御輿の思い出:てんのんさま
(中島 節) -2004. 9. 7-
私の生まれ育った所は水戸線新治駅に近い16軒の小さい部落であった。
自転車屋、半農の雑貨屋を除く14軒は純農家。
夏祭り季節になると近隣の子供たちは「てんのんさま」(御輿のこと)をかつぎ
賑やかに宵の一時を楽しんでいた。
私たちの部落には「てんのんさま」がなく、羨望の眼で他部落の祭りをただ傍観するだけ。
毎年祭りの季節が来ると、子供だけに淋しく悲しい日を味わった。
そんなある年、私が1年生の時、
少年団長安男さん6年生4名(私の長兄もその一人)が中心になって自前の御輿を作ることになった。
6月になると学校から帰るなり、
部落の小学生10余名全員が薬師様(私の本家の一隅に薬師如来を安置する小屋)に集まり作業を開始した。
上級生は先ず隣部落に出かけ御輿を入念に観察し設計図を作り上げた。
それからほぼ毎日のように各自工作道具、古材を持ち寄り、試行錯誤を重ね2ヶ月近くが過ぎた。
松・杉・檜の古材だけでは軽すぎるので、いかにして御輿を重くするかが大問題になった。
しかし御輿の中央に石を詰めた一斗樽を隠し置くことで決着したようだ。
また黒の塗料は墨で間に合わしたが赤の染料だけはどこにもなく、
これだけは御輿制作費の唯一の出費になった。
この製作には私の次兄、三兄も参加したがチビの私同様傍観者だった。
そして陰の協力者は本家の従兄弟・貞男さんだったらしい。
それにしても昔の小学6年生は実に天晴れなものである。
7月21日、待望のギョン(祇園祭の訛り)の宵、
ワッショイ、ワッショイ、威勢のよい掛け声で御輿は部落内に繰り出した。
各家庭挙げての歓迎を受け何がしかのお祝儀が贈られた。
今時なら子ども会の収入、あるいは参加者への配分に祝儀も消えたであろう。
しかし当時は日支事変を目前に日本は非常時体制に入っていた。
私たちは祝い金全額を喜んで国防献金に応じた模範少年団であった。
その後数年、太平洋戦争(昭和16年)が始まる前まで
少年団一致団結の証としてこの御輿かつぎは続いたと思う。
今ではこの御輿・てんのんさまは住民からすっかり忘れ去られ、
本家の薬師様に埃をかぶり淋しく残っていると聴く。
そして現在は三部落共同で御輿を購入し、毎年賑やかに祭りを楽しんでいるらしい。
この思い出を書くにあたり「てんのんさま」という言い方が気懸かりで、少し調べてみた。
すると「天王様」除疫病神のことで、
正式名牛頭天王(ごずてんおう)を祀る京都祇園社(八坂神社)、
あるいはその祭りを意味することがわかった。
そして疫病を祓うこの祭り祇園祭は7月の17日から24日まで行われる。
わが故郷の「ギョンまつり」はその中日に由来するらしいことも判明した。(了)