高萩市からバスで約20分。旧松岡町手綱が小生の育ったところ。 小学校は各学年3クラスの小さな学校でした。 春は校庭の桜が満開になり、新入生がたくさん入って来てにぎやかになり、 6年生が卒業で抜けた寂しさをすぐに忘れました。
当時、ピカピカの皮のランドセルを背負い、満開の桜を背景に親子そろって写真を撮るような、 そんな絵に描いたような情景はありませんでした。正確にいえば、小生の網膜には浮かんで来ません。 つまり、同級生のみなさんはほぼ同じ感慨と思うのですが、物のない貧しい時代でした。 小生は、お袋が軍隊で使っていた毛布を縫い合わせた肩掛けカバンが、入学時の最初の持ち物でした。
着ていた服も、兄のお下がりでした。 大きくて分厚いオーバーのような布地の服、手は袖の中に隠れていて、 寒さに首をすくめて写っている写真が探せばどこかに残っているはずです。 コの字形の木造校舎の横は田んぼ。そのあぜ道は、糞便だらけでした。 どうしてかよく分からないのですが、学校のトイレに行くより、 校庭横の土手を越えてあぜ道に出る方が、早く簡単だったのでしょうか。 困ったのは、遊びまわる僕たちはほとんど裸足でしたので、よく糞を踏み、 においや付着感がいやで大往生したものです。
兄弟5人。親も目が行き届かなかったのか、1年生になるまでチャンバラばかりしていました。 入学する際、簡単なテストがあったことを覚えています。 そのテストに備えて、初めて自分の名前を漢字で書くことを親から教えられました。 小生にすれば、とても新鮮な出来事でした。 いまでも印象深く覚えているのは、学ぶことが嫌いではなかったとの思いからです。 この好きか嫌いかは大きな意味を持っているように、小生には思えます。 となると親が悪かったのでしょうか。このころ、親もにわか百姓をしていて超多忙でしたからね。 文句も、あの世に行ってからにしなければなりません。
それはそれとして、本当に私たちは着るものも食べるものも遊ぶものも不足していた時代に育ちました。 何もかも不足していた時代でしたけれど、戦争の直後でしたので、 だれもが平和を一番崇高なものとしていたように思います。 こどもには、難しいことは分かりませんでしたが、代用教員の美しい、 まだ二十歳前の女の先生が1、2年生のときに教えてくれた、 お弁当の譲り合いや弱い人との助け合い、 木の芽にも命や成し遂げることがあると教えられた事柄を、愚直な小生は忘れられません。 というか、そこから外れるような行為を大人になっていくに従って繰り返すのですが、 しかし、それで心が傷つき、疲れを感じてしまいます。 やはり最初の教え、若かった女の先生の教えの元にいつしか戻っている自分に気がつくのです。
歴史的にひ弱な時代、との指摘もあります。
それはそれで構いませんが、ある意味できわめて純な時代に心の形成があった自分を老後こそ、
いたわってやらねばならないと、もう1人の自分が叫びます。それが、小生の秋です。
*05年11月、宮城。