美術館「無言館」での無言忌
   (宮城 倉次郎) -2004. 6. 9-


 私たちは戦後の混乱期に育ちましたが、戦争についてはわずかな記憶しか残っていない世代です。 ところが、私にはいくつか、強い印象となって残っている記憶があります。

   私は、教師の父の転勤に伴って、大洗町で生まれ、福島県平市(旧)で数え年で5歳まで育ちました。 戦争の記憶というのは、平市でのもので、例えば終戦直後、 炭鉱で働かされていた捕虜のために航空機からパラシュートをつけて投下される食料を、 面白半分に追いかけたり、列車内でパンを配る米兵を初めて見たことなどは、 いま思えば、そう重い記憶ではないのです。

 忘れられないのは、父が灯火管制の禁を破って、防空壕の入り口から懐中電灯で空を照らし、 「いましか見られないだろう。しっかり覚えておくのだぞ」と重々しく言った、B29の空襲の姿なのです。 そのころ、兵器工場があった平には、毎夜のようにB29の編隊が現れ、街に爆弾や焼夷弾を落として行きました。 私の見たB29の姿は、上空でくるりと旋回し、高台めがけて爆弾を落とす1機でした。

 あとで分かるのですが、このときの空襲で学校のひとつが爆撃され、父の知り合いの校長が亡くなりました。 当時、子供である私たちは、日中は艦載機の空襲があるたび、押入れに逃げ込むのが日課でした。

 あるとき、四つ角にあった私の家の近くで、艦載機の爆音が響き、続いて機銃掃射の音が空気を引き裂きました。 あっという間でしたが、直後にできた人だかりの中で、 町内に住む精神に異常をきたした女性が、撃たれて死んでいたそうです。 日本の戦闘機と勘違いして、道路に飛び出したとも。

 その5歳のときに、茨城県松岡町(当時)に引っ越すのですが、 それは、農地解放で他人の手に渡る恐れのある、先祖の家屋敷や田畑を守るための帰還でした。 その常磐線平駅、ついで高萩駅、ともに機銃掃射で穴だらけのトタン屋根、 一面焼け野原の駅前の光景は、子供心にも胸の痛む光景でした。

 高萩駅におりたち、父が親戚から借りて来たリヤカーに山盛りの家財道具とともに、 約1里の道をとぼとぼ歩いて田舎の家にたどりつくのです。 以後、風が吹くたび揺れるわら屋根の家で、にわか百姓の生活が始まり、私が日立1高に入るまで続くのです。 昭和27年の朝鮮戦争のときは、「再び、日本が戦争になるのではないか」と、本気で心配し、 ラジオに聞き入ったものです。

 あれから59年。 長野県上田市の郊外に、8年前、芸大教授らの奔走で戦没画学生の遺作を集め、 展示している美術館「無言館」が建ちました。毎年6月に無言忌があります。 今年は、6月6日でした。参加してみました。

 現在、収蔵されている戦争に散った画学生は402人。 当時、美術学校に通っていたか、独学で絵を描いていた若人たちです。我々より、15〜20歳上の世代。

 特攻機と思える日の丸のついた戦闘機の前で、数人の仲間と語り合う写真や、 「級長を命ずる」などの学び舎での文書、 中には妻がいた人もいて、妻子にあてた書簡などが、遺作とともに展示されていました。

 私の仕事場、埼玉県内の人で収蔵されているのは、たった一人。 妻子にあてたはがきが残っていましたが、その妻はすでに89歳。面倒を見る息子さんも、はや68歳。 「もう、母は無言忌に行くことはできません」との事でしたが、 「父の作品がいつまでも人の目にふれることは、大変ありがたい」と話していました。

 今年、無言館の庭に、収蔵者の名を刻んだ石碑が出来ました。 石は中国産で、パレットの形をした石の表面に名前が刻まれています。 中央に、中国のてん刻(石や金に印を彫る手法)画が描かれています。 図柄は、絵を描く美術学校の授業風景なのですが、 館によると、描かれているのは収蔵者と同世代の中国の美術学校の様子で、 無言館の存在に共鳴した中国の方々が描いてくれたとのこと。

 館長のあいさつには、戦争を風化させまいとする願いとは裏腹に、年々、来館者が減り、 特に今年は上半期だけで昨年より3000人も入場者が減ったそうです。 不況のせいもあるのでしょうが、わずかに戦争の記憶がある私たちの世代も、 志なかばに人生を終えた先輩たちのため、未来を明るいものするため、 ご旅行などの機会があれば足をのばしてあげて下さい。(了)