運転免許取得の頃 (宮城 倉次郎) -2004. 3. 2-
たまたま小津安二郎の無声映画「大学は出たけれど」をテレビ(CS)で見ていて、
月例のテーマ「運転歴」についてキーをたたく気になりました。
それは他愛もないのですが、、映画に出てくる学生時代の生活、進級試験や仲間付き合い、
貧乏、恋愛、就職など、どれもが自分の経験と重なって懐かしかったためと、
当時大真面目に運転免許取得に取り組んだことを思い出したからです。
今回は、一人称を素直に「私」にします。
でないと運命の神様に叱られそうなのでーー。
私が大学を卒業したのは、68年(昭和43年)です。
入学と卒業までに長い時間がかかっていますが、ご披露する程のことでもないので省きます。
とにかく、社会に出るに当たってひとつ、一生懸命にやったことが実に運転免許の取得なのでした。
すでに就職の目途がついていたのかどうか、いまになっては定かではありません。
物書きを目指したものの、「その他大勢」の学生だった私は、
何をやるにしても運転免許が必要だとの思いにかられていました。
モータリゼーションの始まりを、感じていたからかも知れませんが、それも定かではありません。
そんな卒業前年の夏休み、数万円の自動車教習所の費用を親が出してくれることになり、
私は一日もさぼらず、水戸の教習所に通ったのでした。
たかが教習所通いなのですが、私の胸には「これまで親に散々迷惑を掛けて来た。
運転免許ぐらいは一発で受からないと申し訳ない」という思いが満ち溢れていたのです。
当時、両親は古くからあった水戸の母の生家に移り住んでいました。
そこから毎日、バスで郊外にあった教習所へ通いました。
女友達にも会わず、市内の飲食店街にも足を運ばず、規則正しく生活し、
禅僧のようにひたすら免許取得に励んだのです。
とはいえ、別に勉強の必要はありませんので、真面目の内容は時間通りの起床や帰宅、家族団らんです。
いま思うと、笑ってしまうぐらい生活を大切にしたのでした。
おそらく、そんな私は、寒村で育った小中学生の時以来だったでしょう。
振り返ると、そうした映画のような場面が、
だれにでも長い人生の中で存在するように思えるのですが、如何でしょう。
心のどこかに、「親に甘えるのもそろそろお終い。少しは信頼を回復しておこう」とか、
「自堕落な生活から規則正しい生活に切り替えておかないと、一生後悔するかも知れない」などと、
殊勝な気持ちや計算が働いたのかも知れません。
鳥の巣立ちでしょうか。
自分でも不思議な新鮮な時間の流れが免許取得の間だったことを、いまでも印象深く覚えているのです。
めでたく、一発合格。
実地試験では、バックの車庫入れで少しフライングがあったのですが、おとがめはありませんでした。
無遅刻、無欠席、「ハイ、ハイ」と忠実に指導を受ける教習生に、
先生もお目こぼしを下さったのかも知れません。
取得まで、40日ぐらいかかったように思いますね。
すぐに思い上がるのが、私の悪い癖。
神奈川県相模原市のアパートに戻った私は、「陸送」のアルバイトに加入しました。
「陸送」とは、自動車工場で完成した車を数10キロ離れたモータープールまで運ぶ(運転してゆく)仕事です。
本来はプロのドライバーの仕事ですが、自動車の生産が急激に伸びて行った時代です。
私のようなホヤホヤの免許取立てでも、ドライバー不足から、かまわずに採用したのでした。
どういうことになるか、みなさんお分かりでしょう。
厚木の工場から船積みのため横浜へ。
10数台がプロのドライバー車を先頭に走ります。深夜ですから道路は、混んではいません。
先頭車のウインカーによる合図で、発信、停止、追い抜きを慣行します。
しかし、例えば1回の青信号で交差点を渡れる車の数は限られています。
置いてゆかれては、道が分かりません。後ろにもプロのドライバー車がついています。
しかし、後続車が邪魔で視界に入りません。焦った運転は禁物です。結果、追突や接触は何度もやりました。
しかし、事故にはなりません。仮ナンバーの車ですし、内々で事故処理が可能だったからです。
私の免許証も無傷のままでした。
ぶつけた車体の傷は、すぐに処理され、外見からは見えなくなります。
相当へこんでた場合でも直りますし、こちらはお説教ぐらいで済みました。
それを買わされる客のことが、チラと脳裏をかすめたこともあります。
事実上首になるまで、何台の車を傷つけたことでしょうか。一番肝をひやしたのは、
日中、6・8車というシャーシに運転席だけがついた大型車を運んだ(運転)ときでした。
高い運転席は見通しは抜群ですが、どういうタイミングでブレーキを踏めば前の車に追突しないで止まるか、
車間距離がまったく分からなかったのです。普通車しか運転したことがないのですから、当然です。
大型車でも、シャーシの状態なら普通免許で運転できたのですから、むちゃくちゃな話です。
被害をこうむったのは、私ではなく。すぐ後ろに続いていた出稼ぎのおじさんでした。
私が度々急ブレーキを踏んだものですから、ついに何度目かにブレーキをかけ損ね、追突したのでした。
私は幸い、むち打ち症にはならなかったのですが、
いまときどき首の骨がギシギシいうのは、その時の後遺症かもしれません。
しかし、お陰で私の運転技術はものすごく向上しました。
ぬかるみでの発信やサイドブレーキの使い方など、高度なテクニックも身につきました。
免許取得の翌年4月、新聞記者になるのですが、地方にいるときは1ヶ月2000キロ以上も、
取材で平気で走りました。雪国でも、私の運転技術が生きました。
いまもドライブが好きで、タクシー運転手なら、いつでも務まるだろうと思っています。
車もいろいろ乗りましたが、それについてはまたの機会に。(了)