、いすゞ自動車も米国現地生産を指向し、
富士重工業と共同出資で米国に生産会社を設立する事になった。
各種のプロジェクトが共同で発足し、
私は品質管理の仕組みを考えるプロジェクトのチーフに成った時の事である。
アメリカ自動車会社の仕組みを知った上で構築する事は、
今後多くの米人を採用し運営するためには重要と考え、GMを始めとする、ビッグスリーの10工場を訪問した。
自動車輸出は日米摩擦の象徴的であったが、どの会社も期待以上に質問に応え、生のデータまで示し、
ノウハウの塊である塗装工場内まで見学を許してくれた。
政治的、政策的な対日感情はあるものの、米国現場ではお互いに切磋琢磨し、強きを宣伝し、
あまり秘密主義では無かった。
ビッグスリーの余裕か、それとも雇用のオープンマーケットの仕組みがそうさせているのか、
日本の企業内常識とは異なる感触であった事を記憶している。
マネージャー、スタッフの採用にあたった時の事だが、
ほとんどの応募者の本人を売り込む技術は見事という他は無く、質問に対し、
立て板に水のごとく自分の実績を披露する能力があり、
又、米人VPが私のことを上司になる人だと応募者に紹介すると、
日本式生産方式やトヨタのカンバン方式など話し出す始末であった。
専門家であった私は、何と無く本の目次を聞いている様で可笑しかった事を記憶している。
又、或るマネージャー希望の応募者は、
「自分はここで2年ないし3年勤めたい。その間、日本式マネージメントと新会社立ち上げを経験したい。
私はクライスラーで充分な経験があるので採用して損は無い。」と堂々と主張する。
私は少なくとも5年は一緒に仕事をする必要性を感じていたので、丁寧にお断りしたことがあった。
日本人の持つ恥の文化とは程遠いものがあり、自分を主張する事に価値観がある社会とはこんなものかと、
認識を新たにしたものであった。
話は変わって面白い話がある。
日常生活の付き合いの中で、40、50、60歳の区切りのある誕生日の時には、朝出社して驚かされる。
何と白と黒のバルーン、机、椅子は白黒のテープで巻かれ、まるで葬式の様である。
更には、60歳の時など杖はまだしも紙おむつまで机の上に乗せられている。
ジョークとは言え、そこまでやるかと驚くが、それを見て皆が笑い、「ハッピーバースディ」と祝福する。
私も後年その恩恵に与ったのは言うまでも無い。
また或る時、外で誕生日を祝ってくれた時の事、
ステージのある飲み屋で、皆な自分勝手にビールを飲み、騒ぎ、或る人は仮装までして楽しむ。
当然、見知らぬ客まで仲間入りして一晩楽しく過ごす様は、なかなか日本では観られないものである。
日常においては、人の目を気にすることも無い、米人の気取らなさ、愉快さ、に何度か触れた経験がある。
その時は会社の地位などお構いなしである。
再度の米国生活(97年〜02年)
97年春、再度米国赴任を命じられ、経営の責任者として従事した。
当時、経営も比較的安定し、家内と共にヨーロッパなど、
何度かの旅行やアメリカ生活をフルにエンジョイした時期であった。
米人との個人的付き合いも深まり、ホームパーティ等に招かれる事もしばしばであった。
ところが、01年9月11日に同時テロが起こり、経営状況が一変した。
米国民の不安を反映し、瞬時に経済にも大きな変化を与えた。
自動車会社の販売においても急激に落ち込み、生産・販売計画を維持するため、
各社インセンティブ競争が激化した。
これは資金力の競争であり、アメリカ国内自動車企業のバランスを狂わせる結果を生んだ。
ブランド力も未だ不十分であり、又、不幸にも日本でのトラック業界は日本の長期不況の中にあったため、
いすゞ自動車は二重苦に陥った。
やむなく不採算性の高まった米国生産、販売に対して自力経営から撤退するとの決断に至った。
このため、私は事業の縮小に着手し、その過程において企業にまつわる米国社会特有の仕組み、
習慣を直接経験した。たとえば、
ェ生産規模縮小に伴う人員解雇とその方法
ェ解雇に伴う退職金のあり方
ェ辞めざるを得ない人達の不満、不安への対処
ェ全従業員の不安とユニオン化(UAW)への傾倒防止
ェ州政府との関連(雇用条件のインセンティブ)
その他多種多様の事があった。
解雇方法を例に述べると、日本の場合は退職金の優遇処置を基に希望退職者を募る、
又は他職種への斡旋などがある。
米国の場合、現場部門はSeniority 方式が採用され、入社年齢の若い順に自動的に解雇されるため、
ほとんど若い人が解雇の対象となる。
スタッフ部門は組織再編、縮小を先ず実施、その結果、業務を失った従業員が解雇の対象になる。
これは終身雇用性の強い日本と契約社会かつ雇用のフリーマーケット性の強い米国の仕組みの違いによるものだが、
私など先を考え若き優秀な人材を残したいという考えが強く、米人との葛藤を生じたものであった。
しかし、人事問題は『郷に入っては郷に従う』にならざるを得ないと痛感させられた。
千人近くもの解雇を実行した後、私は責任者として私も職を辞す考えを表明した時の米人の反応が面白い。
私の感情で言えば当然と思えるのだが、米人のほとんどは私の考えに賛同しなかった。
要は、テロ後の市場変化であり、販売不振に陥ったのは販売側の問題である。
その影響を受け、我々の取った処置は正しいものである。
よって、生産側の責任者が職を辞すのは理に合わないとの事であった。
この論理は解らないものでも無いが、私にはすっきりしないものがあった。
経営者の責任について、文化的温度差があるのだろうか。
責任論には同意が得られなかったが、私も62歳の年を迎え、
家族との二重生活に終止符を打つためのリタイヤでもある、との説明に皆な納得し、
それ以後、Happy retirementと祝福を受けることになった。
家族の大切さを優先させる米国の価値観のようだ。
時は若干遡るが、10周年記念行事について従業員の希望を募った時、最も多かったのは、
会社の敷地の中に保育所を設置して欲しいとの事であった。
この時期、約3000人の従業員のうち3分の1は女性であり、しかも主婦が多い。
この要望は如何に米国において女性の社会進出が多いかを物語っており、
この提案には多くの男性の賛同もあった。
厚生設備の一部として建設した事は言うまでも無い。
米国の大企業の多くはこのような施設を有しているのが普通である。
日本も女性の社会進出が多くなり、少子化問題の解決のためにも一考を要するであろう。
おわりに
以上に述べたように長期海外滞在を通じ、異国や外国人に違和感を憶える事も少なくなり、
又グローバル化が進み、世界の情報が瞬時に行き交う今日、
益々昔の様に異文化に驚く事も少なくなる事であろう。
最初に述べたように地政学、歴史観、
宗教観による教育や生活様式等からその国の文化が生み出されている事は間違いない。
しかし、一般的な生活においては如何にコミュニケートが出来るか、
それを通じてお互いの考え方や習慣を理解し合える事出来るか、が重要である。
要は言語の違いが対話を困難にし、
それによる誤解を異文化と片付けてしまう危険性の方がはるかに多いように経験上、私には思える。
イラク問題、パレスチナ問題、イスラム原理主義による自爆テロなどに代表されるよう、世界は混乱している。
ハンチントン著の『文明の衝突』にある問題と論ずる識者もあるが、私は必ずしもそれに組しない。
異文化と言うより、人間、昔からの営みの中で、
人間の持つ憎しみ、権力意識、征服力、利権などから生じている様に思える。
欲望の渦巻く中では、ちょっとしたきっかけや誤解があれば、
絶えず起こるものかも知れないと思うこの頃である。
(了)