福井旅行2002  〜結城秀康への道

福井へ行きました。大河ドラマで「利家とまつ」をやっているせいか、北陸自動車道を走っていた車は、福井を通り過ぎ、金沢へ向かっていくように思えました。でも、私は、あえて、結城秀康の終の地福井へ向かいました。結城秀康は、最近の私のマイブームの一つになっていて、暇があると、関係のサイトへネットサーフィンしています。
 今回は、日帰り旅行ですので(それも突然決めたので)、そんなすごいところには行きませんでしたが、こんな歴史の楽しみ方(かなり一般的ではないかもしれませんが)もあるんだなと読んでくださいませ。


結城秀康とは・・・・・江戸幕府開祖・徳川家康には、多数の子どもがいました。有名な二代将軍秀忠(3男)、そして、御三家と呼ばれる義直(9男)・頼宣(10男)・頼房(11男)です。長男信康は、織田信長から疑いをかけられ、自刃。武田を名乗った5男信吉、配流になりながらも92歳まで生きた6男忠輝。早世した人、ご落胤だと言われ、正式な子どもの人数に入ってない方もいます。
 結城秀康は、豊臣秀吉の養子となり、羽柴秀康と名乗っていたこともある、家康の2男です(その後、結城氏と養子縁組をしたので、現在は、秀康を「結城秀康」と呼んでいます)。関ヶ原の戦後、一番多く加増され、加賀の前田氏に睨みを効かせるためもあり、越前67万石を領しました。しかし、34歳の若さで亡くなりました。その後、秀康の子ども達は、越前松平家(秀康自身は、松平姓に戻った、戻らなかった諸説あり)として、福井の地を治めていきます。(ひろくは、御三家と各松平家が親藩とよばれますが、狭義に御三家と越前松平家と会津松平家の5家だけを指すという)
福井城址
結城秀康の像です。福井城址には、福井の県庁の建物が建ってます。これは、そこの入り口に近いところにある像です。
 家康は、小さい頃の秀康を会うのを避けていたのですが、その理由の一つが見た目が良くない子どもだったとも言われています。そのせいでしょうか、この像は、美男ではありませんでした。


      
 福井城の復元模型
移転のため、休館になる
福井市郷土歴史博物館の前にありました。
移転したら、なくなってしまうのでしょうか。



 きれいに整った石垣。戦国時代の城の石垣の石は、形が整っておらず、大小ごちゃ混ぜの自然石を積んだ野面積(のづらづみ)が多かったが、関ヶ原以後に作られたこの城の石垣は、大きさ`が整っています(切込ハギ)。
 いろいろな大名がこの城の普請に関わっているため、石垣の石にも、それぞれの大名のマークみたいなモノが刻まれているそうです。(これは、やはり同じように多数の大名たちに手伝わせた名古屋城の石垣にも、入っています)
堀には、水が張られていました。石垣の奥は、県庁。
 
現代の建築物と石垣がなんとも不釣合い
 福井城は明治に入ってから取り壊され、石垣だけになってしまいました。その場所にデンっと県庁のビルが建ってます。
今度は、違う門から入ってみました。     →
     
 地震の時にゆがんだのでしょうか。ところどころ、きれいに並んだ石垣が乱れています。

一段高いところにある
天守台

 
本丸跡には立派な井戸がありました。この井戸から福の井(福井)になったそうです。
奥が天守台。県庁の建物の間から撮ってみました。




県庁近くにある佐佳枝廼社。ちょうどお祭りで、建物の前で蚤の市をやってました。この神社のご神体は、秀康像。

   
 柴田神社 ここは、旧北の庄城址。結城秀康の北の庄城(後年、福井城という名に変わる)を造るにあたって、かつて柴田勝家とお市の方の住んでいた北の庄城は解体されてしまいました。ガラスのケースの中には、その名残の石が入っていました。
 この神社、工事中なので(史跡公園になるそうです)、周りは縄に囲まれて、とても観光客が観るようになっていませんでした。周辺は一方通行でなかなか近づけず、車を置くところをさがすため、この付近をぐるぐる回りました。(お陰で、繁華街が近いってことがわかりました)

柴田勝家(権六)
 信長の妹 お市
二人の像の距離は、こんなくらい。(左にお市、右に権六)
 ちなみにこの夫婦が没した時、61歳と36歳だったそうです。
 足羽山にある郷土歴史資料館へ行きました。閉館前のさよなら展。ここの奥に、私の話に使った茶壷「初花」があるんじゃないかと思うと、不思議な感じでした。(新しい資料館に移されているのかもしれないけど)
 公園でおそばを食べ、近くのカエルの像をデジカメで写しているときに、運正寺に降りる一方通行の道に気づきました。そこを下って、運正寺へ。

 運正寺 34歳で亡くなった秀康は、はじめ、下の孝顕寺で葬られましたが、「徳川家は浄土宗」という家康の一言で、改葬され、菩提寺として建立された寺です。建物の所々に葵の紋が入っていました。




上の写真の草むらに、葵の紋が入った石がありました。
  
 こちらは、近くにあったもう一つの、神社などにある、手を洗う所?こちらは新しいので、近年作られたモノ?でも、放置されているかのようで、手入れされていませんでした。 
 このまま朽ち果てていくのでしょうか。
 孝顕寺 秀康が最初に葬られたという孝顕寺。草ぼうぼうでしたが、花がたくさん咲いていました。
(すぐ側の交番に場所を聞いたのですが、おまわりさんに「わからない」と言われ、一緒に住宅地図で探しました。交番の数百メートル先、足羽山トンネルの手前にありました。おまわりさんが気づかないのも納得の風景がそこにありました)
 裏に古い墓所があるというので、建物の間を通って、裏へ行きました。火事と地震のため、記録も残っておらず、墓石が崩れたままになっているものや強引に組み合わせて積まれているような墓が数基ありました(それが、一般の方の新しい墓の中に混在していました)。この中に、秀康の母(長勝院)の墓があるのでしょうか。そんな思いで手を合わせてきました。

 大安禅寺の千畳敷 四代藩主松平光通が建てた越前松平家の菩提寺。越前松平家の墓があります。ここは、1360枚の笏谷石(しゃくだにいし)が敷きつめられ、千畳敷と呼ばれています。千畳敷まで、お寺から、山へ向かってのぼっていくのですが、和尚さんのイラストの「あと少し」に何度もだまされながら、無事親子4人たどり着けました。
 入り口の石門の扉には、すかしになった葵の紋が見えるのですが、内側から見ると桐の紋を見る事ができます。(下の写真は、中から外へ向いて写しました)
 徳川の紋・葵と豊臣の紋・桐が、石の扉を閉めると内側からだけ、並んで見える仕組みになっていました。この二つの紋が入っているのは、どういう意味があったのでしょうか。(他の家の紋という可能性がないか、調査中です。結城の家紋は三つ巴)
 秀吉と家康という二人の(正確にいうと、結城家にも養子に行っているので、結城晴朝の3人)父を持つ秀康や、その子孫たちの心は、どうだったのでしょうか。  

石の門の外から中を見ると、真正面に秀康の墓が見えます。二代忠直は、大分に配流なので、ここには墓石がなく、三代(忠直の弟)とその正室、四代……と続きます。また、それぞれの大きな墓の後ろには、小さな墓がひかえるように建っています。これは、藩主が亡くなった時に殉死した家来達の墓です。


 ゴールデンウィークだというのに観光客にもほとんど会わない、史跡めぐりでした。
(このゴールデンウィーク中、利家とまつの墓は、立ち入りを制限していたそうです)