異文化理解:アメリカを主に
   (中島 節) -2004. 2. 4-


 飛行機、いやインターネットの普及で世界は益々近い存在になってきた。 しかし相変わらず63億の人間はどこかで殺し合いをしている。 この原因は色々考えられるが異文化理解の不足、各民族・国民間の相互不信や妬み、 力の過信・驕りなどが挙げられよう。でもこの解決は息の長い問題で一朝一夕に片つくものでもない。
 
 今から述べることは32年前、 文部省在外研究員としてアメリカのインディアナ大学に四ヶ月過ごした時の話が主である。 多少なりとも異文化理解に役立てばと思い、以下7項目に分け、昔の拙い体験談を書き綴って見る。

1)バカ親切

 羽田を飛び立ったJAL、私の隣席にはアメリカ人とデンマーク人がいた。 自己紹介ですっかり打ち解けたが、初めての飛行機、海外旅行の不安が私の顔にありありであったろう。 某自動車会社の在日駐在員のデンマーク人は空の旅に不慣れの私を鼓舞し、 楽しませようとスコッチウイスキーのお代わりを勧めてくれた。 この当時アルコール類は有料。 私たち庶民の口に滅多に入らないスコッチを遠慮せずご馳走になった。 全員ハワイで乗り換え。 彼は「ではお元気で。良い研究を」の言葉を残し足早に愛妻と愛児の迎えを受け、人ごみの中に消えていった。

 それからシカゴに飛び、オーヘア空港からリムジーンで市内のYMCAホテルに向かった。 下車停留場が分からないので背後のアメリカ青年に尋ねると「ヒルトン・ホテル下車」と教えてくれた。 彼は態々そこで降り、懐かしい日本人に酒で乾杯したいといって街角のバーに誘ってくれた。 彼は数年前在日駐留軍人であったこと、静岡にガールフレンドがいることなどを話してくれた。 このときご馳走になったのが最初の出会いであるバッドワイザーだった。 この後彼は私の重いトランクを持ちホテルまで案内し、フロントに取り次いでくれた。 「ではお元気で。幸福なアメリカ生活を」を残し夕闇の中に去っていった。

 一泊後、大学のある小さなお粗末なブルーミングトン空港に着いた。 待合室に出ると見知らぬ中年夫人が「Are you Misao?」と突然聞いてきた。 私を迎えに来たことを知らされびっくり。 機内で知り合った台湾からの留学生を便乗させ、 キャンパス内の建物などの案内を受けながら寮まで送り届けてくれた。 バカ親切に包まれた、切っ先よいアメリカ生活のスタートになった。 私の身分を知っての親切とはとても思えない。

 大学には「留学生歓迎協会」といった婦人方の ボランティア・グループがあった(私を寮まで送ってくれた夫人もここのメンバー)。 希望者を乗用車で毎月大学周辺見学に連れ出してもくれた。

 これから約三ヵ月後、フロリダ州のタンパに旧友を訪ねた。 旧友といっても母に当たるくらいの老婆Hさんである。 彼女がご主人(日製の顧問)と一緒に一年間大甕に住んでいたとき以来の友である。 感謝祭の休暇を利用し常夏のタンパを訪問することにした。

 ある日「これを使ってタンパに来て下さい」と航空券が送られてきた。 それから一週間たった頃お金が送られてきた。 「航空券は予定より安かったから、予算の余りを上げます」と添い書きがしてあった。 この親切にはただ感動、感謝の言葉を失うほどだった。 途中テキサスのNASAを見学したとき、そこに勤めるご子息に恐縮しながらこのことを伝えると、 「お袋はそれで大満足しているんだから、喜んで貰ってください」と淡々としていた。 後日このお礼にcondominium (分譲マンション)の載っている新しい辞典をHさんに贈った。 彼女の古い辞書には載っていない新しい初めて習った思い出の単語である。

2)禁句 “I’m sorry”

 秋には学生会主催のInternational Banquet という食事会が 大学キャンパス内で一般市民にも公開し実施される。 国際親善の一行事である。 アメリカ女性委員S嬢の誘いに乗って好物の「けんちん汁」を出品することにした。 日本からは最初の参加だと喜んでくれた。 料理作り苦手の私は日本人のT子さんを口説き、 途中からA君の援助を得、どうにか具を揃え当日にこぎつけた。 会員券は参加チームに2枚配られた。 運良くT子さんは事前に購入していたので、1枚をA君にあげることが出来た。 会場にはクエート、レバノン、アフガニスタン、ブラジル、インド、ギリシャ、、、と 世界各国の料理35種類が並び、一人6種類まで食べて良いことになっていた。

 開会間もなくS嬢は私に近づき血相を変え、「みさお、出て行け」と金切り声を上げた。 誤解により激怒と直ぐ分かったが聞く耳を失った彼女に場外へ追い出されてしまった。 会員券2枚なのに3名入室。仲介をインド人男生に頼んだ。 温厚な彼は私たちが不正をしていないことを代弁してくれた。 しかし彼女は頭を下げることも I’m sorry の言葉もなくなく「最初に会員券を3枚持っていると言ってくれればよかったのに」と平然と答えた。 I’m sorry が禁句だとは知っていたがやっぱり驚きであった。 でもこの後、S嬢は罪滅ぼしをするかのように、 しおらしく彼女の料理を何度となく私の口にフォークで運んでくれた。

 自動車事故を起こした時など、自分に非がなくても日本人は気軽に I’m sorry と言いがちだがこれは絶対止めたほうが賢明である。 こんな時は「馬鹿野郎」と大声でどなると良いらしい。 I’m sorry は100パーセント自分に非があり、降参するときに用いる言葉である。

3)マンモス大学

 日本でマンモス大学というと日大、早稲田、法政などを思い浮かべるかもしれない。 しかし学生数はさておき、インディアナ大学の広大なキャンパス、 立派な諸設備は想像を絶するといったら過言であろうか。

 大学運行の寮・大学・市街地を結ぶ循環バス、隣接するゴルフ場、リスの走り回る林、 劇場、オペラハウス、スタジアム、ホテルのような寮、妻帯用の寮、 3800名を収容できるホテル・大小さまざまな集会所と 会議室・宿泊施設・数軒のレストラン・郵便局・ビリヤード室・ボーリング場・本屋・床屋など設けた 巨大な石造の学生会館、、、。大学だけで立派に一つの街を形成していた。

 バスの運転士を大学院の女子がしていることもあった。 寮、図書館では多くの学生がアルバイトしている。 500余万冊を擁する中央図書館は真夜中まで開き学生に便宜を図っている。 また同一本を何十冊も取り揃え同一課題のレポートに支障がないよう配慮されている。 癒しにレコードや絵画の貸し出しもしていた。

 クラブ・学生活動で特筆すべきことは飛行機クラブとタプロイド版日刊新聞の発行であろう。 このクラブで訓練・練習をつむと比較的簡単に飛行機操縦免許が獲得できる。 「インディアナ・デーリー・スチューデント」という新聞は学内、国内はもちろんのこと 世界のニュースを載せている堂々たる地方紙であった。

 ゴルフ場はだれでも1ドルで使用でき、 ある時友人に連れられ最初で最後のゴルフを一度だけ楽しんだことがある。 民間のサーカス団が体育館を借り興行しているのには違和感を覚えた。

4)ペアがノーマル、馬子にも衣装

 大学では毎週のように、音楽、オペラ,劇などが催されていた。 外部からプロも呼ぶし、学生自身のクラブ発表の場合もある。 常日頃音楽・芸術などに縁遠い私は渡米間もない頃、好機とばかりポップス・コンサートを聞くことにした。 劇場の窓口で奮発しミドル・オーケストラ席の予約券を申し込んだ。 すると若い女性が“Only one? Only one?”と二度も念を押す。 くどい女性だなと最初思ったが、何か急に恥ずかしくなってきた。 このことを日本人のY氏に話すと苦笑いしながら「僕もそうだった」と答えてくれた。

 アメリカでは大の男が入場券を一枚だけ買うのはどうも異様に映るらしい。 それから半月後オペラハウスに行ったときは幸いにも“Only one?”の攻撃を受けずに済んだ。 そしてある晩オペラを見に行った。 大学のオペラ劇場、一応学生の身分と高をくくりジャンパーを着て出かけた。 正装した女性観客もたくさん来ていた。

 幕間の時、他の客の後につき内庭に出て、 気懸かりな空模様を確かめ中に戻ろうとすると係員は私の入館を阻んだ。 ジャンパー姿の私を怪しい男と睨んだに違いない。 なぜ外に出たかを説明するとIDカードの提出を求めてきた。直ぐ席に戻れたが不愉快な晩であった。

 革ジャン姿で英国をドライブ旅行した時、B&Bに宿泊しようとした。 空き部屋はあったようだが、私をしげしげ眺め体よく断られたことがある。

5)離婚再婚

 一日も早く新しい環境に慣れようと思い、ぶらり街に出かけある公園で子供たちの野球試合を見た。 小学校2,3生くらいの少年の傍らに腰を下ろし話しかけてみた。 淡々と見ず知らずの私に両親が離婚していることを話してくれた。 びっくりし「それはお気の毒ね= I’m sorry to hear that 」と言うと、 なぜ「気の毒なの」と何度も私に聞き返した。

 タンパのHさんには一人息子のKさん(NASAで会った人)がいた。 当時Kさんは孫のいるれっきとしたおじいちゃん。 しかし4人の娘連れ(小学6年生が頭)の若い美人と再婚したばかりであった。 母親のHさんは未だこのお嫁さんに会ってないし、どんな女性かも知らないという。 感謝祭の日、Kさんの迎えを受け私たち二人は新婚家庭を訪れた。 初対面とは思いないほどくつろいだ雰囲気でご馳走になった。 娘の一人がちょうど誕生日だというのでHさんは1ドル紙幣を紙に包みプレゼントした。 急なことで贈り物を用意できず異例の現金プレゼントになったのであろう。

6)御礼の仕方

 滞米中、Hさんには一方ならぬお世話になったので帰国後、Hさんにビーズのハンドバッグを贈った。 すると礼状の中に布切れを入れてよこし、この生地でハンドバッグに合う服を作りましたとあった。

 この数年後、デズニーランドに近いアナハイムの老夫婦宅にホームステーした。 現地到着するまでうかつにもモルモン教徒の家庭とは全く知らなかった。 土産に持参したサントリーウイスキーのリザーブを差し出したとき、酒もタバコも飲まないことを知った。 しかし一ヶ月の滞在後、帰国し暫くすると 「ウイスキーは隣人に飲んでもらいました。 でもビンがとても素敵なので返して頂きマントルピースに飾りました」 と礼状が届いた。

 このホームステーの時、受け入れ側の役員が私に次のように話しかけてきた。 「日本人グループをまとめ、連絡を密にしてくれおお助かりです。 何かお礼したい。野球観戦それともステーキハウス?」。 遠慮なくステーキを選んだ。ある晩ご夫妻は郊外の評判の良い店に連れて行ってくれた。 この時初めて、受付で名前を名のり、 スピーカーで呼び出されるまで隣接する店で買い物などしながら時を過ごすことを知った。 予定より時間が遅くなり奥さんは時間極めのベービーシッターに電話し延長を御願いしていた。

 この1,2年前、 AFSの短期留学生としてアメリカ高校生M君を10週間自宅に預かり高校に通わせたことがある。 彼の父親は外科医であった。 母親から息子を宜しく御願いしますという挨拶状が届いたのは来宅1週間経ってから。 また帰国途中のサンフランシシコから礼状が送られてきたが、帰国後は本人からも両親からも礼状は来なかった。 これは少し異例かもしれない。 でもM君の来日は彼の自主行動、責任であり、恩義を受けたのは彼であり彼の親ではない。 別れ際にM君が私たちに心から Thank you very much と言ってくれたからもうそれで十分なのである。

 日本人はよく「昨日は(一昨日は、先月は)どうも、、、」を直訳し欧米人に礼を述べるが、 これはよしたが良い。 過去にさかのぼってくどくどお礼を言うと却って誤解されることもある。

7)開かれた研究

   日本の一流化学会社から派遣された研究者Tさんが同じ寮に住んでいた。 頭脳流出の危機が叫ばれていた最中、日本人は一体どのような所でどんな研究をしているのか興味津々。 彼は私の申し出を快諾し、彼の実験室に案内してくれた。 教授の研究費でこの設備を設置してくれ、彼は自由に使用できるとのことだった。 豊富な研究費、自由な実験・研究、当時の貧乏日本人には夢のような環境が提供されていた。

 4章に登場したY氏(会計検査院からの留学生)、会話は苦手だったが、 能力は言うに及ばず英語の実力もお見事だった。 あるとき担任教授が彼のレポートを剽窃と疑ったらしい。 彼のオリジナルと分かると、そのレポートを講義に使わしてくれと頼み込んできたそうである。 (了)