山入城址と佐竹の乱
   (沼田 吉治) -2005. 2. 9-



 水戸から車で1時間、 水府村(平成の大合併で常陸太田市に併合)国安部落から久慈川の支流山田川を渡り 標高差約120mを登ると要害山(186m)があり、 頂上一帯が戦国大名佐竹一族の山入城址になっています。 資料では読んだことがあるのですが、始めて2月5日に行ってきましたので、ご報告。

 佐竹氏は清和源氏の出で、いま放映中の大河ドラマの源義経などと同じ流れですが、 頼朝の挙兵に従わなかったため攻められたりしましたが、 南北朝の内乱期に足利尊氏に味方し次第にこの地に勢力を伸ばしました。 しかし跡目相続の争いから山入を本拠としていた山入佐竹氏と身内の争いになり、 血で血を洗う戦いがなんと100年も繰り広げられました。

 結局は佐竹本家が山入一族を滅ぼしこの山入城も落城するわけですが、 続く戦国時代になかなか大国になれなかったのも身内の戦いで勢力を削がれたのも原因かもしれません。 北の仙台伊達氏、南の小田原北条氏との絶えない争いが続きましたが、 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し所領を安堵され、その勢いを駈って石岡の府中大椽氏、 水戸城の江戸氏などを攻略服属させ名実ともにやっと常陸の太守になったのは1590年の頃でした。

 しかし時代の大きな流れに乗り損ねてしまい、 関ヶ原合戦で旗色を鮮明にしなかったため、 徳川家康に秋田移封を命じられたのは常陸国平定からたった12年後のことでした。 秋田移封に伴い水戸地区の美人を皆連れて行ってしまったので、 水戸はブスばかりで秋田には秋田美人がという、 真偽はともかく水戸の女性に大変失礼な話しはここからきたのはもう皆様周知のことだと思います。

 城跡は戦闘用のいわゆる山城で鬱蒼と茂った木々に覆われてはいますが、 何段もの郭と堀切が見られ攻めるのはさぞ大変だったと思われます。 史跡としては整備してないので登り口もはっきりせず、 登山道なども踏み跡とを確かめていかねばならないような状態でした。

 城址の最高点の広場(500uくらい)の日溜りに腰を下ろし、 コンビニで買い求めた鍋焼きうどんを携帯コンロにかけビールを開けて目をつぶると、 冬木立を通りすぎる風の音がいつしか城攻めの鬨の声に聞こえました。

 そこで、駄句ひとつ …… 風攻める山入城の枯野かな

 写真は、道標も何もない藪を登っていくと急に表われたただ一つの案内板と最高点の広場の風景です。 (了)
ただ一つの案内板 最高点の広場の風景