思わぬ体験した熊野旅行
   (宮城 倉次郎) -2004. 9.15-


 災難は思わぬところで待ち受けているものです。 今回は9月3日〜5日、熊野古道を訪ねたときの出来事についてお伝えします。

 旅のメールを書こうと思うとき、時々気になるのですが、 何かの理由で旅行に出かけられない方がおられるかもしれません。 私は元気なうちに、出来れば日本の都図浦々を見ておきたいと思うものですから、 少しお金があると小さな旅を実行してしまうのです。 もし、お気に触ることがありましたら、ご容赦ください。 また、いま右腕の筋がつって痛い(職業病です)ので、手短にお伝えします。

 紀伊山地の霊場と修験道ーが今年、世界遺産に指定されたことは、みなさんご存知だと思います。 その古道をいくつかたどってみようと、残しておいた夏休み、トレッキングの用意も整え、 カミさんと出かけました。

 埼玉から熊野までは、約600キロ。 静岡清水市で1泊、翌日、伊良子ー鳥羽(フェリー)、伊勢自動車道経由で尾鷲、熊野へ。 熊野市で早速、熊野古道のひとつの峠道に挑戦。 苔むした石畳の峠道は、たいへん趣のある道でしたが、息が上がりました。 休み休みたどって、往復約4キロ。

 平坦なら何でもないのですが、昔の道は胸突八丁。 くたくたになって車に戻り、かんぽの宿に向かいました。 その近くに来たときです。突然、車(オペル)のハンドルが重くなり、舵が切れなくなりました。 妙なランプも点滅し、車は立ち往生。旅に出る前日、車検から帰って来たばかりの車でした。 私たちは、こちらはうろたえるばかり。

 幸い、近くにガソリンスタンドがあったので、SOS。 聞くと、ファンベルトが切れているとのこと。おお、神様!。 しかし、旅は道連れ、世は情け。 2泊の予約を入れていた かんぽの宿の従業員さんが飛んで来て、修理の手配をしてくれたのでした。

 でも、三重県の松阪など主要都市から遠く離れた熊野市。 外車のベルトが届くのは、早くても翌日の昼と聞いて、がっくり。 紀伊半島の海岸を走るローカル線は、1時間に1本。 午後は3時間も空白のあるダイヤなのです。 首都圏と違い、観光地といえども田舎はいかに不遇か、お分かりいただけるでしょう。

 私は、レンタカーの利用を考えました(帰宅後、車検のディーラーが故障やレンタカー代を補償してくれました。 それほどベルトは痛んでいたのです)。 翌日、レンタカーで新宮市の那智の滝、那智大社をめぐり、熊野本宮にも行きましたが、 残念ながら、その周辺の古道をめぐることは出来ませんでした。

 神話に登場する紀伊山地の深い山、霊場の雰囲気は一応味わいました。 しかし、古道を散策できなかったのは不完全燃焼でした。しかし、災難はそれだけではなかったのです。

 3泊目は、志摩半島に決めていました。 その突端に近い民宿におさまり、夕食。 イセエビやアワビ、タイやイカの刺身など、食べきれないほどの料理を前に、 顔に深い皴のいくつもある70歳の主から真珠養殖の失敗や 民宿経営に至る人生を、浪花節でも聞くように耳を傾けているときでした。

 突然、ビリビリと床が震え、続いて長い横揺れ。 約1分ほど続き、子供の悲鳴が上がりました。しかし、宿の主は「地震ですね」と平然。

 確かに話の中に、地震の津波や台風の高波で過去に2回も家が流され、 コンクリートに建て替えた話が出てきていました。 主は、確かな勘が働いたのでしょう。

 そう思って、床についた夜9時ごろ、今度はもっと大きな地震です。 私の手を握ったカミさんの手に、異常な強さが加わりました。 TVをつけると、三重県南部は震度4。 実感では、もっと上でした。やがて、半島の各町に津波に備える避難勧告がでました。 どうしよう。窓の外で、防災無線の声が途切れ途切れに避難を伝えています。

 「これはまずい」と私は思いました。なぜなら、1度目より2度目の方が揺れが強かったからです。 こんなとき、だれでも思いませんか。「今度きたらおしまいだ」。 私は、カミさんに服を着るように言い、次のように話しました。 「3度目が来たら、たいへんなことになる。 しかし、おじさん(宿の主)はここを高台でコンクリートの家と言った。 部屋を見れば、柱の数も多い。 そのおじさんが逃げろといったら逃げよう。それまで、服を着たまま寝ていよう」。

 真夏の夜、服を着たまま寝ているのは苦痛でした。 翌日、早い朝食を予定していましたが、それももどかしく、 30キロの道のりを飛ばしに飛ばして鳥羽からの朝9時のフェリーに滑り込みました。

 思い出しますと、服を着たまま寝たのは昭和20年、福島県平市に住んでいた太平洋戦争末期の、 空襲に備えた夜以来でした。 そして、この旅行で体験した地震は 和歌山や奈良県で震度5弱を記録した和歌山県沖を震源とする地震でした。 (了)