8月15日正午に天皇の「重大放送」があることは前日の午後2時あたりからラジオで流され始めたようだ。 全国民は必ずこの玉音放送を聴くようにと繰返し電波に乗せていた。 当日はもちろん授業はなく終日農業実習日。 私たちの班は真壁町のある製材所に大八車を引いて材木を受け取りに行った。 昼近かったので店主を初め私たち学生達は店の敷居に腰を下ろしラジオを聞くことになった。
聞こえてくるのはひどい雑音、やがて日本人とは思えぬ、甲高い、 変な抑揚のついた日本語が途切れ途切れ耳元に届いた。 日ごろの疲労、暑さのせいかこの玉音放送は子守唄に早代わりし、こっくりこっくり寝込んでしまった。 放送の終了と共に目を覚ましたが、誰も内容は理解できなかったようだ。
訳の分からぬまま、暑い昼下がりまた車を引き陸軍2,30名が駐屯する学校へ引き上げる。 直ぐ「日本は負け、連合軍に降伏した」旨を知らされた。 別段興奮している人も、泣いている人もいなかったように記憶している。 とにかく皆、それぞれに開放感、虚脱感、ほっとした気分を味わったのではないかと思う。 静かな残暑厳しい午後であった。
敗戦の前年、11月頃から次第に米軍機の飛来、空襲が多くなってきた。 純農村地区に住んでいたから空襲の恐怖はほとんどなかった。 でも私たち農学生は真壁国民学校の御真影の警備を依頼され、時間、天候に関係なく登校を義務付けられた。 警戒警報のサイレンが鳴り響くと8キロの道を無灯で自転車を漕ぎ真壁に向かった。 11月30日の日誌には「真夜中12時ころ警報発令、直ぐ登校、そして国民学校の警備につく。
3時ごろ空襲解除、警戒警報解除。するとまた警戒、空襲警報が再び鳴り出し、国民学校へ急ぐ。 何事もなく学校に引き上げ、出席を取り、今日の指示(午前休校、正午までに登校)を受けた。 家路につくころはすっかり夜が明けていた」といったことが記入されている。 この夜中の登校から開放されたことが私には一番嬉しかった。 空襲警報という恐怖のサイレンから開放され、灯火管制の暗幕を外せるようになったのも嬉しい限りであった。
少し脱線し、14歳時の軍事教練の一端をご披露しましょう。 10月初旬の査閲(教練の成果を将校が来校視察)に備え、夏休み以降は教練の時間に熱が入ってきた。 超チビ(私の身長は140センチ未満)の日誌には「9月13日。午前中授業、1時限目教練。 射撃練習、銃が重く支えるのに困難・・・」、また「9月21日。第1時限全校教練。1年は伏射(伏せて射撃)、 据銃(目標狙うため銃床を肩につける構え)の練習。 3年生が助手になってくれる」とある。査閲日は生憎の雨、好評を得たものの全員びしょ濡れ。
この大戦で身内に一人の犠牲者も出なかったのは不幸中の幸いであった。 嫁いだ姉は長春(瀋陽)から翌年無事帰国。長兄は水戸37部隊、次兄は入隊延期、三兄は学徒動員多賀工場で命拾い。 世界中に争いがなくなることを強く、強く希求しながら。(2005-8-16)