平均年齢70歳の「備前楯山」
   (沼田 吉治) -2004. 7. 9-


 7月4日、梅雨とは思えないさわやかな天気、 マイクロバス1台のメンバー28人は午前10時に足尾町の銀山平から登山開始、 2代将軍徳川秀忠の時代に備前からきた人が鉱床(楯)を発見したという名前の由来の山は1227mの低山、 標高差450m、約2時間の行程です。 途中遅れ始めた人のリュックを担いだとか、小さなハプニングはありましたが、 もう12時には頂上で至福の冷たいビールを飲んでいました。

 ところで、写真で分るように山頂から見下ろした足尾銅山精錬所跡周辺の山容は 亜硫酸ガスの被害で荒涼とした有様、閉山してから30年、 最近になって少しずつ植林が進められてはいますが、まだまだかかりそうです。 自然破壊は瞬時になされますが、それを回復するには長い年月がかかるということと、 そして改めて近代文明と企業と公害の関係について考えさせられました。

 この問題については同じ時代の銅山である日立鉱山との比較が良く取り沙汰されており、 地元のことなのでご存知と思いますが、この殺伐たる光景を見てもう一度振り返ってみました。 足尾銅山は明治になって古河鉱業の経営により国内一の生産料を誇る銅の町になりましたが、 それと同時に鉱害問題が起こりました。

 周辺の山、農作物の被害もさることながら、渡良瀬川を通して下流の広範囲にまで鉱害が広がりました。 地元民の抗議に対し、企業側はまともに交渉を持たず、 先鋭化した地元民との衝突、警察介入、田中正造の直訴などへとエスカレートしていくわけです。

 日立鉱山はやはり歴史は古く、戦国時代に佐竹氏の開発が最初と言われており、 明治38年久原房之助 経営になってから急速に拡大されそれに伴いやはり鉱害が発生しました。 河川の汚染は、海まで全長が短く、急流で流れきってしまう宮田川なので 流域周辺では足尾ほど騒がれなかったけれど、精錬所から排出される亜硫酸ガスによる山林、 農作物の被害は惨憺たるものだったようです。

 ただここで違うのは、久原房之助 率いる日立鉱山側の、鉱害は企業責任で解決するという姿勢と、 纏め役で入四間在住の関右馬允の粘り強く紳士的な交渉があったということです。 その結果が多額な補償からやがてはあの東洋一の大煙突による煙害の減少につながるわけです。

 今でも神峰山系の登山ルートを歩くと、尾根伝いに煙害に強いとされるハンノキの古木の並木がありますが、 それにしても足尾の山と違って日立の山はこうやって守られたということを考えると、 その周辺の緑豊かなフィールドで楽しませてもらっている私たちにとっては感無量です。

 最近M自動車の欠陥とそれに対する企業姿勢が問題になっていますが、 程度の差こそあれ企業利益と住民(消費者)の問題はまだ続いています。 公害と住民運動の近世のモデルとして評価が高まっている日立鉱山、 その地元の高校で過ごしたことを誇らしく思いたいですね。

 そんなことを考えながら、無事に下山、登山口の露天風呂で汗を流し、 車内でいつものようにアルコールを楽しみながら帰路に着きました。(了)