「蝉使い」

 僕は、何もかも嫌になって、下宿を引き払った。仕事は、上司と意見が合わず、そして、だんだん合わせることもできず、つい、
「母の体の調子が悪いので、故郷へ帰りたいのですが……」
と口からでまかせが出ていた。もちろん、母は、ピンシャン元気である。
「そうか、親孝行するんだな」
と簡単に退職の話が進み、昨日の夜、歓送会も滞りなく済んだ。僕は、未だ両親に、仕事を辞めたことを話していない。しかし、明日、大きな荷物が送られてくれば、ばれてしまうことは明白で、僕は、とにかく言い訳を考えていた。
 なんと言って家に帰ろうか。そんなことばかり考えて、家への道を歩いていた。
 セミの声がうるさくなってきた。家が近くになった証拠だ。背中まで汗でびっしょりになってきた。

 家の近くには森がある。鎮守の森である。僕は、幼い頃、一人で虫を取ったり、木に登ったりして遊んだ。近所の同じ年頃は女の子ばかりで、森は、おままごとに疲れた僕にとっての、大切な隠れ家になっていた。
 夏になると、僕はひたすらセミを獲った。そのために、朝早く必死になって宿題を片付けた。森の木はたくさんあるが、セミがたくさんとまっている木は限られていた。僕は、朝、宿題を終えると、網を持って森へ向かった。クマゼミの『シャーシャーシャーシャー』の声が僕を迎えてくれる。そして、大量にセミをとまらせている木々を順番に回って、クマゼミやミンミンゼミやニイニイゼミを中心に獲った(しかし、目的と結果は必ずしも連動していなくて、そのほとんどは、アブラゼミだった)。
 昼は、午前の疲れを取るために、ゴロゴロした。その後、おやつを食べてから、もう一仕事した。僕の中の地図に従って、セミをもう一度獲りに行く。セミたちは、午前中仲間が捕まったことをすっかり忘れ、同じ所にとまっていた。
西の空がオレンジ色っぽくなる頃には、カゴはセミで一杯になった。そして、家に帰る前に、獲ったセミをすべて空に放した。セミは飼うものではない。すべてのセミを放し終えると、僕は、網を肩にかついで、走って帰った。何も残らない……いや、満足感があった。あんな満足感は、その後あっただろうか……
 
「お兄ちゃん、僕が獲る!」
 子どもの声がする。昼前の、暑い盛りに遊ぶ子なんか、もういないと思っていた僕は、驚いた。大きな網(きっと、母親が作った布製の特注ものの深い網!)と虫かごを持っている男の子二人だった。
「この木だ。この木の、ほら、あの枝の下」
 大きい少年が、頭一つ以上小さい弟に指示する。
「そこが、ニイニイゼミがよくいる場所だ」
(ほう……)
 僕は感心した。彼も、小さい頃の僕のように、セミ獲り名人のようだ。
 少しばかり、僕は、彼らの後ろで、そのセミ獲り技術を堪能させてもらうことにした。しかし、弟くんはセミに網(といっても、布製なので中身は見えない)をかぶせるが、その後どうしたらいいのかわからず、そのままの状態でいた。セミ獲り名人の兄は、なんと説明したらいいのか、言葉に出せずにいた。
「網を少し下にずらして、セミを網の底に落とすんだよ。そしたら、手首をくるっとして、網の途中をねじるといい」
 僕は、ついに声を出してしまった。
 弟くんは振り返った。意味がわからないらしい。僕は、弟くんの後ろから、網の捧をつかむと、ずりずりと木の皮をなでるように下に引っ張った。特注の深い布製の網の底にセミが落ちる。
「くるっとするんだよ」
 セミ獲り名人が口を開いた。
 僕は、弟くんに声をかけながら、棒をくるっと少し回した。網の入り口のワイヤーが布でできた網の部分を抑え、網の中でもがいているセミは、外へ出ることが出来なくなった。
 そのまま、そっと捧を倒し、棒をつたいながら、少しずつ白い布の網に近づいていく。
 残念ながら、セミ獲り名人の弟は、セミをつかめないらしい。僕は、網の入り口から手を入れて、セミの胴体をつかんだ。
「ビィビィビィビィ」
 セミは、最後のもがきで大鳴きをする。
 僕は、弟くんのカゴにセミを入れた。顔を上げるとセミ獲り名人と目が合った。
 セミ獲り名人は、僕の実力を認めたようだ。何も言わない。
「あそこの木の、あの部分。あそこは、アブラゼミがたくさんとまるところなんだ。あそこなら、弟くんも獲りやすいよ」
 僕は、得意になって話し出してしまった。
 無言で兄弟がついてくる。僕は、セミ獲り名人の、そのまた上の師匠になった気分になった。
 目的地に着いて、木を眺める。でも、僕が記憶したところに、セミはいない。セミが鳴いているのは、その隣の木だった。
「あそこだ、タケシ」
 無口の兄が、弟に声をかける。
 指の先が指している木には、セミが3匹固まってとまっていた。
 今度は、セミ獲り名人がさっきの僕の役割をして、弟くんとセミを獲りはじめた。しかし、弟くんのイマイチ理解していない様子に、名人は網を完全に取り上げて、3匹を網の底に落とした。
(やった!)
 喜びの次の瞬間、1匹がぴゅっとおしっこを我々の方に向けて発射し、逃げていってしまった。
「ちぇっ」
 名人の残念そうな、小さな声が聞こえた。アブラゼミだが、3匹獲ることが、名人のプライドなのだ。
「あっちへ行こうか」
 僕は、次なるポイントへ歩き出した。名人も弟くんもついてくる。
 大きな桜の木。この木には、クマゼミがたくさんとまっていた。高い位置にである。だが、少し気の抜けたヤツが、日に1匹はいて、低い所にとまっていた。獲物はそいつだ。
 僕は木を見上げた。クマゼミはいない。高いところにもいない。おかしい。この木は、クマゼミにとって、大人気の木なのに。
「あっち」
 今度は、名人が歩き出した。道順は、僕の子どもの頃の道順と同じだが、セミの好きな木とポイントは一致していなかった。
「あそこ」
 その木は、確かに二十年前にもあった。でも、その時は、僕の地図上の木のうちの中では、そんなに特異な木ではなかった。今は、セミをたくさんはべらせて、立派な木になっていた。
少年たちと歩きながら、僕は、自分の周りの木を見渡した。そうか、木も歳をとっていたのだ。僕がセミ獲り名人だったのは、二十年ほど前である。勢いのあった木の世代交代があってもおかしくない。セミは、そのことをよく知っていた。そして、このセミ獲り少年も。そう、今はこの少年が、真のセミ獲り名人なのだ。セミ獲り少年の背中が大きく見える。
僕はセミ獲り名人の後ろについて、新しい木やポイントを教えてもらった。

 ウゥ〜〜
 昼を知らせるサイレンの音。
「帰るぞ」
 名人は、弟くんにそう言うと、森のもっと奥へすたすた入っていった。
「お、おい」
 僕でさえ、森の奥へ行くのは勇気がいった。大きなくぎの刺さったわら人形、何百年も昔の墓……森の中には、僕が想像できないものがたくさん詰まっていた。しかし、名人は、歩きなれているようで、わき目も振らず歩いていく。蚊がたくさん飛んできた。腕にいくつかの赤斑ができ、かゆさが走った。
(ああ、この道……)
 少しずつ明るくなり、森の出口に近づいていることがわかった。
(この道を抜けると、僕の家の近くに出る……)
 弟くんの足が急に速くなった。
 森の一部を切り開いた所に、森と接するように家が新しくできていた。僕の知らない家。
「お母さん、ただいま」
 弟くんは、大きな声でその家に向かって叫んだ。返事は返って来なかったが、弟くんは走り出した。
 香ばしくて、少し甘いにおいが、その家から風に乗って届いてきた。僕は急におなかがすいてきた。
 名人も、弟くんに負けじと駆け出した。が、一瞬振り向いて、僕にニコッと微笑んだ。そのまま、大きな網を肩にかけ、虫かごを揺らして走っていってしまった。

(ありがとう)
 僕は、家の帰り方がわからなかったが、名人たちに教えてもらえた。
『ただいま』
 そう大きな声で言ってみよう。 
 僕は、靴についた泥を手で払うと、アスファルトの道に下りて、家へ向かった。

(おわり)