「逝ってしまった姉を偲ぶ」
(宮城 倉次郎) -2004. 1. 6-
私の姉が昨年12月、70歳で亡くなったため、
新年のご挨拶は失礼させていただきますが、今年もよろしくお付き合いください。
5人兄弟(女2人、男3人)の一番上の姉でした。
昭和8年1月の生まれで戦時中に旧制女学校に入学し、
新制の高校を卒業した「焼け跡世代」の人間です。
女性にしては珍しいぐらい頑固者で、東京の女子大に入りたいと言い張り、
貧乏の極みにあった両親を困らせました。その結果、学資稼ぎのため高萩市で就職しました。
ところが、そこで結核に感染し、村松の晴嵐荘(国立の結核療養所)で療養する羽目になりました。
しかし、症状が軽かったのと肺のごく一部を切り取ってしまう医療技術の進歩により、
3年ほどで退院できました。
この療養生活で、姉は多くの知識人と交わり、勉強し、自分を磨いたそうです。
このため、我が家では「晴嵐大学卒」で通っていました。
おまけに、療養仲間の1人で、歳の離れた長身でハンサムな男性を伴侶として連れて来まして、
家中を仰天させました。
多くの人が生活にあえいだ時代、結婚式は日立市の公民館でした。
その後、姉夫婦はハンサム男性が先輩のつてを頼って都会へ出、
生来の誠実さを買われて会社人間としても成功し、埼玉県上尾市に自宅を構えました。
しかし、姉たちが最も大切にしたのは平和と社会正義でした。
それは戦中戦後の自らの体験に基づく、信念でした。
決して、頭の固い生活をしたわけではありません。
情熱的で、議論好きで、世話好き、音楽を愛しました。
結核の療養で家中に迷惑をかけたと思ったのでしょうか、
私を大学の生活の1年間、預かってもくれました。
さらに熱心だったのは、2人の子供の教育でした。
幼い子に、刺激的なTV番組は見せませんでした。
「TVは1日○○分、幼児番組のみ」、と決めていたようです。
学生の私がたまたまTVドラマを見ていて、きわどいシーンが出てきたりすると、
小学生の兄が弟の頭を押してコタツにもぐりこんだりしました。
これらは戦争や空襲、人権や言論、自由を制限された世代としての反省だったのでしょう。
子供たちも愛情の深さからか、素直に親を信頼して育ち、長男は大学で哲学を修め、いま高校の先生。
次男は物理学を修めて、企業の主任研究員の立場にあります。それぞれに、孫も1人づつ。
しかし、40代からリュウマチに悩まされます。
これに骨そしょう症が加わり、私が5年前、
埼玉県久喜市に赴任した時には体が丸く萎縮してしまっていました。
目のくりくりした美人で、気位の高かった若いときの姉の面影は、
その元気な言葉にしか残っていませんでした。
20代に続く、長い闘病の人生でした。
それでも、常に冷静に病気と向かい合い、愚痴ひとつこぼしたことがありませんでした。
最後はさすがに入院をいやがり、呼吸困難になるほど肺炎が悪化していました。
団地の仲良しと続けたコンサートのピアノと独唱に送られ、帰らぬ国へ参りました。
姉の一生を同人に伝えたい思いましたが、とりとめもないごあいさつになってしまいました。
ご容赦を(了)