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〜13歳から18歳(中学・高校時代)〜 |
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13歳(中学1年)・・・S市立H中学校に入学。ソフトテニス部に入る。ところが、1年生は毎日のように玉拾い。夏のカンカン照りの日に「影にはいるな!」と先輩からよく怒られた。ここからはほぼ部活中心の毎日がはじまる。
14歳(中学2年)・・・反抗期真っ盛り。この頃のクラスはすごかった。授業中ははっきり言って授業になっていなかった。しかし部活では夏頃にレギュラーになることができ、体がでかいのでダブルスで前衛を担当した。顧問だったO先生から「お前のボレーはぬりかべボレーやなぁ」とよく言われた。これは誉められていたのかなぁ〜?前衛の醍醐味はたまに決めるスマッシュの瞬間だった。ボールを思いっきり上から叩きつけるのが得意だった。一方、サーブが苦手でよくダブルフォルトをしてしまい、短気だった同じペアの後衛を怒らせていた。ちなみに彼は中学3年間でラケットを2〜3本折っている。それでも、市内大会の新人戦団体の部で優勝を経験できた。しかも優勝の瞬間を自分のペアで味わえたので嬉しかった。あの時は何も考えなくても体が勝手にボールの方へ動いていた。サーブも調子よく、ボレーもよく決まっていた。ひざにはその新人戦の試合中にこけた時の傷跡が未だに残っている。その後の県大会では1回戦で撃沈したが、中学時代のいい思い出になった。 ★この年に家族がまた一人増えた。大阪で一人暮らしをしていた母方の祖母が同居することになり、家族6人になった。 15歳(中学3年)・・・新人戦の優勝以降、部活では特に好成績を残すことはなかった。夏には部活を引退し、生まれて初めての受験勉強に専念することになる。受験期の不安を解消するため、親に頼んで近くのM塾に通うことにした。この後この塾との付き合いが大学進学・就職活動など22歳になるまで続くとは夢にも思っていなかった。勉強は好きではなかったが、英語だけはなぜか好きだった。中学に入った頃から、洋楽に興味を持つようになり、自然に英語が好きになった。そこで、将来は英語の教師になろうと志すようになる。 ★一方、数学が苦手で点を取るのに苦労した。それでもなんとか志望校を決定し、公立の進学校を受けることができた。3月には公立高校入試が終わり、県立T高校に無事合格。そして中学校を卒業し、あっという間の中学3年間が終わった。 |
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16歳(高校1年)・・・県立T高校入学。この学校の特徴は、進学校なのに男子校。名物はプールサイドにある3mの飛び込み台と野球応援にのみ使われる制帽、見事なほど古くさくて斬新なデザインの青ジャージだった。 ★まずは軟式テニスを続けようとして、テニス部に仮入部したものの、玉拾いの日々に逆戻りしたことと、何か新しいことをしたかったこと、顧問の先生が厳しかったことなどの言い訳により、入部をあきらめる。しかし、何でもいいので運動がしたいと思うようになり、10月になって思い切って陸上部に入部。選んだ種目は短距離だった。これが裏目に出たのか、走るたびにスネに激痛が走るようになり、これに耐え兼ねて専門種目を円盤投げに変更した。そこでやっと自分の居場所を見つけることができ、毎日広い運動場の隅っこで円盤投げに専念する。 ★一方、勉強のほうは相変わら数学が苦手で、文系を選択することになる。 17歳(高校2年)・・・ほぼ部活中心の生活がつづく。円盤投げは初めての試合で15mほどしか飛ばなかったものが、20m、25mと徐々に距離が伸び始める。しかし、30mの壁がなかなか乗り越えられない。とりあえず、華奢な体を肉付けしようとウエイトトレーニングに励む。合宿などでターンして投げる方法も学び、飛距離が28mまで伸びるようになった。 ★勉強は相変わらず数学嫌い。点数も底をつき始め、欠点すれすれになることもあったが、なんとか平常点でカバーした。 18歳(高校3年)・・・6月終わりに部活を引退。円盤投げの自己ベストは32m45cmだった。県大会では30mを越えなければ、計測してもらえなかったので、最後の試合で30mを超えることができ、自己ベストを記録できてほっとした。 ★部活が終わると、人生で2回目の受験勉強に入り、中学の頃に志した英語の教師を意識して、大学の教育学部を志望するようになる。そこで、高校受験でもお世話になったM塾に再び入塾し、運良く受けることができた推薦入試突破を目指して小論文の指導を受ける。そして、某大学の推薦入試を受けるが、面接で緊張しすぎて失敗。 ★1月にはセンター試験を受けるが、推薦で受けた学校を再び受けられるほどの点数が取れず、経済学部志望に急遽進路変更。小論文を試験に活かせる地元のS大学を受け、無事合格できた。この時点で英語の教師になる夢はあきらめ、大学生活の中で自分の夢を模索することに決める。3月には無事高校を卒業し、長いようで短かった高校時代が終わった。 |