幼・少年時代の思い出 (中島 節) -2003.11. 1-


 思い出はさまざまな感情に彩られ、走馬灯のようにとめどなく回って来る。 しかしこの回転に適度のブレーキを忘れてはならない。 今回は私の幼・少年時代の忘れがたい三つの事件だけに明かりを当ててみたい。

1.水戸線を停める?
   多分4,5歳の頃だったろう。 当時の農村には田植え、茶摘み、麹つくりなどの作業には相互互助の結い制度があった。 春もうららのある日、両親は茶摘みの手伝いに出かけた。 末っ子の私は親に着いて行った。茶畑は線路に並行し、線路から数メートルしか離れていなかった。 当然のこと大人のおしゃべりや茶摘み風景には全く興味なかった。 一人ぼっちの私は、作業現場から数メートルの狭い踏切で遊んでいた。

 すると駅を発車して3,400メートル、私の存在に気づいた汽車は警笛をならし始めた。 私は危険のないよう線路から2メートルほど離れ客車の迫って来るのを眺めていた。 「ポー、ポー」の甲高い警笛にみないっせいに茶摘みの手を止めた。 踏切の向こう側に平然としている私に向かって「危ない、さがれ」と母は絶叫した。 しかしなぜか私は吸い寄せられように母親のほうに歩き出した。 母は半狂乱で踏切に飛び出し私の手を強く握り引き返した。危機一髪、無事逃げおすことが出来た。 客車は急ブレーキをかけ停車寸前であった。

 私たちの部落は水戸線開通に伴い完全に二分され、大小合わせ踏切が6箇所もある特異な集落であった。 それだけに幼い時から客車、貨物車には慣れ親しんでいた。 駅に近いからスピードのない客車に触れたりもした。 また問題の踏切から200メートルも行くと坂道なる。 長い貨物車はこの坂道で息を切らし「ポッポ シュッシュ」を繰り返しながらゆっくり登って行く。 元気な少年たちはこの機を捉え最後尾の貨車に飛び乗り2,3分の無賃乗車を楽しんでいた。

2.スイカ、ナシ泥棒
 小学校1年生の頃だったろうか。 近所の上級生数名と一緒に夏の昼下がり林近くの西瓜畑に向かった。 そこには蚊帳をつった番小屋が建っていた。 畑に入ると間もなく「こらっ、どろぼー」と大きな声が飛んできた。 上級生の逃げ足は速く、私からどんどん遠ざかって行った。 最年少のちびっ子は捕まったらたいへんと必死になって逃げた。 実害がなかったためか、あるいは腕白少年たちに同情したのか深追いはしなかった。

 その後西瓜泥棒に参加することも企てることもなく3,4年の月日が経った。 秋のある日、お隣の3年上級生、今風で言う不登校児に誘われ梨ドロに出かけた。 家から100メートル、線路の向こう側に魅力的な梨畑があった。 梨は当時結構高級な果物で庶民の口にはなかなか届かなかった。 梨畑と稲田の間を流れる用水堀に沿って身をかがめ数メートル進み、梨畑の縁に立った。

 その時反対側の県道から「こらっ、ナシどろぼう」と大きな声が襲って来た。 自転車で下校途中の農学校生が2,3人、 視線を私たちに向けニコニコしながらペダルを踏み続け過ぎ去っていった。 機先を制された悪童二人は頭をうなだれ、こそこそ元のあぜ道を引き返した。

3.大腿部複雑骨折
 戦時中、私の通った高等小学校では部落対抗の相撲大会が行われた。 土俵とは名ばかりで、校庭の隅に作られた四角の盛土であった。 もちろん柱も屋根もなかった。私の部落には同一学年の男子はチビの私だけだった。 だから部落対抗競技の選手は力の強弱、足の早い遅いに関係なく私に決まっていた。

 忘れもしない9月20日、彼岸入り。 初秋の太陽が照りつける校庭で相撲大会は開かれた。 この時、私は高等科1年、今で言う中学1年であった。 相撲は好きでわりと強く、体格が同程度なら何とか勝てる自信はあった。 しかし、この時の挑戦相手は私より20センチも大きかった。 「ハッケヨイ、ノコッタノコッタ」も2,3秒。 相手の足に技をかけたがあっという間に押しつぶされてしまった。 「ポキン」と枝が折れるような大きな音が全身に響いた。

 私は恥も外聞もなく「脚が折れちゃった」と叫んだ。もう動くこともどうすることも出来ない。 その場に倒れたまま痛さに堪え数分はいたであろう。 前代未聞の事故だけに先生、生徒たちの驚き、周章狼狽振りは想像を絶するものがあったろう。 このあと貴重な塩を対戦ごとに土俵に撒き大会は続行されたと聞く。 また、なんの理由説明もなく部落対抗相撲大会はこの一年だけで中止になってしまった。

 この後、先ず戸板で職員室に運ばれ、 布団の敷かれたリヤカーに移され自転車に引かれ隣町のM整骨医院に向かった。 当時の県道はでこぼこの多い砂利道で、ガタンガタン振動する度の痛みは格別であった。 「痛い、痛い」はなるべく連発せず、じっと堪えることにした。 普通なら30分余で行き着くところを担任の先生は2倍近い時間をかけ、ゆっくり自転車をこいでくれた。

 X線検査の結果、大腿部が複雑骨折(骨が斜めに折れ交差)していることが分かった。 医師たちが脚を引き伸ばすときの激痛はただ事ではなかった。 「よく泣かなかったネ。頑張り強いネ」と褒められたことを今でも鮮明に覚えている。 それから針金の細長い網を脚の下に置き、患部に軟膏を塗り、 へげ板のような薄板を数枚脚に添え包帯でぐるぐる巻いただけであった。 現在のようなプラスターで患部を固定する治療法はなかった。

 それから2ヵ月半の入院生活。当時の入院は家族付添いの自炊であった。 猫の手も借りたい農繁期に入り母は病院に居続けることもままならず、 母方の親戚のおばちゃんのお世話になった。 勉強のほうはなかなか理解が出来ず涙を流しながら姉の指導をときどき受けることもあった。 寝たきりの長い辛い生活はまたとない得がたい人生体験・勉強の期間でもあった。(了)