「花かんむり」2001年1月9日バージョン
風が吹くたび、桜の花びらがひらひらと舞っていた。
二人の男が、土呂(今の岡崎市福岡町)の茶畑の中を歩いていた。満開の桜に目もくれず、男たちの目は、茶畑の一本一本の木に向けられていた。
十六世紀末-----武士たちの争いや民衆たちの反乱が日本各地で起きていた、《戦国時代》と呼ばれる時代が終わろうとしていた頃------この二人の男、松平念誓と上林政重は、一向宗(浄土真宗)の僧や信者たちがおこした三河一向一揆のために焼けてしまった土呂の町の復興に、心を砕いていた。
「今年の茶の出来はどうかな、政重殿」
「念誓様、これを見てください」
上林政重は、茶の葉と葉の間を広げ、まだ先端がほんの少しだけ出ている小さな新芽を見せた。
「順調に芽が出はじめております」
松平念誓も腰をかがめ、政重と同じように、指でそっと葉の間を広げて、新芽を探した。
「それはよかった。今年も、殿によい茶を献上できる」
念誓は立ち上がると、にこりと笑った。
「茶つぼ《初花》に入れて、殿の元へお届けするのですね」
政重の言葉に念誓はうなずいた。
「そう、それが私と殿との約束なのだ。この町を復興させることと、《初花》に、とびっきりおいしい茶を入れて、殿に毎年お届けすることが」
念誓は、子どもが言うように、《とびっきり》という言葉を使った。政重は、その理由を聞いてみたくなった。
「わたしが殿によってこの地に呼ばれた時、『なぜ、土呂に……』と思っておりました」
「政重殿の上林家は、宇治(京都府宇治市)で有名な茶師の家。確かに、この町とは、縁もゆかりもない方であるからな」
「はい、まさか、ここで、茶の木を育てることになるとは、夢にも思っていませんでした」
政重は、土呂に来た頃の戸惑いを念誓に伝え、そして、ずっと疑問に思っていたことを、問いかけたみた。
「ところで、念誓様、殿は、なぜ、この地の茶のことを知っていたのですか」
「それは……」
念誓が答えようとしたときに、桜の花びらが、ひらっと風に乗って二人の間に舞い下りてきた。花びらを手に取った念誓は、一人微笑み、二十年以上前の出来事を思い出していた。
※
永禄六年(西暦一五六三年)、春-----
少女は、一人、お宮の片隅にある、桜の木の下に座っていた。町の方から聞こえる寺の僧たちのお経を読む声が、美しい調べとなって聞こえてきていた。
少女の住んでいる土呂の町は、多数の寺が集まった町。少女は、人があまり来ないお宮の端にある、この桜の木が大好きだった。
桜の木の春は、忙しい。
冬の寒さが緩んでくると、桜の枝の表面に、小さな芽が出始め、あたたかい陽射しを受けて、その芽はぐんぐん大きくなっていく。先端から白い色がのぞき出し、硬いカラを抜け出した白いつぼみは、一気にふくらみ、一斉に白い花を咲かせ、一斉に散っていく。
散っていく花びらの中にいると、着丈が短く、裾のほつれた着物を着ていても、ただ束ねただけのぼさぼさ頭であっても、目を閉じれば、美しい花の精になることができた。そして、より完璧な花の精になるために、少女は桜の花びらで、かんむりを作り始めた。
落ちている花びらを拾い、その一枚ずつに、針で穴を開け、そこに糸を通す。薄っぺらで、柔らかい花びらは、途中で何度も何度も破れてしまうのだが、そんなことを気にせず、また新しい花びらに糸を通していった。
「あ〜ん」
糸を持ちあげた瞬間、いくつかの花びらが破れ、ひらりひらりと落ちていった。
「そなた、そこで何をしている?」
突然の男の声に、少女はビクッとし、息をひそめた。あまりにも熱中していたせいか、男の声が聞こえるまで、誰かがそばに近づいていたことに気が付けなかった。
かさっかさっ
少女は、音のする方に目をやった。きれいな馬を連れた若者が、ちらりちらちらと散っている桜の花びらの向こうに立っていた。上等な織りの着物、新しいぞうり、毛づやの良い馬……裕福そうな身なりの若者であった。
「花びらを集めて何しているのだ?」
少女の動きは、完全に止まっていた。しかし、しっかり握っていた糸の下の方からは、花びらが次々と抜け落ちていた。
「おい、花びらが抜けていくぞ」
少女は、手元を見た。バッと体の後ろに隠す。
「べ、別に、かんむりを作ろうと思っては……」
少女はしまったと思った。桜の花びらのかんむりを作ろうと思っていたが、それを人には言うまいと思っていたからだ。
「なんと、桜の花びらのかんむりか」
「そうではなくて」
少女が否定しようと大きな声を出し、手に持っていた花びらの連なりを大きく振り回した。
ぶるるるるっ
馬が怖がり、首を振った。若者は、すぐに馬の体をなで、馬を落ち着かせた。若者の目は、とても優しい目をしていた。
「天下を取るより、大変そうだな」
若者は、くすくすと笑った。
短い刀を腰に差し、身軽な格好をしていたが、何をされるかわからない。最近、若い女子がどこかに連れ去られることがあると、魚を売りに来るおばちゃんたちが言っていたことを、少女は思い出した。
『もしかして、人さらい?』
少女は、どちらに逃げるか考えた。
「怖い顔をするな。道を尋ねたいだけだ。この辺りに、大見藤六の館があると聞いたのだが、教えてくれぬか」
少女は、なんと答えたらいいのか迷った。
「藤六殿は、お宮の横の大きな屋敷に住んでいると聞いていたが、道に迷ってしまったらしい」
「大きな屋敷ではない」
少女は、大きな声で叫んだ。
若者は、また笑い出した。
「小さな屋敷でもよい。私は、藤六殿に会いたいのだ」
「わかりました。わたしが案内します、お客人」
少女の顔は、相変わらずこわばっていた。『お客人』と呼ぶわりには、無愛想である。
「いっしょに馬に乗らぬか」
「いいえ、お客人をご案内するのですから、私は歩いていきます。どうか、馬にお乗りください。私が馬を引きます」
「そうか」
若者は、少女の意に反することをしない方がいいと思い、すんなり、言う事に従った。
少女は、さっき座っていた所に、作りかけの花かんむりをそっと置いた。
『また、今度ね』
少女は帯に針をしまうと、サッと身をひるがえし、若者の馬に近づいた。
「よかったのか?」
若者は、自分のせいで、かんむりが作りかけになってしまったことが気になった。
「いいのです。あれは、いつも完成しないのです」
少女は、手綱をつかむと、駆け出した。
「この辺りは、緑が濃いな」
少女は、何も答えず、黙っていた。森の木々の向こうに、鳥居が見えてきた。
「すぐ側に、もう一つお宮があったのか」
若者は、目印のお宮を間違えていた事に気づいた。この町には、土呂八幡宮と上地八幡宮という、二つの八幡さまがあった。
少女のお気に入りの桜がある土呂八幡宮から、上地八幡宮の横の道を入っていくと、いくつかの家とその周りの畑が見えてきた。小さな家々を過ぎていく途中、様々な人たちの声が耳に届いた。
「霞さま、今日は、いい男といっしょでいいのん」
「霞さま、遊んでおくれよ」
「霞さま、お館さまが、お探しになっておりましたよ」
老若男女の声がかかる。霞と呼ばれた少女は、にこやかな顔で答える。
「誰か、父に、お客人が来たことを知らせておくれ」
小さな子どもたちが歓声をあげて、我先にと走っていく。
若者は、この少女がただの娘でないことに気づいた。
「もしかしたら、お前は……」
霞と呼ばれたその少女は、若者の言葉に答えようとせず、相変わらず貝のように口を閉ざしていた。
他の家と比べると、多少大きかったが、お世辞にも立派だとは言えない屋敷の入り口にたどり着くと、霞の足は、ぱたりと止まった。そして、届いたのは相変わらず無愛想な声だった。
「さあ、馬はこちらにつないでおきます。お客人は、あちらの屋敷にどうぞ」
ていねいな言葉と裏腹な冷たい態度の霞を見て、若者は失笑した。
『嫌われたか』
屋敷の入り口では、子どもたちから来客の知らせを受けた大見藤六が、これ以上開かないくらい、大きく目を見開いて立っていた。
藤六は頭を深く下げた。
「いいのだ。他の者に気づかれると、わたしがまずい」
若者は、藤六の肩にそっと手を置いた。
「霞、一席、茶を点ててくれぬか。このお客人のために」
「はい」
二人の様子をじっと見ていた霞に、藤六は、早く立ち去るようにと目配せした。
『いったい、誰なのだろう』
霞は、お湯を沸かしに茶室へ向かった。
大見家代々の主は、大見藤六という名を名乗り、上地八幡宮に奉仕していた。しかし、今の藤六の子どもは霞だけ。跡取りの心配をする周りの者に、藤六は、
「男の子どもがいても、この戦乱、生き残ることは難しい。霞は女ゆえ、何かあったら、大見の名を捨て、生き延びることができるであろう」
と答えていた。
城の殿様は、二代にわたって早く亡くなっており、今の殿様にいたっては、幼い頃からつい最近まで、人質に出されていた。殿様が戻ってくるまで、城とこの国は、外から支配されていて、家臣たちは、自ら田畑を耕して、生活しているありさまであった。
そんな不安定なこの国の行く末を案じていた藤六は、女の霞に、武道以外のたしなみをいろいろ学ばせた。この茶を点てることもその一つであった。
お湯が沸き、茶の支度がすっかり出来上がった頃、藤六と先ほどの若者が、庭の隅の小さな茶室にやってきた。
霞は、少しどきどきしていた。あの若者が、土呂のお宮で花かんむりを作っていたことを、藤六に言いはしないかと心配していたからである。しかし、藤六は相変わらず、どんぐり眼で若者だけを見続けており、そんな話はしていない様子であった。
「ほお、すばらしい」
茶室の外の竹林を見て、若者が目を細めた。
その声を聞きながら、霞は静かにお茶を点てた。こうした時だけ、霞は大人の話を聞くことができた。
「いい所だ」
若者の言葉とは裏腹に、藤六の顔色はさえなかった。霞はたくさん自慢したいことがあったが、いつも藤六は、霞が話に参加することを許さなかった。
「土呂の町は、かなり豊かに見えるのだが、どうであろう、藤六」
藤六は、答えを求められているのだが、答えかねていた。
「町は、船で送られてくる物の取引を生業としている者や、たくさんの寺院に参る人たちでにぎわっております。しかし、ほとんどの住人は、田畑を守っている者たちです。この者たちが戦に借り出されれば、そのつけは、おんな子どもにいくでしょう。季節は、日々変わっていくのです。田畑の作物の生長も同じです。待ってはくれません」
「待ってはくれぬか・・・・・・」
若者は繰り返した。
「しかしな、藤六。豊かなこの地を攻めようと思っている輩が多いのだ。その輩から守るため、城や砦はいくつあっても足りぬ。そして、その資金も人手も」
藤六は、襟を何度も直していた。こういうときは、必ず、言葉につまっている時だ。霞は、そっと若者の前に茶椀を置いた。
「どうぞ」
霞から勧められると、若者は、茶椀をサッとつかみ、慣れた手つきで椀を回し、飲み始めた。
飲み終わった椀が元の場所に戻されると、霞は頭を下げて、椀を自分の手元に戻した。
「今は、一番茶がまずい時期でございます。稲がたわわに実る頃であれば、とびっきりおいしい茶を差しあげることができます」
藤六は、霞の言葉を聞くと、目を大きく開け、口をへの字に曲げた。
茶を点てて、茶の話をしている霞は、凛として美しかった。自信ありげな霞の顔と、不服そうな藤六の顔を交互に見ていた若者は、にやりとした。
「秋なのか」
「はい、初夏に摘まれた茶葉を茶つぼに入れ、涼しいところで夏を越させると、おいしいお茶になります」
霞はそう言うと、手もとの道具を片付け始めた。
若者は、床の間に置かれていた茶つぼに、目を止めた。
「あの茶つぼは?」
「床の間の茶つぼでございますか?これは、藤六が珍しい茶つぼだといううわさを聞き、大金を出して買ってきたものです。拾われた時、食べ残しの瓜が入っていたそうですが、その瓜は熟れたまま、長く変色しなかったとか。《初花》という名です」
「ほお、それでその中にも茶を保存しているのか」
「はい。この茶つぼに入れておくと、涼しい場所で過ごした物と同じように、秋には、おいしい茶になります」
若者は、茶色の地に、イチョウの葉のような形の白い花びらが舞っているつぼを、ぼんやり眺め続けた。藤六は何も言わず、ただ、若者の横に座っていた。
茶室の中に風が流れた。霞の髪についていた桜の花びらが、ひらりと舞った。若者は、目の前に落ちたその花びらをそっと拾った。
「では藤六、また話を聞かせてくれ。よければ、私の話も聞いて欲しい。南無阿弥陀仏(浄土真宗でよく唱えられる念仏)だけで、すべて解決できるとは、私は思ってない」
若者が立ち上がり、霞の方に体を向けた。
「今日は、すまなかったな」
優しい言葉と優しい目で、霞にわびた。
「霞、そのお方を、街道の入り口まで送って差しあげなさい」
霞は藤六に言われたとおり、街道まで、若者を案内した。
馬に乗る若者をちらちらと霞が振り返ると、若者は、馬の上から優しく笑みを返してくれた。
『この人は、いったい何者なのだろう』
父のことを《藤六》と呼び捨てにするこの若者のことを知りたいと、霞は思った。
「お前は、この土呂の町が好きか」
規則正しい馬の足音が響く中、霞の頭上から、きりっとした若者の声が響いてきた。
「は、はい、好きです。この美しい森と活気のある町が大好きです」
「そうか……」
若者の伏せた目が、なにやら寂しそうであった。霞はその顔を見ると、ますます若者に直接聞くことが出来なくなった。
そうこうしているうちに、街道と交わっている辻に着いてしまった。
「おいしい茶をありがとう。秋に、茶つぼの中の、とびっきりおいしい茶が飲めるのを、楽しみにしておるぞ」
「はい」
元気に答えた霞の声に、気を良くしたのか、若者は、ぎゅっと足のももに力を入れて、馬を勢いよく走らせた。霞は、若者の姿が見えなくなるまで見送った。
藤六は、茶室の片付けがすんでも、日が傾いても、ずっと茶室の同じ所に座っていた。霞は、家事をしながら、父の様子を何度も何度もうかがった。
『あの若者は誰だろう』
結局、霞は、この若者のことを、藤六から何も教えてもらえなかった。
夏、森のセミの鳴き声は激しい。毎日聞こえているお経に、セミも声を合わせているようだった。
『セミは、お坊さまたちと競ってるのだ』
霞は、そう思っていても、日の出ている間中、ずっと途切れることがないセミの声に、うんざりしていた。昼寝をしていても、暑さとセミの声にうなされそうだった。
霞の嫌なことは、セミの声だけではなかった。
寺がいくつも並んでいる土呂の町を歩いていると、腰に刀を差した男たちと出会うことが多くなった。寺に参りにくる人たちに混ざって、何とか一旗上げようと集まってきた侍たちだ。そんな輩が、大手を振って道を歩いているのを見ると、霞は、腹が煮え繰り返りそうになった。
「何さ、ホントの戦が始まったら、一番最初に、この町から逃げ出すだろうに」
霞は、戦うことだけ考えている侍たちとすれ違うと、その背中に向かって、思いっきり舌を出した。しかし、霞の嫌な気分は、そんなことをしても消えることはなかった。
藤六の館にも、毎日いろいろな男たちがやって来るようになった。藤六は、
「余計なことを心配するな」
と、霞には何も話してくれなかった。藤六自身も、寺社の方へ出向くことが多くなった。
「戦が始まるの?」
そんなことを子どもたちが口にするようになった。大人たちは何も答えてくれない。しかし、霞は、子どもたちからそういう質問を受けると、必ず答えてやった。
「大丈夫。土呂のたくさんのお寺さんには、たくさんのお侍さんたちがお参いりに来ている。何かあったら絶対、守ってくれる。それに、二つのお宮さんの神さまも守ってくれる」
霞の話を聞くと、子どもたちはホッとし、また、元気よく遊びだした。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
心落ち着かせようと、霞は手を合わせ、念仏を唱えた。霞にできることは、戦にならないように、ただ祈るだけだった。
暑さがやわらぎ、季節は、足早に変わっていった。
稲穂が垂れ、その穂先が涼しい風に揺れ始めても、あの若者は来なかった。
霞は、幡豆(今の幡豆郡幡豆町)にある、死んだ母の実家に行くようにと、藤六に言われた。
「おばあ様の体の調子がよくないのだ」
幡豆の屋敷は、海の側にあった。母が亡くなってから、霞は足が遠のいていたが、藤六は霞の母方の祖父母を、ずっと大切にしていた。
「春までの間、ゆっくり幡豆のおじい様の屋敷で、おばあ様の世話をしてきて欲しい。私は、寄り合いが多くて、出かけることができない。頼むぞ、霞」
霞は荷物をまとめ、子どもたちに別れを告げた。
「霞さま。早く帰って来て、アケビを採りに行こう」
「うーん、今年は無理だけど、来年は、きっといっしょに行こう」
「約束だよ。霞さま。俺の弟に、食べさせてやりたい」
「そうだね。お前さんの弟は、まだ、お乳だけ飲んでる赤ちゃんだけど、来年になればきっと食べることができるよ」
「霞さま、帰ってきたら、オオバコで引っ張り相撲をしよう」
「ああ、いいよ」
「霞さま、春になったら、セリやつくしを採りに行こうね」
「そうだ、ヨモギも採りに行こう」
霞は、子どもたちと、たくさんの約束をして、土呂をあとにした。
「ばあさんも、お前の嫁入り姿を早く見たいといっていたが、その気持ちがよくわかる」
迎えに来てくれた祖父は、霞が大きくなっていたのをとても喜んでくれた。しかし、祖母の体の調子は、あまり良くなく、動かなくなった足は、ずいぶん細くなっていた。祖母は、始終霞にいろんなことを話しかけてきた。その時の祖母の顔は、本当にうれしそうだった。
『おばあ様が、私をとても必要としている』
霞の心の片隅にあった、すぐ土呂に帰ろうという計画は、吹き飛んでしまった。
霞は、何年ぶりかの海の側の屋敷で、海の香りを楽しんだ。
ごろんと転がり手足を伸ばし、大きく息を吸う。藤六が見たら、きっと、目の玉が飛び出しそうなぐらい大きな目をして、雷のような声で怒鳴るだろう。そんなことを気にせず、胸いっぱいに潮風をため、思いっきり息を吐いた。その動作を何回も繰り返すと、体の中が、海の匂いでいっぱいになり、久々にすがすがしい気持ちになった。
しかし、のんびり過ごせたのもほんの数日の間だけ。幡豆の町は、大騒ぎになっていた。
「佐々木(今の岡崎市佐々木町)の上宮寺が、蓄えていた米を取られ、一向宗の寺である本証寺や勝鬘寺にも呼びかけて、米を奪い返す計画を立てているそうな」
「東條(今の幡豆郡吉良町)の城に、吉良義昭が、一揆に便乗してこもったとか」
「いいや、そればかりか、土呂の本宗寺にも多くの門徒(一向宗の信者)の侍たちが集まって、岡崎の城に向かう準備をしているそうだ」
幡豆の町に買い物に来ていた霞は、人々の噂話を聞いて驚いた。本宗寺……それは、土呂八幡宮の前にある大きなお寺。
『あの町が戦場になる!』
そう考えただけで、霞の足は震えた。しかし、ここを離れるわけにはいかない。足の悪い祖母を置いてはいけない。ここも、戦場になるかもしれないのだ。
霞は、夜、一人布団の中で、祈った。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
『どうか、戦になりませぬように』
ある日、幡豆にいた霞の所に、藤六の屋敷で働いていた男がやってきた。
「霞さま、土呂から上和田(今の岡崎市上和田町)へ、藤六さまたちが出発なさるそうです。藤六さまから、霞さまに、決して土呂の町に戻ることないようと、申しつかっております」
霞は、屋敷の周りに住んでいた子どもたちが心配だった。
「土呂の町は大丈夫です。たくさんの寺には、門徒の侍たちがたくさんいますから」
「どうしても、戦は避けられないの?」
「岡崎の城に帰ってきた若殿は、この三河を統一するために、私たち門徒の力を恐れています。私たちは、阿弥陀如来様を信じることを止められません。お館さまもそうおっしゃっておりました」
霞は、肩を落とした。この三河の国は豊かゆえ、いつも他の国から狙われ、戦場になっていた。若殿の岡崎帰還後、これから、皆で三河の国を守っていかねばならない時に、まさか、こんな戦が起こるとは……
男は、幡豆の情報を探って、土呂に帰るという。
「無理をなさらぬよう。父には、『戦が始まらないことをいつも祈っています』と、伝えてください」
霞は、小さい頃、藤六が弓の腕自慢をしているのをよく聞かされた。それは、人に対してではなく、動物を狩る時や神事のときの話であった。人に向けて弓を放つ父の姿を思うと、霞の心臓は、どくどくと音をたてた。
やがて、幡豆の東條城は攻め落とされ、土呂からの一向宗の軍勢は、上和田で、殿様の古くからの家来、大久保一族の兵に翻弄されて、なかなか前に進めないといううわさが、霞のもとに流れてきた。
年が明けても、土呂からの一向宗の軍は、城からの軍勢と何度も何度も戦かっていた。
例の藤六の屋敷で働いていた男が、ほうほうの体で、幡豆の屋敷に逃げてきた。
「霞さま、藤六さまが、藤六さまが……」
男は、泣き崩れた。
「小豆坂(今の岡崎市美合町)での戦いの前日から、それはそれは、藤六さまは、勇んでおりました。得意の弓矢で、先頭を切って攻めて行かれて……」
霞の頭の中では、見たことのない男たちが、武器を振り回していた。そして、その中の一人が突き出した槍が、藤六の鎧のすき間に吸い込まれるように入っていった……。
「我々は、若殿さまを先頭とした城からの軍勢によって、一気に押し返されてしまいました」
「それ以上言わないで」
霞は耳を押さえた。
霞は、土呂の町に、もう帰れないと思った。そして、あのがんこ者の父に、もう会うことができないと思うと、涙が止まらなかった。
それから、毎日のように、霞の耳には、聞きたくない話が入ってきた。
劣勢の土呂の一揆軍は、和解の協議の申し入れをしたものの、城からの兵たちに不意打ちをかけ、逆に、土呂の本宗寺内に攻め込まれてしまった。この戦いで、町に火が放たれ、土呂の町は、あっという間に燃え尽くしてしまったという。
霞は、藤六の館も焼けてしまったと聞き、もう心を抑えることが出来なくなった。祖父母にすぐ帰ることを条件に許しをもらい、一人、土呂の町に戻った。
「ああ」
霞は息を飲んだ。
たくさんの寺があった町の中心は、灰と瓦礫だけになっていた。煙がくすぶり続け、焼けた地面は、冬だというのに、炎の熱のせいで少し温かかった。普段は、建物に隠れて、少ししか顔をのぞかせていなかったお宮の森の木々が、いつもより青々と感じられた。
霞は、走った。着物をたくし上げて走った。そして、土呂のお宮の階段を一気に駆け上った。
そこには、戦から逃れた村人たちがたくさん集まっていた。霞は見知った子どもがいないか探した。小さな人影は、大人の影に隠れているのか、なかなか見つけることができない。霞は、一人ずつ声をかけながら探していくと、お宮のすみにある鳥居の下で、赤ん坊を抱えた女を見つけることができた。それは、霞と仲のよかった子どもの母親だった。ちょうど、赤ちゃんに、お乳を飲ませていた。
「よかった、他の子どもたちは……・」
霞は驚いた。赤ん坊は、すでに息をしていない。目を閉じ、ただ肉のかたまりになっていた。しかし、女は動かぬ赤ん坊に、何とか乳房をくわえさせようとしていた。
「お松さん、しっかり。赤ちゃんは、もう死んでいるよ。お松さん」
霞は、必死に声をかけ、お松の体を揺さぶった。
「お松さん」
お松の目から、涙がこぼれ始めた。お松は、だんだん、現実を受け入れはじめ、気を取り戻していった。
「火の手が早く、皆、一所懸命に走って逃げました。土呂お宮に駆け込み、私が後ろを振り向いて見たときには……。後ろにいるはずの子どもたちが、誰もいなくて……」
お松の言葉が途切れ、すすり泣きの声が続いた。
『なぜ?なぜ、子どもたちが……』
助かった者は、遺体をお宮の奥へと運んだ。そして、穴を掘り、その中に、次々と運んでいった。運ばれてきた遺体の中には、小さなものがいくつかあったが、誰なのか判別できない状態だった。霞は、穴の中に入れられていく遺体に手を合わせた。
生き残った男たちは、この先どうしようかと話し合っていた。中には、まだ、戦うつもりの者もいたが、もうほとんどの人々は、戦う意欲をなくしていた。
「若殿様は、許して下さるのだろうか」
誰かの言った言葉で、急に静かになった。皆の心は不安でいっぱいだった。
城の兵がいつ来るのか怯えながら、お宮の境内で火を焚き、夜を迎えた。
動かなくなった者は、どんどんお宮の奥へと運ばれていった。着の身着のままで逃げてきた村人が凍えないようにするため、服や布団は、生きている者に渡されていった。
お松は、母親を亡くして泣いていた子どもを抱きしめていた。その子どもを抱いているぬくもりで、やっと眠りにつくことができたようである。しかし、霞は眠れず、暖を取るために焚かれた火を見ながら、いろいろ考えた。
『こんなことを繰り返して、本当に戦のない世が来るのだろうか。家を失って、家族まで失って……』
布団や服や食べ物を奪い合う、小競り合いの声が聞こえる中、霞は、自分の両腕で、自分の体をぎゅっと抱きしめた。
夜がふけ、周りが少し明るくなると、霞はお宮を後にして、藤六の屋敷に向かった。うわさ通り、そこも、すべての物が燃えてしまっていた。茶室もどこに建っていたかわからぬほど、きれいに焼けていた。
しかし、館から離れていた茶畑の一角だけは、白い霜が降りていた。
霜を手で払うと、まだ燃えてない茶の葉が出てきた。
『生きている』
霞は、その木の葉についていたすべての霜を払った。
『まだ、生きている』
霞の目から涙がこぼれ落ちた。霞は、涙を袖で拭き、屋敷の中で残っている物はないかと探し始めた。
はいつくばって、ていねいに燃え残った木々や灰をかき分け探してみた。いくら探しても、何も出てこなかった。最後に、茶室があったあたりをさぐってみた。炭と化した木を一つ一つ引きずりながら移動させ、霞は、残った木々の山のすき間に頭を突っ込んだ。そして、できるかぎり手を伸ばしてみた。
こんっ
爪が、固い物に当たった。霞は、そのままずんずん進んだ。頭に木ががつがつ当たり、髪の毛が引っかかる。指先が当たった硬い物を手で抱き込むと、今度は、体に寄せて抱きかかえたまま、膝を前後させ後退した。勢いあまって体がそのまま後ろに転がってしまったが、霞は、しっかり抱きかかえたまま、一緒に転がった。
霞は、真っ黒になっていた表面を、着物の袖で、こすってみた。次第に、白い蓮華(ハスの花)の花びらの模様が一つ、また一つと浮き出てきた。藤六が大事にしていた茶つぼ《初花》の模様だ。
『お前も生き残れたんだね』
霞は、ぎゅっと抱きしめた。
灰で汚れた霞の顔が、大きくゆがんだ。霞は大きな声で泣いた。誰かに見られることも聞かれることもない。灰と混ざった黒い涙が、初花の白い模様の上に、ぼたぼたと落ちた。
涙が枯れるぐらい泣いたあと、霞は、つぼを抱え、お宮に戻った。お松も、その横で寝ていた子どももすでに起きていた。お松は何も聞かず、霞の顔をそっと拭いてくれた。側にいた子どもも、霞を何とか元気づけようと、食べ物や木の葉やいろいろなモノを運んできてくれた。
『みんな悲しいのに……』
霞は、上手く御礼の言葉を口に出すことができず、ただ、つぼを抱えているだけだった。
「これ、きれいだよ」
目の前に差し出されたのは、小さな梅の枝だった。白い花がぎっしりと並んでいた。
『ああ、もう、梅の花の季節になっていたんだ』
霞は、秋から心落ち着かず、周りの風景にまで目が行かなくなっていたことに気づいた。
「この梅の花は、どこにあったの」
霞は子どもに尋ねた。
抱いていたつぼをお松に預け、小さな手に引かれながら、霞は、お宮の西側へ向かって歩き出した。小さな足取りに合わせて坂を下ると、竹やぶの向こうに梅の木が何本も並んでいた。風が吹くと、はらはらと花びらが風に乗って散っていた。霞は、お宮の桜が、同じように舞っていたことを思い出した。
『かんむりを作ろう。それを持って、土呂の者がもう戦いを望んでないことを、お殿様に伝えよう』
子どもを帰すと、霞は、着物の帯の間から、針と糸を取り出した。そして、一番大きな梅の木の下に座り、落ちている花びらに針を通した。冷たさで、手が動かなくなると、霞は、指先に息を吹きかけたり、両手をこすり合わせて温めた。一枚一枚、花びらを通しながら、霞は、土呂の町を思い出していた。
いつも聞こえていたあのお経の声は、もう途切れてしまった。いろいろな店が建ち並んでいた大通りには、一軒も店がなくなってしまった。大好きだったお饅頭屋さんも、醤油屋さんも呉服屋さんも。父藤六も、もうどこにもいない。藤六に怒られながら、毎日手入れしていた茶室も、村の子どもたちの笑顔も、もう見ることはできない。
霞は、涙が出そうになったが、泣くまいと目を何度もぎゅっと閉じて、我慢した。
日が傾き、風が冷たくなってきた。霞は息を止めて、ゆっくり糸を結んだ。
『ふう』
今まで一度も完成したことがなかった花びらのかんむりが、やっと完成した。
霞は、そっと手のひらにかんむりを乗せると、落とさないように、傷つけないように、体を丸め、風を防いだ。そして、北へ向かって歩き出した。
城の近くの川べりは、川を走る風が強かったが、霞は、強い風が吹くたび足を止め、風をやり過ごした。やっとたどり着いた城の門の前には、城の兵士たちが検問していて、簡単に入れないようになっていた。
『よほど信頼できる人ではないと、お殿様のところまで届けてもらうことができないだろう』
霞は、辛抱強く待った。少し暗くなり体が冷たくなってきたが、両手にかんむりを乗せたまま、じっと待った。そうして、城内へ入って行く人をじっと見ていた。
そこへ馬に乗った一人の男が、門に近づいてきた。霞はその男の身なりを、上から下までじっくり観察した。
『この人に頼もう』
男の鎧は、今まで門を通っていった者たちの中で、一番立派であった。霞は、位の高い人に違いないと確信した。その男の面立ちが、藤六を訪ねてきた若者と似ていたことも、霞が選んだ理由の一つだった。
霞は、走って近寄った。
「お願いでございます」
男には、霞の声が届かなかったようだ。霞の前をどんどん通り過ぎていった。
霞は、震えながら、もう一度、ありったけの力を込めて、声を出した。
「お願いでございます」
馬に乗った男が振り返った。霞は駆け寄った。
「お願いでございます。このかんむりを、お殿様に差しあげたいのです」
男は、じっと、霞の方を見ていた。その目は、霞の両手の上の花かんむりにくぎづけになっていた。
「お願いします」
霞は、男に両手を差し出して、深々と頭を下げた。
男は馬から下りた。
霞はさらに近づき、さらに頭を下げた。
霞の手は、透き通るほど青白く冷え、爪の中には土が入り込んでおり、着物には、少しはたくだけで、ほこりが舞い上がりそうなほど、土や灰がたくさんついていた。その姿を見て、男は、一瞬手を伸ばすのをためらった。しかし、霞の差し出した花かんむりを見ると、
「いいだろう」
と男は、胸元から白布を取り出した。自分の手のひらに白布を広げると、花のかんむりをその布の上に置くようにと、霞にうながした。
かさっ
花かんむりが男の手の上に乗った。男は、花かんむりが乗った布の端を器用にたぐり、花がつぶれないよう、そっと布の先をつまんだ。
霞は、その瞬間、今までピンと胸に張りつめていたものが溶けていくのを感じた。
『ああ、この人に渡せてよかった・・・・・・』
霞は、ホッとした。
「ありがとうございます」
霞は、頭を一段と深く下げた。
「どこから来たのだ?」
男に聞かれると、霞は、頭を下げたまま答えた。
「土呂からです」
男はうなずくと、片手で布をつまみ、もう片手で馬を引いて、門の中に入っていった。
霞は、もっとたくさんの言葉を言おうと思っていたが、この侍が、霞の作ったかんむりをていねいに扱ってくれたことだけで、充分満足していた。
『こういうお侍さんが、お殿様の家来なのだ。お殿様も、きっと良い人に違いない』
男の背中が見えなくなると、霞は、体の向きをくるりと変えた。
『おじい様おばあ様たちの待つ、幡豆に帰ろう』
「一揆に参加した者の中には、幡豆や桜井(今の安城市桜井町)や深溝(今の額田郡幸田町深溝)に逃げ込んだ者がおると聞いています。土呂のように、和睦を申し込んで来ても、いとも簡単に裏切られるのがおちです。こうなったら、一気に攻め込んで、一向宗の奴等を全滅させましょう」
和睦の条件の話し合いの中、荒々しい声が響いた。しかし、この城の主も、そこにいた家来たちも、黙ったまま、その話をじっと聞いていた。この中には、反対したくても、口を閉ざしている者がたくさんいた。若い城主は、そのことに気づいていた。
彼らの中には、今でも一向宗を信じている者、または、彼らの肉親が一向宗の信者である者がいた。城の軍に入るため、一向宗から改宗した者もいた。家族や友がどのような罰を受けるのか、心配顔で聞いている者もいた。皆、複雑な思いでこの戦いに参加していた。
その話し合いの最中に、遅れて到着した松平親宅が入ってきた。その右手は、白い布の端をつまみ、左手のひらで、その底を支えていた。
「殿、遅くなりました。申しわけございません」
親宅はそう言うと、城主の前に進み出て、布を乗せた左手を差し出し、布をつまんでいた右手の指先を離した。
さわっと、布が広がり、親宅の差し出す布の上に、白い花びらの連なりが現れた。親宅は、右手を下からそえ、まるで、宝物でも献上するかのようにうやうやしく、若い城主の前に差し出した。
花びらは所々変色していたが、ぎっしりとつまった、真っ白な花びらでできたかんむりだった。
「これは?」
「先ほど、土呂から来た一人の女子が、殿にと、持ってきた物でございます。味方同士で殺し合いをしなければならない、この殺伐とした戦の中、このような風流な物を見、殿にすぐ、お見せしたく、お持ちしたのです」
「これを持ってきた女子は」
「先ほど、これを私に渡すと、帰ってしまったようです」
「すぐ連れ戻せ、このかんむりの話を聞きたい……いや、いい」
若い城主は、かんむりを持ち上げた。ひらりひらり、花びらのいくつかが、床に落ちていった。
『ああ、このかんむりは……』
今すぐ、追いかけたい気持ちになった。
『私が彼女のためにできることは、もっと別なことではないか』
もう一度かんむりを見つめて、自分の気持ちを落ち着かせた。
『彼女は、彼女の敵である私に、このかんむりを作ってくれたではないか』
ぎゅっと体に力を入れると、若い城主は、部屋に座っている家臣たちを見渡した。
「一揆側との和睦の件、条件は、二つ。一揆に加わった者すべて許し、以前と同様、我々が勝手に寺の中に入っていかない、ということにする」
城主が答えを出すと、周りがざわめきだした。
「殿、寺の者や門徒たちが、また強く抵抗することがあったら、いかがいたしましょうか」
「我々は、あえて、彼らを受け入れるのだ。彼らにも、我々を受け入れるための努力をしてもらう」
「では、彼等が、受け入れることを拒否したら……」
「その時は、この三河から出て行ってもらおう。何も、戦いだけが解決の道ではあるまい。どうだ、親宅」
白い布の上に残った花びらを見ていた親宅は、主の言葉に答えた。
「宗教というのは、人の心を安らかにし、人を豊かにするものだと、私は思っております。一向宗によって、苦しむ人々が多いのなら、一向宗は、真の宗教ではないでしょう」
和睦の条件は決まり、不満をもつ者もいたが、若い城主にすべての判断を任せた。
皆が去ったあと、城主と親宅の二人は、部屋に残っていた。
「女子を追いかけなくて、よろしかったのですか。家康さま」
親宅は、ずっと花かんむりを見つめている城主の松平家康(後の徳川家康)に、声をかけた。
「ああ」
力ない家康の声が戻ってきた。
花のかんむりを見た瞬間、家康が顔色を変えたことを、親宅は知っていた。家康の様子から、この花かんむりの作者を知っているに違いないと、親宅は思っていた。
家康は、そっとかんむりを胸に抱きしめ、目を閉じた。
「親宅、土呂の茶は、とてもおいしかったぞ。もし、あの町が復興することができるのなら、私は、とびっきりおいしい土呂の茶を飲みたい」
何も言わず、ただ静かに話を聞いている親宅に、家康は、霞という名の少女から、土呂の茶を点ててもらったことを話した。
「霞には、悲しい思いをさせてしまった。いくら太平の世を作るためとはいえ、戦をすれば何の罪のない人々を巻き添えにしてしまう。そのたくさんの巻き添えになった人たちの思いを果たすため、我々は、戦いを続けるしかないのであろうか?」
「難しい問題ですね。殿」
家康は、親宅の言葉にうなずき、花かんむりを優しくなでた。
「せめて、このかんむりに恥じない君主にならねば」
親宅は、その後、仏門に入り、名を念誓と変えた。しかし、再び家康に召し出され、土呂と関わるようになる。家康から、土呂の町の再興に尽くして欲しいと請われたからだった。一揆後、土呂の町では、定期的に市が開かれるようになり、念誓は上林政重とともに、土呂の茶の生産に力を入れ、市を安定させることに力を注いだ。
そんなある日、土の中から珍しいつぼが出てきたと、念誓のもとに、一つの茶つぼが届けられた。つぼの表面に、白い花びらが舞っている、茶つぼ《初花》である。念誓がこのつぼを家康に届けると、家康はことのほか喜んだ。すでに、天下に名を知られるようになった家康は、念誓に何か褒美を取らせようとしたが、念誓はがんとして受け取らなかった。そこで家康は念誓と約束を交わした。
「念誓、土呂の茶を届けてくれぬか。とびっきりおいしい土呂の茶を、この《初花》に入れて」
※
「とびっきりおいしい茶ですか」
念誓の話を聞いていた政重が、言葉を繰り返した。
「きっと、この地の茶を飲むたびに、殿は、あの時の決意を思い出されているのでしょう」
念誓は、手のひらの上の花びらを、そっとなでた。
「念誓様、花かんむりの少女は、どこへ行ってしまったのですか」
「さあ?《初花》を私に届けてくれた者が誰なのか、それもわからぬままなのだ」
念誓は、手のひらの花びらをつまんで、風に合わせて、指を広げた。指から離れた花びらは、青く澄んだ空へ、高く飛んでいった。
「今年もとびっきりおいしいお茶が出来ますように」
霞は、小さな新芽に声をかけた。
祖父母の家の近くに小さな茶園を作り、屋敷の焼け跡に残っていた茶の木を植えた。そして、その茶の木を育て、増やしていった。
大事にしていた茶つぼ《初花》は、手放した。霞にできる唯一のお礼として、藤六の館跡に作られた茶園に置いて来た。
『土呂の町を復興させてくれてありがとう』
「霞さ〜ん、土呂の市にいっしょにいこまい(行こう)」
市に出かける漁師の家の女たちが霞を呼んだ。茶畑の下には、たくさんの海の幸を積んだ車と女たちが待っていた。霞は、茶葉をいっぱい詰めた風呂敷を背負うと、茶の木の間を急いで駆け下りた。
終わり
*上林政重について
上林政重は、後に宇治へ戻り、茶師として「竹庵」の名を名乗ります。その時期は、不明とされていますが、本能寺の変(一五八二年)の直後、堺にいた家康が三河に戻る途中、家康を送ったという記録があり、このときすでに宇治に戻っていたのではないかと言われています。今回、この話に出てくる茶つぼ「初花」は、一五八三年に、松平念誓より家康に献上されているので、若干年数が合いません。しかし、上林政重が関ヶ原の戦い(一六〇〇年)で亡くなるまで、土呂の茶を家康に献上していたことから(その後は、宇治の茶になった)、岡崎と宇治を行き来していたと推測しました。また、名前も、三河にいるときは、「政重」を名乗っていたので、そのまま「政重」の名を使用しました。
参考文献:「新編福岡町史」