「八月」君の思い出 (中島 節) -2003. 9.27-


「八月」君の思い出

 「1枚の写真」により腕白盛りの小学生時代、旧友が止めどなく蘇ってくる。
以下の文章は私の写真クラブ「会報」78号(2003.10)からの転載です。 つまり「会報」の「私のこの一枚」欄に載せた小学校入学(1936)当時の写真と思い出を受けての記事です。 「八月君」は最後列のほぼ中央の白い服を着た大きな少年、私は彼の右下(先生の頭上)にいます。 当時は着物全盛時代でした。今の小学生がこの写真を見たら、 モンゴルかネパールで撮ってきたと思うかもしれません。

 彼の名前は小塙峰吉、あだ名は「八月」、訳あって3歳年上であった。 「八月」の由来は季節に関係なく一年中霜降りの夏服を着ていたからで、 悪童連は陰に回ると彼を「コバナ」でなく「八月」と呼びさげすんでいた。 彼は「八月」と呼ばれたり、いたずらをされると、目をむき出し低いだみ声で相手を一喝するだけだった。 何かにつけ「いじめ」を受けたと思うが決して暴力を振うことはなかった。 家庭事情などを考慮し自重に自重を重ねじっと堪えたのであろう。

 休日になると彼は盲目の母の手を引き隣村に行き、物乞いする母の案内役をしていた。 どんなにか肩身の狭い毎日であったろう。 また貧困、最低生活にも拘わらず子供を就学させ続けた親も実に立派である。 父親についての記憶はないから多分母子の二人暮しだったかもしれない。

 4年生になった時(?)、「ミサオ君、小塙と一緒に机に並んでくれないか」と担任教師から懇願された。 断る理由は何もない。正義感を覚えながら、それから2年間、大小コンビで一番後ろに陣取ることになった。 おとなしい彼が同席をなぜ嫌われるか、日経たずして分かった。 風呂にも入れない彼の体からは酸化した汗と垢の悪臭が遠慮なくプーンと放出されていた。 家庭訪問の折、「ミサオ君が不平も言わず同席してくれ大いに助かっています」 と親に語る担任の声が今でも耳奥に響いている。

 6年終了時の記念写真に彼は着物姿で写っている。(了)