戦時中の体験 (大島 健一) -2003.11.27-
映画、テレビで育った影響なのだろうか、その一こま、一こまが
映像として刻み込まれているようで不思議です。
写真映画がない時代に生きた昔の人はどんな記憶の仕方をしたのかなと興味を抱きますが。
私は満州生まれ、幼いのに恐怖感が伴っているせいか3、4歳の頃の戦争のこと、
引揚げてきたときのことなど断片的に記憶があります。
他の人には今まで語ったことはないのですが、この際少々綴ってみたいと思います。
父との別れ
昭和20年1、2月ごろだと思います。
私が3才になるかならないかなのによく憶えているものだと思います。
確かその前に料理店に行ってご馳走を食べ、
その後うちに帰ってから母に促されて得意になって
「若き血潮の予科錬の七つボタンに桜に錨・・・」と歌いました。
暖かい暖房機の前でしたから冬だと思います。父の膝の上で大いに誉められたことを憶えております。
幼く事態を理解できず感傷じみた記憶はありませんが、これが現地で召集された父との別れだったのです。
結果論ですが父は終戦になる僅か数ヶ月前に不幸にも現地召集されたのです。
父との面会
入隊した父と面会するため、
私はしーちゃん(志津子)という女中さんの背に負んぶされて、
暑い(多分5,6月頃)長い道のりをなにやら叫びつつ行ったのを思い出します。
なぜ克明に憶えているかというと私には大変つらいことだったのです。
背に負んぶされる時に少し不自然な位置にずれてセットされたので、
歩いて背中が揺れるたびに、私の小さな急所が擦られるのです。
それが痛くて、「オチンチンが痛いよう!」と叫び、直してほしいと訴えたのですが、
もう少しの我慢と宥められとうとう目的地まで叫び続けたを憶えているからです。
父との面会では、なにやら大声で(多分、大島二等兵入ります!なんて言っていたのか)
叫んで父がわれわれの前に現れた時は、別人のように感じたことが思い出されます。
その後のことは憶えていないのですが、
ただ、私は疲れていたのか不覚にも眠ってしまい
目がさめた時には大きな白いシーツの上(椅子の上か、ベッドの上か分からない)で、
父はもういなかったこと。
父とは別れの言葉もなしであったことを憶えております。
父はその後、前線に送られ、
ほとんど戦うこともなく(銃は壊れていたり、殆ど武器らしい武器は持たされなかったという)捕虜になり、
私が小学1年(昭和23年)までシベリアで抑留生活を送る事になりました。
避難行
その日は朝から飛行機がたくさん飛ぶなあと思いました。
子供心に不安を感じていたのですが、母は買出しに行くといって、出かけました。
その内に本当に低く飛ぶ飛行機の爆音、
ドーン・ドーンという大砲の音。その恐ろしさは今でも忘れません。
少しでも、その恐怖から免れるため姉弟で押入れに入り、抱き合い、
ただひたすら母の帰りを待ちわびました。
時間にしてそれほどではなかったのだと思いますが、
母が戻ってくるまでの時間の長かったこと。
母が戻ってきて、これから避難するのだと言い、我々の身支度をしてくれました。
その時、框のようなところに足を掛け、白足袋を履いている母の姿をいかに心強く思ったか、
もうこれで安心と恐怖心がなくなったのを思い出します。
その後も母と姉たちの話を聴くと随分と怖い目に遭っているのですが、
あまり記憶にありません。母といるだけで安心していたのだと思います。
母の白足袋を履く姿は今でも脳裏に焼きついているのですが、
いつの日か、思い出話をした折にそのことを話したら母は白足袋はそのとき履いていない
何かの思い違いだろうと言っておりました。
だとすればあれは何だったのだろうと、白い手拭だったのだろうか、未だにそれは何であったのか分かりません。
何かと重なり合って白足袋になったのだろうと思います。
その後、昭和21年に日本に引揚げてくるまで、
あるいは昭和23年の父の帰還と様々な記憶が蘇ってきますが、
語り始めたらきりがないと思います。この辺で終わりにします。
ただ一言付加えるとすれば、よくもまあ、母は7才の姉を筆頭に
姉弟4人を無事に日本に連れ帰ってきてくれたものだと本当に感謝しております。
(親戚の人たちはあなたたちのお母さんは女傑だと言われておりました。)
そうでなければ、今ごろこの世にいないか、中国残留孤児です。
かく言う私とすぐ上の姉は一度は上述のしーちゃんとともに避難途中母とはぐれたのだそうです。
その時本当に親切な兵隊さんがいて我々を探し出してくれたのだとのことです。
その兵隊さんに感謝、感謝です。その話を聞いて私は強運の持ち主だと信じることにしました。(了)